偽りの誓い、私だけの星

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偽りの誓い、私だけの星

GoodNovel 完結

小野木純夏(おのぎ すみか)が病院の前を行ったり来たりするのも、これで七度目だった。ようやく心を決め、採卵手術を受けることにした。 ところが、受付で提出した書類を確認していた看護師が、不思議そうに首をかしげた。 「あの、小野木さん。念のため確認させていただきたいのですが……本当に婚姻届は提出されていますか?」 純夏は面食らいながらも答えた。 「もちろんです。主人とは結婚して五年になりますけど」 「こちらの書類を見る限り、ご主人との婚姻関係が確認できないんです。まれに、相手が婚姻届を出したと言いながら、実際には提出していなかったというケースもありますので……一度、戸籍を確認されたほうがいいかもしれません」 遠回しな忠告に、純夏は思わず笑いそうになった。 世の中には、そんな無責任な男もいるのだろう。けれど彼女の夫・小野木克己(おのぎ かつみ)に限って、それはない。 結婚して五年、小野木家の年長者からは子どものことで幾度となく圧力をかけられてきた。純夏はかつてのトラウマのせいで、なかなか子宝に恵まれずにいた。 そのたび克己が間に立って庇い、本家から折檻を受けたことも十度は下らない。一族の年長者たちと言い争ったことさえあった。 「妻の健康を犠牲にしてまで、子どもを望むつもりはありません」 克己の献身を思うたび、胸が痛んだ。これ以上傷ついてほしくない一心で、純夏は内緒で採卵手術を受けに来たのだ。 何かの手違いだろうと思った純夏は、深く考えず、別の病院でも診てもらおうとした。 そのとき、スマホが鳴った。家政婦の高橋からだった。 「奥様、大変です、すぐお戻りください!旦那様が書斎で正座させられて、大旦那様がゴルフの素振り棒を振るって!今回はただ事じゃないようです!」 ――きっとまた、私のせいだ。 胸が締めつけられるのを感じながら、純夏は病院を飛び出した。 本家に駆けつけると、書斎の扉は固く閉ざされていた。それでも、中から漏れる押し殺した言い争いの声までは遮れない。 扉に手をかけようとしたそのとき、怒気を孕んだ克己の母・小野木朋恵(おのぎ ともえ)の声が響いた。 「克己、灯里のことはもう吹っ切ったと言っていたわよね。だったら、書斎の隠し部屋の壁一面を埋め尽くしている彼女の写真は、いったい何なの!?」

チャプター (1)

第1章

小野木純夏(おのぎ すみか)が病院の前を行ったり来たりするのも、これで七度目だった。ようやく心を決め、採卵手術を受けることにした。 ところが、受付で提出した書類を確認していた看護師が、不思議そうに首をかしげた。 「あの、小野木さん。念のため確認させていただきたいのですが……本当に婚姻届は提出されていますか?」 純夏は面食らいながらも答えた。 「もちろんです。主人とは結婚して五年になりますけど」 「こちらの書類を見る限り、ご主人との婚姻関係が確認できないんです。まれに、相手が婚姻届を出したと言いながら、実際には提出していなかったというケースもありますので……一度、戸籍を確認されたほうがいいかもしれません」 遠回しな忠告に、純夏は思わず笑いそうになった。 世の中には、そんな無責任な男もいるのだろう。けれど彼女の夫・小野木克己(おのぎ かつみ)に限って、それはない。 結婚して五年、小野木家の年長者からは子どものことで幾度となく圧力をかけられてきた。純夏はかつてのトラウマのせいで、なかなか子宝に恵まれずにいた。 そのたび克己が間に立って庇い、本家から折檻を受けたことも十度は下らない。一族の年長者たちと言い争ったことさえあった。 「妻の健康を犠牲にしてまで、子どもを望むつもりはありません」 克己の献身を思うたび、胸が痛んだ。これ以上傷ついてほしくない一心で、純夏は内緒で採卵手術を受けに来たのだ。 何かの手違いだろうと思った純夏は、深く考えず、別の病院でも診てもらおうとした。 そのとき、スマホが鳴った。家政婦の高橋からだった。 「奥様、大変です、すぐお戻りください!旦那様が書斎で正座させられて、大旦那様がゴルフの素振り棒を振るって!今回はただ事じゃないようです!」 ――きっとまた、私のせいだ。 胸が締めつけられるのを感じながら、純夏は病院を飛び出した。 本家に駆けつけると、書斎の扉は固く閉ざされていた。それでも、中から漏れる押し殺した言い争いの声までは遮れない。 扉に手をかけようとしたそのとき、怒気を孕んだ克己の母・小野木朋恵(おのぎ ともえ)の声が響いた。 「克己、灯里のことはもう吹っ切ったと言っていたわよね。だったら、書斎の隠し部屋の壁一面を埋め尽くしている彼女の写真は、いったい何なの!?」 第1話 ――灯里? その名前を聞いた瞬間、純夏の体がこわばった。 大学時代、成績で純夏に一位を奪われたことが許せず、卒業制作を台無しにし、トイレに閉じ込めて水をかけ、あろうことか無理やり服を剥ぎ取って隠し撮りまでした、あの堂田灯里(どうだ あかり)のこと? ドアノブにかけた手が、そのまま止まった。無意識に、純夏はさらに扉へとにじり寄っていた。 「母さん、灯里のご両親は、僕を助けようとして亡くなったんです」 克己の声は、疲れきったように低く沈んでいた。 「お二人が亡くなる間際に、僕は灯里の面倒を一生見ると約束しました」 「面倒を見る?あんな風に甘やかすことが、面倒を見るということなの?同級生をいじめて、純夏まで苦しめて、それどころか」 朋恵の声が詰まる。 「よりにもよって、人に純夏を襲わせたなんて!克己、あなたは法律を学んだ身でしょう、それがどんな罪か分からないはずがないでしょう!」 純夏は息を呑んだ。耳の奥で、鈍い耳鳴りがした。 「……分かっています」克己の声は、ひどく掠れていた。 「でも、あのとき灯里はまだ二十歳だったんです。黙って刑務所へ送るような真似が、僕にできると思いますか。 僕は土下座してまで、灯里を国外に出してくれと頼みました。純夏には、結婚して一生守り抜くことで償ったつもりです。それでも足りないと?」 ぱしん、とゴルフの素振り棒が振り下ろされる音。 克己の父の小野木耕造(おのぎ こうぞう)は怒りを抑えきれない様子だった。 「結婚式は挙げず、婚姻関係まで偽装し、その上、自分の体にまでメスを入れるとは! あろうことか、灯里をこっそり国内に呼び戻して、一ヶ月も世話をしていたそうじゃないか。克己、これのどこが償いだと言うんだ」 克己は長い沈黙のあと、灯里をかばうような声で口を開いた。 「灯里は向こうでろくに食事も睡眠もとれず、半年のうちに三度も入院したんです。言葉も通じず、友達もできず、大家に追い出され、コンビニのバイト先でもいじめに遭って…… 父さん、彼女はもう十分すぎるほど罰を受けています。若気の至りで犯した過ちに対して、これ以上、どうしろと言うんですか。 僕はただ、これ以上灯里が苦しむのを見ていられないだけです」 扉の外、壁に添えていた純夏の手が、ずるずると滑り落ちていった。 五年前の雨の夜。空き教室に引きずり込まれたとき、加害者たちが忍び笑いを浮かべながら口にした言葉を、純夏はうっすらと覚えている。 「灯里さんが、とことんやれって言ってたぞ」 そのあと、克己の腕の中で震えながら、純夏は首謀者の名前を口にした。 克己は長いこと黙り込み、やがて優しく背中を撫でながら慰めてくれた。 「……純夏、これは事故だったんだ。あいつらにはもう対処したから」 あのとき、純夏は本気で克己を信じていた。 克己は学校でも評判の、誠実な人間だったからだ。嘘をつかず、誰に対しても公平で、いつだって正義と弱者の側に立っていた。 灯里が仲間を連れて純夏を取り囲んでいるのを目撃したときに、克己はその場で灯里に謝罪させ、撮った写真をすべて消させた。 そして冷たく言い放った。「今度また、お前たちが誰かをいじめているところを見たら、警察に通報するからな」 あの日、服を破かれて教室の隅にうずくまっていた純夏に、上着を脱いで羽織らせてくれたのも克己だった。 好奇の視線からかばうように廊下を歩き、克己はきっぱりと言い切った。「自分を抑えられなかった僕が悪い。純夏は関係ない」 一夜にして、克己がすべての汚名を引き受けた。 純夏はそれ以上傷つくことなく克己に守られ、そして真剣な告白を受けたのだ。 「純夏、僕と結婚してくれないか。ずっと前から好きだった。ただ、君はいつもうつむいてばかりで、僕に気づいてくれなかった」 あのとき、純夏の灰色だった世界に、一筋の光が差し込んだ気がした。 この五年間、克己は少しずつ純夏を惨めな過去から引き上げ、背筋を伸ばして生きることを、そして人を愛することも、憎むことも恐れないよう教えてくれた。 事件の後遺症のせいで子を授かりにくいと告げられたときも、純夏の髪に口づけてこう言ってくれた。 「子どもは縁があればできるものだ。いなくてもいい」 この五年間、純夏はその思い出に幸せを感じながら、同時にずっと後ろめたさを抱えてもきた。 けれど今この瞬間になって初めて知った―― 受け取ってきた愛のすべては、哀れみから生まれたものだったのだと。 あの誰よりも実直で公正だったはずの克己が、灯里のために私情で事実を揉み消し、結婚そのものまで偽っていたのだと。 書斎の中、克己の声がふっと低くなった。そこには、どこか残酷なほどの確信があった。 「純夏は僕を愛しています。僕さえ黙っていれば、純夏が知ることは永遠にない。この先も一生大切にします。それで十分でしょう」 純夏は不意におかしくなって、笑いがこみ上げた。笑っているうちに、目の縁がじわりと赤く染まっていく。 彼女はゆっくりと、けれど確かに、背筋を伸ばしていった。 そのとき、扉の向こうで克己のスマホが鳴った。慌てて出た声には、これまで一度も聞いたことのない緊張が滲んでいた。 「灯里?どうした、何かあったのか?大丈夫、すぐ行くから」 電話を切ると、乱れた服装を直す暇も惜しんで、克己はまっすぐ書斎の扉を開け放った。 だが、扉が開いた瞬間、克己の動きがぴたりと止まった。 純夏は扉のすぐ外に立ち、静かに克己を見つめていた。 第2話 二人の視線が交わる。 克己の呼吸がかすかに乱れ、瞳の奥にはっきりとした動揺がよぎった。 「純夏?どうしてここに」 純夏はじっと見つめ返した。やがて、静かな声で口を開く。 「高橋さんから、書斎でお叱りを受けていると聞いて。心配になって、戻ってきたの。私の手術のことで、またお義父様たちに何か言われたの?」 克己の視線が、純夏の抱える救急箱へと落ちる。それから気を取り直すように言った。 「今までも何度もこうやってやり過ごしてきたんだ。今回も同じだよ。安心してくれ。君のためなら、僕は絶対に折れない」 そう言いながら、克己の目は無意識にスマホへと流れていく。 取り繕うような優しさに、純夏はふと笑みをこぼした。「用事があるなら、先に行って。私は一人で帰れるから」 克己は急いで去っていき、階段の向こうへ足音が消えていった。 耕造と朋恵が去り、書斎に純夏だけが残されると、その顔から笑みが消えた。そして初めて、自分の足で書斎の中へと踏み込んだ。 壁に掛けられた絵は克己が大事にしていたもので、以前、高橋が掃除中に額縁をうっかり動かしてしまったとき、珍しく声を荒げたことがあった。 今、純夏は手を伸ばし、そっとその額縁を押しのけた。絵の裏には、小さな隠し部屋があった。 隠し部屋の壁一面を埋め尽くしていたのは、すべて灯里の写真だった。 十歳の誕生日、克己の服の裾を引っ張って笑う灯里。卒業式、花束を抱えて克己に飛びつく灯里。 純夏は一枚一枚、表情も変えずに見ていった。 そして、隅にあった一枚の写真に目が留まった。ロンドン・アイを背景に並んで立つ、克己と灯里の写真だった。 右下には手書きで日付とひと言が添えられていた。 【灯里の二十三歳の誕生日。ホームシックだと言っていたから】 その日のことを、純夏もはっきりと覚えている――あれは、自分が急性虫垂炎の手術を受け、病室の外で四時間も克己を待っていた日だ。 クリスマスイブ、克己は海外まで飛んで灯里のために盛大な花火を上げ、こう書き残していた。 【灯里が、いつも健やかで幸せでありますように】 その日は、純夏たちの結婚一周年の日だった。冷めていく料理を前に一人待ち続け、克己から届いたのはたった一言。【忙しい、出張中だ】 灯里がコンビニでアルバイトをしている姿をこっそり撮った写真には、こう書かれていた。【灯里がこんな苦労をしてるなんて、見ていられない】 その日、純夏は過去のトラウマの後遺症で発作を起こし、七度目の入院をしていた。 カウンセリングルームでパニックを起こし、手当たり次第に物を壊し、最後には部屋の隅でうずくまり震えていた。 翌日、慌てて駆けつけた克己は、純夏を抱きしめてこう言った。 「純夏、怖がらなくていい。もう終わったことだから。怖がらないで、僕は絶対に君を置いていかない」 しかし現実は、克己はもう何度も純夏を置き去りにしていたのだ。 写真の下に添えられた手書きの記録は、まるで鈍い刃物のようだった。この五年間、幸せだと信じ込んでいた記憶を、ゆっくりと、少しずつ切り刻んでいく。 純夏は絵を元の位置に戻し、病院に電話をかけた。 「高木先生、小野木です。母の転院手続き、一番早くていつになりますか」 電話を切ると、大学時代の友人の連絡先を開き、もう一件電話をかけた。 「もしもし、純夏です……」 克己が家に帰り着いたのは、すでに午前三時を過ぎた頃だった。 リビングには間接照明だけが点灯しており、純夏はソファにもたれて眠っていた。膝の上のノートパソコンの画面は、まだ点いたままだった。 克己は身をかがめ、寝室へ運ぼうと抱き上げようとする。 肩に触れた瞬間、純夏ははっと目を覚まし、真っ先にパソコンの画面を閉じようとした。 その動きが速すぎて、克己には一瞬、画面が見えてしまった。いくつかの評判のいい病院の紹介ページだった。 「何を見てたんだ?」 純夏はパソコンを閉じながら答えた。「ちょっとね。母の体調が良くないから、もっといい病院がないか探してただけ」 克己は隣に腰を下ろした。「そういうことは僕が手配するから」 純夏の落ち着いた横顔を見つめながら、克己は胸の奥に押し込めていた不安が、また頭をもたげるのを感じていた。 言葉を選びながら切り出した。「今日、本家にいたのは……本当に、ちょうど来たところだったのか?」 純夏はまっすぐ克己の視線を受け止めた。その目は澄み切っていた。 「そうよ、何がおかしい?それより顔色が悪いね。何かあったの?どうしてこんなに遅くなったのかしら」 克己は無意識に視線をそらした。「友人のトラブルの処理を少し手伝っていたんだ」 「前に話してた、ご両親があなたの恩人だっていう人?」純夏が言った。 それを覚えていたことに、克己は少し驚きながら頷いた。「帰国してから環境になじめなくて、精神的に不安定になって、夜中まで付き合わされていたんだ」 「そう」純夏はさらりと言った。「だったら、うちに来てもらえばいいんじゃない。ゲストルームは空いてるし、一人ぼっちで放っておかれるよりはましでしょう」 克己は驚いた様子だった。 「本気で言ってるのか?誰であっても構わないのか?」 「もちろん」純夏の口調は自然で、微笑みさえ浮かべていた。 「家にいってもらったほうが、目も届きやすいでしょう。それに、あなたが大切にしている人なら、私も大切にしたいから」 克己は純夏を強く抱きしめた。声は髪に埋もれてくぐもっていた。 「純夏、君はいつも、本当に優しいな」 第3話 翌朝早く、純夏は階下の物音で目を覚ました。 リビングは見る影もなく様変わりしていた。 大切にしていた花瓶も、自分で編んだ毛布も、部屋の隅に放り出されていた。代わりに置かれていたのは、けばけばしい色使いの現代風のオブジェやラグだった。 その模様替えを指図していたのは、灯里だった。 五年ぶりに見る灯里は、相変わらず流行のブランド物を身にまとい、使用人たちにあれこれ命じていた。 「そう、あの絵も捨てちゃって。ダサすぎるでしょ!」 使用人は純夏に気づくと、困った様子で言った。 「奥様、こちらの灯里様が朝から人を連れていらして……旦那様のご了承を得ていると仰って……」 「分かってる。もう下がってていいわ」 灯里が振り返り、純夏を上から下まで眺め回した。そこには隠しもしない軽蔑の色があった。 「あら、奥様気取り?昔、トイレで押さえつけられ、泣きついて許しを請うていたときとは、ずいぶん違うのね」 純夏は何も言わず、ただ灯里を見つめていた。 その視線に居心地の悪さを覚えたのか、灯里が声を荒げた。 「昔みたいに黙っていれば、それで済むと思ってるの?いいわ!」 灯里はわざと純夏がいつも使っているクッションを床に投げ捨て、ヒールで踏みにじった。それから暖炉の前へ歩み寄り、飾ってあった克己との写真立てを掴んで床に叩きつけ、粉々にした。 純夏は、それでも黙ったままだった。 ついに苛立ちを募らせた灯里は、リモコンを掴んでプロジェクターを起動させた。 画面が明るくなる。映し出されたのは五年前、トイレの個室。縛られた純夏の前に、バケツを持った灯里が立っている光景だった。 「純夏、一位を横取りするのが好きなんでしょ?今日はきっちり思い知らせてあげるわ!自分の身の程をわきまえなさいよ!」 頭から冷水が浴びせられた。 ずぶ濡れになった純夏はみっともなく崩れ落ち、何度立ち上がろうとしても、そのたびに突き飛ばされた。 映像の中の、絶望しきった自分。得意げな灯里の顔。周りで無表情に、あるいは笑いながら見ている顔。 気づけば、純夏は拳を強く握りしめていた。 灯里は時折ドアの方をちらちらと見ながら、なおも挑発を続けた。 「見なさいよ、当時の自分がどれだけ惨めだったか、しっかり見なさいって!」 その望みどおり、純夏は大きく手を振り上げた。乾いた平手打ちの音と、扉が開く音がほぼ同時に響いた。 灯里の体が、勢いよく床に倒れ込んだ。 克己がすぐさま駆け寄り、灯里を抱え起こして背後にかばった。 「何をしてるんだ!」 灯里は赤く腫れた頬を押さえ、たちまち涙をあふれさせた。 「私はただ純夏さんに謝りたかっただけなのに……なのに……」 克己が純夏に向けた眼差しには、失望の色が滲んでいた。 「純夏、話せば済むことだろう。どうして手を上げるんだ」 純夏は弁解しなかった。ただ、じっと克己を見つめてから、視線を再生され続けているプロジェクターの画面へと移した。 克己もその視線を追った。 画面の中では、灯里がバケツを掲げ、冷水を浴びせている。びしょ濡れで床にうずくまる純夏の周りを、何人もの女子が囲んで笑い転げている。 克己の体が、目に見えて強張った。灯里を支えていた手が、無意識にほどけた。 純夏の目から、音もなく涙がこぼれ落ちた。 克己は胸が締めつけられ、涙を拭おうと手を伸ばした。 「ごめん、僕は灯里がこんなことをしたなんて……知らなかったんだ」 純夏は一歩下がり、その手を避けた。 克己の手が宙で行き場を失った。深く息を吸い、灯里の方へ向き直った。 「どうしてこんな映像を残していたんだ?しかも純夏の前で流すんだ!」 すると灯里は突然頭を抱えてしゃがみ込み、体を丸めて震え出した。 「叩かないで、怒らないで……私が悪かったの、ちゃんと分かってるから……」 まるでひどく怯えたように、灯里は激しく泣きじゃくった。 克己は本能的に膝をつき、灯里を抱き寄せて背中をさすった。「大丈夫だ、怖くない。僕がここにいるから」 純夏は、その光景を静かに見つめていた。 あまりにも、見慣れた光景だった。 この五年間、トラウマの記憶に心が崩れそうになるたび、克己はいつもこうして抱きしめてくれた。 わざわざ心理学の本で学んだのだと言っていた。それが安心感を与えるのだと。 今、克己は純夏に使っていたのと同じ抱き方で、灯里を慰めていた。 純夏は胸の奥を重いもので塞がれたようで、息をするのもやっとだった。 克己の肩越しに、灯里が投げてよこす勝ち誇った視線がぶつかった。純夏はもう意味のなくなった涙を、静かに指先で拭った。 最初から分かっていたことだ。挑発してから泣き崩れ、弱さを見せるまで、すべては克己に見せるための芝居に過ぎない。 それでもあえて挑発に乗って平手打ちをした。克己がどちらを選ぶのか、確かめたかったからだ。 そして、答えは出た。灯里が泣いた瞬間、克己は迷わず選んだのだ。 ――本当に、くだらない。 純夏は身を翻し、階段を上っていった。振り返ることはなかった。 一時間後、克己が寝室のドアをノックした。 戸口から聞こえた克己の声には、疲れが滲んでいた。 「灯里がホテルに一人でいるのが、可哀想に思えただけなんだ。帰国したばかりで、まだ慣れていなくて。 ご両親は、僕を助けようとして亡くなったんだ。一生面倒を見ると約束した。 ごめん、純夏。分かってる、あんなことをすべきじゃなかった……」 「診療記録を見せて」純夏が言葉を遮った。 克己は面食らった。「え?」 「灯里の診療記録。世話をするなら、まず病状を知っておくべきでしょう。向こうでどんな目に遭ったのかも。そこから治療の手がかりが見つかるかもしれないし」 克己は、完全に言葉を失っていた。 第4話 「どうしたの?」純夏が静かに尋ねた。「まあ、都合が悪いなら、いいけど」 「いや」克己が我に返った。 「君がそんなことを言うとは、思わなかっただけだ。純夏、灯里を恨んでないのか?あんなことをされたのに……」 「恨んでるわよ。でも、あれは若くて分別がなかったからでしょう。今こうして苦しんでいるのを見たら、放っておけないだけ」 克己は立ち上がり、そっと純夏を抱き寄せた。顎を髪の上に乗せた。 「分かってくれて、ありがとう」 数分後、克己は書斎からノートパソコンを持ってきて、暗号化されたフォルダを開いた。 「これが、灯里が海外にいた五年間の資料だ」 純夏は一ページずつ、目を通していった。 通院記録、SNSの投稿履歴。新しい友人と知り合うたびに、その人物についての詳細な調査報告まで添えられていた。 克己が本当に大切に思う相手には、こんなふうに、今日どんな授業を受けたか、きちんと食事を取れているかまで気にかけるのか。 この五年間、純夏が日常の些細な出来事を伝えても、そのほとんどは適当に聞き流されていた。 今になって、ようやく分かった。些細な話に興味がないのではなく、ただ、純夏に対してだけ、興味がなかったのだ。 「どうした?」 画面を見つめたまま固まる純夏に、克己が声をかけた。 純夏は胸の奥にこみ上げるものを押し殺し、首を横に振った。 「詳しくまとまってるのね。コピーしておくわ」 整理を終えたときには、もう午後五時を過ぎていた。純夏は荷物をまとめ、病院へ向かう支度を始めた。 克己が保温ポットを何気なく受け取った。 「僕も一緒に行くよ」 この五年間、克己が母の見舞いに付き添ったことは、数えるほどしかなかった。 いつも「介護士も医師もついているから」「会社が抜けられない」と理由をつけて断っていたのに、たまに来ると、純夏の母はいつも決まって嬉しそうにしていた。 案の定、病室の扉が開くと、母の後藤佐智子(ごとう さちこ)は克己の姿を見て目を輝かせた。 「克己くん、来てくれたの?今日はお仕事は忙しくないの?」 「どんなに忙しくても、時間を作って伺いますよ」克己は微笑みながらベッドの脇に歩み寄った。「最近の調子はいかがですか」 佐智子は克己の手を握り、最近の治療の様子をあれこれと話し始めた。克己は根気強く耳を傾け、時折細かいことを尋ねていた。 その傍らで、純夏は久しぶりに見る佐智子の笑顔を眺めながら、胸の底に重い石を抱えたような気持ちになっていた。 母を連れて、ここを出たい。そう切り出す言葉が、どうしても見つからなかった。 「純夏?」克己が呼びかけた。「何をぼんやりしてるんだ」 我に返ると、佐智子がにこにこと純夏を見ていた。「克己くんが、今夜何が食べたいか聞いてくれてるのよ。家で用意してくれるって」 そこへ、主治医の高木先生が扉を開けて入ってきた。 「克己さんもいらしてたんですね。ちょうどよかった、お義母様のこれからの治療方針について、少しお話ししたいことがありまして」 三人はそろって診察室へと移動した。 高木先生がカルテを開き、今後の治療方針を説明し始めた。話が半ばまで進んだところで、ふと顔を上げた。 「そういえば、転院の件は、もう手配が済んでいます……」 克己が怪訝そうな顔を向けた。純夏がとっさに言葉を挟もうとした、その瞬間。 「ドン」という鈍い音が響いた。 母の病室からだ。純夏の顔色が変わり、慌てて外へ走り出した。 病室の中では、佐智子が床に倒れ、胸を押さえながら苦しそうに息をしていた。 ベッドの端に立っていた灯里が、慌てて手を振った。「違う、私じゃない、私じゃないから!」 純夏はそれを気にも留めず、まっすぐ佐智子のもとへ駆け寄り、吸入薬を手早く二度噴霧した。 けれど佐智子の呼吸はますます荒くなり、喉の奥からゼイゼイという音が漏れ始めた。 「先生!先生、来てください!」純夏は声を震わせながら、廊下に向かって叫んだ。 克己がすぐさまベッド脇の緊急ボタンを押し、医師と看護師が駆け込んできた。 「ご家族の方は外へ!すぐに処置に入ります!」 看護師に病室の外へ押し出されながら、純夏は目を赤く染めて、傍らに立つ灯里を睨みつけた。 「あなた!母に一体何を言ったの!」 灯里は怯えたように後ずさった。「私はただ、様子を見に来ただけで……」 「出て行って!今すぐ、ここから消えて!」純夏は扉を指さし、体を震わせながら怒鳴った。 克己が純夏を胸に抱き寄せた。「純夏、落ち着いてくれ!」 「あなたも出て行って!彼女を連れて、今すぐ!」 克己は純夏の青ざめきった顔を見つめ、声を和らげた。「分かった、灯里は僕が連れて行く。焦らないで、お義母さんはきっと大丈夫だから」 灯里の肩を抱き、克己は足早に病室を後にした。 ほどなくして、処置室から医師が出てきた。「ご安心を、お母様の状態は落ち着きました。中へどうぞ」 純夏はよろめきながら病室に入り、佐智子の手を握りしめた。声が震えた。「お母さん、本当に心配したんだから……」 佐智子は純夏を見上げ、怒りに胸を上下させながら言い放った。 「本当に役立たずね!こっちが仮病まで使ってあげたっていうのに!」 第5話 純夏は固まった。 「お母さん、今、何て……」 佐智子は息を整えると、なおも詰った。 「私が何も見抜けないとでも思ってるの?夫の心ひとつ繋ぎ止めておけなくて、あんな女に大きな顔までさせて! 昔あんな目に遭ったんだから、彼があんたを『汚れた女』扱いして、他の女に手を出したがるのも当然でしょう。めそめそ泣いたって何にもならない。 あんたがすべきことは、夫のお金をしっかり握っておくことよ!」 佐智子のそろばん勘定めいた説教を聞きながら、純夏はふと動きを止めた。全身から、すっと血の気が引いていくのを感じた。 やがて、静かに口を開いた。「大学のとき、いじめに遭ってた頃、傷が増えていく私に、お母さんはたった一度だけ聞いたわね。誰にやられたのか、賠償金は取れそうか、って」 あのとき純夏は、一位の座を手放せばもういじめられずに済むかもしれないと思ったこともあった。けれど、一位の奨学金は母の命綱で、手放すわけにはいかなかった。 「でも今になって、ようやく分かった。私が痛いかどうかなんて、これっぽっちも気にしていなかった。ただ、賠償金が取れるかどうかだけが大事だったのね」 佐智子の表情がこわばった。 「何よ、その言い方は。私がああやって教えてやらなかったら、あんたが小野木家の奥さんになんてなれたと思ってるの?」 純夏はゆっくりと立ち上がった。 「そうね。小野木家の奥さん、ずいぶん立派な肩書きだこと。でも、もう二度と、あなたのために我慢するつもりはないから」 そう言い終えると、純夏は扉を開け、振り返ることなく病室を後にした。悔しさに任せて何かをまくし立てる佐智子の声を、背中で振り切るように。 灯里の一件で母を急変させてしまったことに、克己はいくらか良心の呵責を覚えたのかもしれない。 その後の二日間、会食や付き合いをいくつか断り、時間どおりに家へ帰ってきた。 自分から言い出しさえした。 「約束してた月一のデートの日、ずっと守れてなくてごめん。今日は空けてある。何がしたい?」 海外行きの航空券を手配していた純夏は、思わず手を止めた。それは結婚一年目に、純夏が自分で決めたルールだった。 あの頃、克己はいつも忙しく、すれ違いの生活が続いていた。 それでも普通の恋人同士のように過ごしたくて、純夏は小さなカプセルトイの機械を手作りし、中に願い事を書いた紙をぎっしり詰め込んだのだ。 毎月、そのカプセルトイを回す日を、何よりも楽しみにしていた。 克己も何度かそれに付き合ってくれた。遊園地のメリーゴーランドに一緒に乗ったり、陶芸を一緒にやったり。 けれど、忙しさはどんどん増していった。あるとき、一週間前からデートの日を知らせておいたのに、克己は疲れた様子で眉間を揉みながら言った。 「純夏、疲れてるんだ。少しは分かってくれないか」 それ以来、純夏は二度とその話を持ち出さなかった。 「何を考えてるんだ?」 克己の声が、純夏を現実に引き戻した。 物置からそのカプセルトイの機械を探し出してきていた。埃をかぶっていた機械は、きれいに拭き上げられていた。 純夏が黙っているのを見て、克己は自分からダイヤルを回した。カラフルなカプセルが一つ、転がり出た。 中の紙にはこう書かれていた。【ウェディングフォトを撮る】 数秒、沈黙が流れた。 「今回はもういいから」と言いかけた純夏より先に、克己がその手を握っていた。 「僕が手配するよ。今日の午後、行こう」 克己は手短に電話をかけ、その日の午後、二人は貸し切りにされた高級ウェディングドレス店を訪れた。 かつて純夏は、克己と挙げる結婚式や、二人で撮るウェディングフォトを、何度も夢に描いたことがあった。 けれどようやくその夢が現実になろうとしている今、なぜか昔ほどの高揚は湧いてこなかった。 「奥様、お好みのドレスをお選びくださいね」店長が愛想よく声をかけ、純夏の物思いを断ち切った。 隣に立つ克己も、期待するような眼差しを純夏に向けていた。 純夏は、クリスタルをふんだんにあしらった華やかなドレスの数々を通り過ぎ、最後にシンプルなサテンのマーメイドラインのドレスの前で足を止めた。かつて自分が好きだったデザインだ。 今日は、二十歳だった頃の自分の夢を、叶えてあげよう。純夏はそう思った。 ドレスに着替えて出てくると、克己は仕事の電話を受けている最中だった。 物音に気づいて振り返り、そのまま言葉を失ったように黙り込んだ。 「よく似合ってる」いつの間にか背後まで来ていた克己が、少し掠れた声で言った。「本当に、きれいだ」 店員が横で笑いながら言った。「お二人、本当にお似合いですね。並んでいらっしゃると、絵になります」 克己はそっと純夏の肩を抱き、鏡に映る二人の姿を見つめながら、珍しく口元を緩めた。 カメラマンが尋ねてきた。「どんな雰囲気で撮りましょうか。ロマンチックな海辺、クラシックな庭園、街中でのカジュアルな感じもございますが」 「スタジオでお願いします」純夏が静かに答えた。「シンプルな感じで」 克己が「うん」と頷いた。「他のイメージが気に入ったら、また今度撮りに来よう」 メイクを終え、髪をセットし、ベールをつけた。 克己が純夏を撮影スペースへと導き、腰に自然に手を回して自分の方へ引き寄せた。慣れた、親密な仕草だった。 純夏の体がわずかにこわばった。 「はい、旦那さん、いい感じです」カメラマンの声が笑みを含んで響いた。それから純夏に向かって言った。 「奥さんも、もう少し力を抜いて。もっと寄り添うように……そう、とても素敵です。 はい、いいですよ!」 カメラマンが手を挙げた。 「では、三、二……」 シャッターが切られようとした、まさにその瞬間。けたたましいスマホの着信音が鳴り響いた。 克己は眉をひそめ、無意識にポケットへ手を伸ばした。画面が点灯し、発信者の名前がはっきりと浮かび上がった。 【灯里】。 第6話 克己は画面に表示された名前を見つめたまま、通話終了ボタンの上で指を止めた。 結局、着信を切り、スマホを傍らの椅子の上に伏せて置いた。 「続けよう」そう言って、もう一度純夏の腰を抱き、カメラマンに合図した。 カメラマンがレンズを調整した。 「はい、では続けましょう。旦那さん、奥さんの方をご覧ください。もう少し、優しく見つめる感じで」 克己は純夏を見つめ、口元に自然な笑みを浮かべていた。けれどその視線は、抑えきれずに椅子の上へと逸れていった。 スマホは、途切れることなく震え続けていた。 純夏の顔から、笑みが少しずつ消えていった。 「一度止めましょうか」不意に、純夏が口を開いた。 克己ははっと我に返り、腰に回した手に力を込めた。「純夏?」 けれど純夏は、腰に添えられた手をそっと外した。 「出て。もし灯里さんに、本当に大事な用があったら困るから」 克己は一瞬迷ったものの、結局早足で歩み寄り、スマホを手に取った。 電話に出るなり、灯里の泣き声混じりの声が飛び込んできた。 「克己、ネット上に、私が恥知らずな不倫相手だっていう投稿が溢れてるの!今、パーティー会場でみんなに囲まれて…… 純夏さんのお友達まで、私のこと恥知らずだって罵ってて……もう怖いよ、早く助けに来て!」 克己は眉をひそめ、思わず純夏を見た。 純夏はすでに自分の手で、頭のベールを外していた。 そして落ち着いた口調で言った。 「私がやったことじゃないわ。様子を見に行く?一緒に行くけど」 克己は純夏の冷静な表情を見て、また例の違和感が胸に浮かぶのを感じた。だが電話の向こうで灯里の泣き声はますます切迫し、周囲も騒然としている様子だった。頷くしかなかった。 「行こう」 車は一気にジュエード・ホテルへと走った。 到着すると、灯里は数人の着飾った男女に取り囲まれ、顔面蒼白になっていた。 一人の女性が灯里を指さしながら詰め寄っていた。 「夜中に克己さんと抱き合ってる写真、みんなにばら撒かれてるのよ。私たちを馬鹿だと思ってるの?」 そばにいた別の誰かも加勢した。 「克己さんと純夏さんは結婚して五年、ずっと仲がよかったのに、あなたが割り込んでどういうつもり?」 灯里は涙をぽろぽろこぼしながら、必死に首を横に振った。 「違うんです……克己とは、ただ……」 「ただ、何?」女性は容赦なく畳みかけた。「ただの友達?はいはい、性悪女はみんなそう言うのよね!」 克己は人垣をかき分けて中へ入り、灯里を背後にかばった。 「もういい加減にしないか」彼の声は冷たく鋭かった。 「証拠もない噂話で、こんな場で騒ぎ立てる必要があるのか」 女性は克己の視線に一瞬気圧されたが、それでもなお、宴会場の大型スクリーンを指さした。 「私たち、根拠なく言ってるわけじゃないんです。潔白だっていうなら、どうしてこんな写真を撮られるんですか?どうしてこんな場所でばら撒かれるんですか?」 克己が指の先へ目をやると、スクリーンに映し出されていたのは一枚の写真だった。 夜、車のそばで、克己が灯里の腰に半ば手を回し、顔を寄せて何か話していた。灯里は顔を上げており、角度のせいでまるでキスをしているように見えた。 克己が眉を寄せて何か言おうとした、その時。それまで黙って傍らに立っていた純夏が、ぽつりと呟いた。 「まあ、確かに、親密そうに見えるわね」 克己が勢いよく振り返った。 「純夏!こんな時に、他人の肩を持って変なことを言うなよ!」 その言葉に、克己の腕の中にいた灯里が深く傷ついたふりをして、体を大きく震わせた。 「純夏さん、そんなに私が嫌いなの?私は克己もあなたも、家族みたいに大切に思ってたのに、どうしてそんなことを言うの……」 そう言いながら、灯里の呼吸が急に荒くなっていった。 片手で胸を押さえ、もう片方の手を勢いよく伸ばして、純夏の手首を掴んだ。 不意を突かれ、純夏はよろけながら、灯里の方へ引き寄せられた。 一瞬。純夏は、涙に濡れた灯里の瞳の奥に、冷たい笑みがよぎるのを見た。 反応する間もなく、激しく突き飛ばされ、背後にあったシャンパンタワーへと倒れ込んだ。 「灯里!」叫び声が同時に響き、克己は灯里をしっかりと胸に抱き込んだ。 振り返って純夏の方を見たときには、ガシャーンという音とともに、シャンパンタワーが崩れ落ちていた。 克己は灯里を抱いたまま顔色を変え、思わず前に出ようとした。 「克己、足がすごく痛い……っ」灯里が泣き声混じりに呻き、襟元をぎゅっと掴んだ。 克己はもう迷わなかった。灯里を横抱きにすると、振り返りもせずに人混みをかき分け、大股で宴会場を出ていった。 純夏は、割れたグラスの破片と流れる酒の中に座り込んだまま、遠ざかっていく背中を見つめていた。 第7話 黒服のボディーガードたちがようやく人垣を割って現場を収めた。 「純夏!大丈夫?」 振り返ると、そこにいたのは石月真衣(いしづき まい)だった。ここ二年ほど、あるチャリティー活動で知り合った友人で、思ったことをはっきり言う気風のいい女性だ。 真衣は純夏の腕の傷を見て、顔色を変えた。 「うそでしょ、こんなに深く切れてる!スタッフさん!早く救急箱を! 克己のやつは目が見えないの?こんなに怪我してるのに気づかないなんて。あの女は足をちょっと捻っただけなのに、あんなに慌てて」 そばにいた顔見知りの奥様も二人、憤慨した様子で寄ってきた。 「本当よ!今日だって、灯里が先に純夏さんを見下すようなことを言ってきたから、私たち腹が立って言い返しただけなのに」 「あの後、大型スクリーンにあんな写真や投稿が流れて、純夏さんは気が弱いから損をするんじゃないかって心配で、直接文句を言おうとしたのよ」 真衣は消毒綿で丁寧に純夏の傷を拭きながら、なおも口を止めなかった。 「絶対に、灯里の腹黒い性根を克己のお祖父様に突きつけてやらないと、気が済まないわ!」 自分のためにこんなにも憤ってくれる彼女たちを見て、純夏の胸に温かいものがこみ上げた。 五年前、克己に連れられてこうした場に初めて出席したとき、出自のことで陰口や嘲笑を浴びせられたこともあった。 けれど今、こうして本気で味方をしてくれる友人がいる。 込み上げる涙を押し戻し、純夏は静かに口を開いた。 「今日、私のために怒ってくれてありがとう。でも、もう何もしなくていいの。私、克己と別れることにしたから」 「え!?」三人は揃って驚愕の表情を浮かべた。 「別れるって?この五年、彼が仕事で忙しいときは、あなたが生活を支えてきたし、社交が苦手な彼に代わって、いろいろ気を配ってきたじゃない…… あなたの尽くしぶりは、他人の私たちから見たって羨ましいくらいなのに、どうして急に」 純夏が説明しようと口を開きかけたとき、割り込むように声が響いた。 「この人たちよ!克己、私のことを一番ひどく言ってたの、この人たちなの!」 灯里が克己の腕に絡みつくようにして歩み寄り、目を赤くしながら訴えた。 克己は努めて穏やかな口調で、場を収めようとした。 「純夏、今夜のことは、何か行き違いがあったんじゃないか。 灯里は時々、言葉がきついところがあるけど、純夏はいつも分別のある人だ。友人がこんなことをするのを、見過ごすはずがないと思うんだが……」 「行き違いなんてないわ」純夏が言葉を遮った。 「あの投稿を出したのは私じゃない。でも、さっき灯里さんに詰め寄っていたのは、確かに私の友人たちよ」 灯里は、まるで弱みを握ったとばかりに、勝ち誇った顔をした。 「ふん、認めたわね!じゃあ、この人たちには、みんなの前で私に謝ってもらわないと!」 「謝る?」純夏はそちらを見て、薄く笑った。 「いいわよ。でもその前に、防犯カメラの映像を確認してみない?灯里さん、あなたがさっき何を言ったのか。それとも、あの写真をスクリーンに流した人を探し出して、直接話を聞いてみましょうか」 灯里の顔色がさっと青ざめ、思わず克己の袖をぎゅっと握りしめた。 克己は灯里の手を軽く叩いてなだめると、低い声で言った。 「ちょっとした言い争いくらいで、大ごとにする必要はないだろう」 そして純夏の方に向き直り、口調を和らげた。 「純夏、君の気持ちも分かる。だけど、こんなやり方は良くないんじゃないか……」 「だから、私はやってないって言ってるでしょう!」 純夏はもう説明する気力もなく、真衣たちに小さく頷いた。「先に外まで送るわね」 そう言って踵を返そうとした瞬間、克己が無意識に腕を掴んだ。 「っ……」 純夏は痛みに息を呑み、体を強張らせた。 克己はようやく異変に気づき、視線を落とした。目に飛び込んできたのは、目を刺すような赤い色だった。 慌てて手を離した。 「怪我をしてたのか?いつから?どうして言わなかった」 真衣が堪えかねたように言った。 「言えるわけないでしょう。さっきまであなたの目に映ってたのは、足を捻ったっていう灯里だけだったじゃない」 克己の顔に、ばつの悪さと悔いの色がよぎった。 「あのときは灯里の方が近くにいて、混乱していて気づかなかった。純夏、すまない。わざと無視したわけじゃないんだ」 純夏は首を横に振り、袖を下ろして傷を隠した。「いいの。大した傷じゃないから」 その素っ気ない態度が、かえって克己の心を重くした。 怪我をしていない方の手を握り、なだめるように言った。 「純夏、強がらなくていい。君が気にしてるのは分かってる。でも、僕と灯里は、兄が妹を世話しているだけの関係なんだ。君は僕の妻なんだから、分かってくれるだろう?少し大目に見てくれないか」 純夏は顔を上げ、見つめた。 明かりの下、克己の瞳には見慣れた、物分かりのいい態度を求めるような色が浮かんでいた。 数秒間、純夏はそのまま見つめ、やがて小さく頷いた。「いいわ」 どのみち、あと三日で、この家を出るのだから。 第8話 あの日以来、克己はすべての会食や付き合いを断っていた。 自分の手で純夏の傷の手当てをし、「痛いの痛いの飛んでいけー」と優しく声をかけた。 初めて台所に立ってスープを煮込み、あまり上出来とは言えない一杯を差し出しては、緊張した様子で「おいしいか」と尋ねてきた。 夜中、悪夢にうなされて目を覚ました純夏の背中を、何度も何度もさすりながら「怖くない、大丈夫だから」と繰り返した。 純夏はそれをすべて受け入れ、静かに礼を言った。 週末、克己は高台にある展望レストランの眺めのいい席を予約し、二人だけのデートを計画した。 灯里が電話で甘えた声を出し、一緒に行きたいとねだってきたとき、純夏はちょうどクローゼットでスーツケースの荷物を整理していた。 克己が言葉を濁している間に、純夏は自分から口を開いた。 「いいわよ、一緒に行きましょう」 食事の席では、灯里が克己のすぐ隣に座り、話すたびに体を傾け、今にも胸に寄りかからんばかりだった。 純夏はステーキを切り分けながら、向かいの二人に目もくれなかった。 克己が片膝をついて灯里の足首に薬を塗っているのを見かけても、純夏はそのまま素通りした。 「純夏!」 克己がふいに立ち上がり、追いかけてきて手首を掴んだ。 「何か聞きたいことはないのか?たとえば、僕と灯里の距離が近すぎるんじゃないかとか」 純夏は振り返り、克己を見た。その視線は、軟膏のついた指先へ静かに落ちた。 「どうして聞かなきゃいけないの?あなたにとっては、かわいい妹分なんでしょう?」 克己は言葉を失った。 「それとも」純夏はわずかに首を傾げた。「本当は、妹分ってだけじゃないの?」 克己は息を詰まらせ、しばらく答えられずにいた。 そこへ、灯里が裸足のまま歩み寄ってきて、棘のある口調で言った。 「純夏さん、どうしてそこまで克己にこだわるの?克己はあなたのことなんて、もう何とも思ってないのに。まだ分からないの?」 純夏は一歩前に出て、灯里に詰め寄った。 「それなら、どうして彼は私と結婚したのかしら」 声を低く落とし、続けた。 「私に補償するため?」 灯里の顔が瞬時に青ざめ、唇を震わせながら後ずさった。 「でも残念ながら、罪を犯した人が受けるべきものは罰よ。償いなんか何の意味もないわ」 純夏は身を翻して階段を上がっていった。あとには、重苦しい沈黙だけが残された。 克己が追いかけてきて、クローゼットの扉を開けたとき、純夏はちょうど最後の数着を畳んでスーツケースに入れているところだった。 「これは……」 「季節の衣替えよ」純夏は身をかがめたまま、薄いグレーのカシミアのカーディガンを丁寧に半分に折り、しわを伸ばしていた。 克己は半分ほど詰まったスーツケースを見つめ、また胸の奥に例の不安がこみ上げてくるのを感じた。 「本当に、ただの衣替えなのか……?」その声には、気づかれないほどわずかな緊張が滲んでいた。 「それ以外に何があるの?」純夏は問い返した。その声には、かすかな笑みさえ含まれていた。「まさか、私が出ていくとでも思ってる?」 あまりにも率直な返しに、克己はかえって安堵の息をついた。 けれど、その安堵が胸に落ち着くより先に、「出ていく」という言葉そのものが、小さな棘となって胸に刺さった。 手を伸ばして純夏を強く抱き寄せ、腕に力を込めながら、くぐもった声で言った。 「そんな冗談、やめてくれ。聞きたくない」 純夏は腕の中で軽く身じろぎした。 「分かった、もう言わない」 克己はようやく力を緩めた。 「今夜は本家で食事だ。僕は会議が終わってから行くから、先に行って母さんの話し相手をしてやってくれ」 …… 夕方、小野木家の本家。 朋恵は純夏の手を引いて奥の部屋でお茶を飲みながら、庭に新しく植えた花の話をしていた。 純夏は静かに耳を傾けていたが、やがて急須が空になったところで、茶碗を置いて静かに口を開いた。 「お義母様、お話ししたいことがあるんです」 書斎の外で盗み聞きしてしまったこと、この五年間の結婚生活のこと、そして、自分がもう出ていくと決めたことを、順に語った。 「私はずっと、彼が受けた折檻は、私が子どもを授かれなかったせいだと思っていたんです。 五年間、そのたびに彼を思って胸を痛め、五年間、ずっと後ろめたく思ってきました。でも今になって分かりました。すべては、克己の灯里への想いを隠すためだったんですね」 朋恵は呆然とした様子で聞いていたが、その目にはじわじわと赤みが差していった。 震える手で純夏の手を握りしめた。 「あなた、こんなに辛い思いをしていたのね。小野木家があなたに申し訳ないことをしたわ。克己は……なんて馬鹿な子なの……」 純夏は首を横に振り、代わりにその手を握り返した。 「この五年間、ずっと本当の家族のように接してくださって、ありがとうございました」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、玄関の扉が勢いよく開いた。 克己が大股で駆け込んできた。顔面蒼白のまま、純夏の手首を強く掴んだ。 「灯里に何を言ったんだ?彼女は手首を切ったんだ!今、病院で緊急処置を受けてるんだぞ!」 第9話 引きずられるようにして病院へ連れ込まれ、純夏の手首が握り潰されそうなほど痛んだ。 VIP病室では、灯里が手首に分厚い包帯を巻いた姿で待っていた。二人が入ってくるのを見るなり、涙をあふれさせた。 「克己」その声はか細かった。 「私はただ、純夏さんとちゃんと話したかっただけなのに……どうして、私を死に追いやろうとするの?」 「あなたに会ってなんかいないわ」純夏は静かに言った。 「今日の午後は銀行で手続きをしていたもの。防犯カメラの映像もあるし、窓口の人も証言してくれるわ」 灯里はさらに激しく震え出した。 「あんた……今でも嘘をつくのね!先生!先生!」 主治医が慌てて入ってきて、カルテに目を通した。 「堂田灯里は確かに強いショックを受けた末の衝動的な行動と見られます」 「聞いた?」灯里が興奮した様子で、小さなナイフを手首の上にかざした。 「克己、私が目の前で死なないと、信じてくれないの?」 克己の視線は、落ち着き払った純夏の顔と、取り乱した灯里の様子の間を、何度も往復した。 やがて、掠れた声で尋ねた。 「灯里、どうすれば、気が済むんだ」 灯里は、一言ずつ噛みしめるように言った。 「小野木家って、そういうところには厳しいんでしょう?間違ったことをしたなら、それなりのけじめはつけないとね」 灯里は純夏を見て、冷たく言い放った。 「棒で二十回。それを受けきったら、純夏が本当に反省してるって、私も信じてあげる」 純夏はふと、小さく笑い声を漏らした。克己を見つめ、静かに尋ねる。 「あなたも、私が悪いと思ってるの?」 克己は視線をそらし、指先を白くなるほど握りしめた。 「純夏、形だけのことだ。灯里は今、精神的に不安定なんだ。これ以上、騒ぎを起こすわけにはいかない。 君はいつも分かってくれる人だろう。今回だけ、受け入れてくれないか」 純夏は、無理やり隣の病室のベッドにうつ伏せにさせられた。 二十回。背中に容赦なく棒が振り下ろされる間、純夏は枕の端を強く噛みしめ、最後まで声一つ上げなかった。 終わると、克己は純夏の膝裏に腕を差し入れ、そのまま抱き上げて元の病室へ戻った。傷に触れないよう慎重にベッドへ寝かせる。 「先生を呼んでくる」 純夏は返事をせず、ただ枕に顔を埋めた。 「君がつらい思いをしているのは分かってる」 克己は髪に触れようと手を伸ばしかけたが、結局その手を引っ込めた。 「灯里が落ち着いたら、旅行に行こう。ずっと南の湖に行きたいって言ってただろ?今度こそ、二人きりで」 純夏は身じろぎ一つしなかった。 しばらく沈黙が続いたあと、克己はそっと布団を掛け直した。 「ゆっくり休んで。僕は灯里の様子を見てくる」 克己が去ってから、純夏はようやく目を開けた。一粒の涙が、枕に吸い込まれていった。 翌朝早く、純夏は体を起こし、母の転院手続きをすべて済ませた。 病室に戻ると、真衣がすでに扉の前で待っていた。 「顔色、ひどいじゃない。克己のやつ、また何かしたの?」 純夏は首を横に振り、持っていたバッグから封をした書類袋を取り出して差し出した。 「真衣、頼みたいことがあるの。今日の午後五時、私の乗った便が着陸したら、これを警察に届けて。それと、中の赤い印がついているコピーを、同時にネットに公開してほしいの」 真衣はそれを受け取って中を確認し、一瞬にして顔色を変えた。 中身は、当時灯里が不良たちに送金した銀行の記録、目撃者による書面での証言、そしてメモリーカードだった。 「純夏、これって……」 「貸しを取り立てるだけよ。全部見れば分かるから」 純夏は時計に目をやり、スーツケースを引き寄せた。「私、もう行かないと」 「こんな状態で、どうやって行くつもりなの」真衣が腕を掴んだ。目が赤くなっている。「せめて、送らせて!」 「大丈夫」純夏はそっと手を引いた。「一人で行けるから」 病院の正面玄関前では、転院のための救急車がすでに待機していた。 佐智子は介護士に支えられて車に乗り込みながら、なおもぶつぶつと言い続けていた。 「向こうの病院に着いたら、克己くんにお金を振り込ませなさいよ。分かった?」 純夏は小さな包みを佐智子の手に握らせた。「中に銀行カードと現金が入ってるから」 「あんた、いつこっちに来るの?」 純夏は答えなかった。そのままドアを閉め、二歩後ろに下がる。 車がゆっくりと走り出し、純夏はその場に立ったまま、車の流れに紛れ、高架道路の向こうへと消えていくのを見送った。 身を翻して、タクシーを止めた。「空港まで、お願いします」 機内、純夏は窓側の席に腰を下ろした。 離陸のわずかな浮遊感を感じながら、窓の外に見える、少しずつ小さくなっていく街を見下ろす。 あの光り輝く建物の中には、かつて自分が「家」と呼んでいた明かりも、きっとある。 けれど、今となっては、どうでもいいことだった。

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