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結婚式三日前、婚約者は初恋の男に誓った
結婚式前日、僕は式場のキャンセル届に署名した。 窓の向こうでは、途中まで組まれていたガーデンアーチの解体が、すでに始まっていた。 担当プランナーの須藤さんが、ためらいがちにこちらを見た。 「水城様がお戻りになるまで、待たなくてよろしいんですか」 「待ちません」 「ですが、おふたりの結婚式は明後日ですよ」 ペンを置いた。 「玲奈は忙しいんです」 自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。 「昨日、軽井沢で初恋の相手に『誓います』と答えたばかりですから」
チャプター (1)
第1章
結婚式前日、僕は式場のキャンセル届に署名した。
窓の向こうでは、途中まで組まれていたガーデンアーチの解体が、すでに始まっていた。
担当プランナーの須藤さんが、ためらいがちにこちらを見た。
「水城様がお戻りになるまで、待たなくてよろしいんですか」
「待ちません」
「ですが、おふたりの結婚式は明後日ですよ」
ペンを置いた。
「玲奈は忙しいんです」
自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。
「昨日、軽井沢で初恋の相手に『誓います』と答えたばかりですから」
第一話 軽井沢の花嫁
結婚式まで、あと三日。
その朝、僕は急きょ軽井沢へ向かうことになった。
同僚が熱を出し、ホテルの植栽検査を代わりに担当することになったのだ。
僕の勤める景観設計会社は、水城グループが軽井沢に開業する新ホテルの外構・植栽設計を担当している。
そのホテルでは、婚約者の水城玲奈がブランド企画を担当していた。
玲奈は一週間前から現地にいる。
プロモーション映像の撮影が長引いているらしく、昨夜届いたLINEも短かった。
『今日も遅くなる。先に寝てて』
玲奈と付き合って、七年。
激しい喧嘩をするような恋人同士ではなかった。
少なくとも、互いを尊重し合えていると思っていた。派手さはなくても、この穏やかな日々が結婚後も続くと信じていた。
新幹線の中で、玲奈にメッセージを打った。
『今からそっちへ行くことになった』
けれど、送信する直前で消した。
撮影中に気を遣わせる必要はない。
検査を終えたら、そのまま東京へ戻ればいい。
そう思っていた。
西棟の確認を終え、チャペル脇の庭へ回ったとき、ガラス扉の向こうから拍手が聞こえた。
白いドレスを着た玲奈の向かいに、黒いタキシード姿の男が立っている。
神谷蒼真。
玲奈の初恋の相手で、今回のプロモーション映像を手がけるディレクターだ。
チャペルには、参列者が十数人いた。
最初は、ホテルのプロモーション映像を撮っているのだと思った。
ふたりが新郎新婦を演じているのも、撮影の演出にすぎない。
そう自分に言い聞かせた。
けれど、チャペルの隅に置かれたカメラは、一台も回っていなかった。
最前列では、玲奈の母親がハンカチで目元を押さえている。
その姿を見た瞬間、胸の奥がすっと冷えた。
司式者が、ふたりに問いかける。
「新郎・神谷蒼真さん、新婦・水城玲奈さん。おふたりは、これから先、互いを大切にし、ともに歩んでいくことを誓いますか」
「誓います」
蒼真は迷わなかった。
続いて、玲奈の番になる。
三日後、僕と結婚するはずの人。
七年間、隣にいた人。
玲奈は目を潤ませ、幸せそうに笑った。
「はい。誓います」
拍手が起こり、ふたりは指輪を交換した。
蒼真が玲奈の頬に触れる。
玲奈はゆっくり目を閉じた。
気づけば、右手を強く握りしめていた。
これは……撮影のための芝居なんかじゃない。
爪が手のひらに食い込み、握りしめた拳には血管が浮いていた。
それでも、声を上げることも、扉を開けることもできなかった。
結婚式のことを聞くたび、玲奈は決まってこう言った。
『湊に任せる』
『白い花なら、何でもいいよ』
けれど今、彼女が抱いているのは、スズランと白いバラのブーケだった。
付き合い始めた頃、玲奈は「いつか結婚するなら、絶対にこの組み合わせがいい」と言っていた。
横浜で挙げる僕たちの式にも同じ花を提案したとき、玲奈は首を傾げた。
『季節外れなら、無理しなくていいんじゃない?』
試食会にも、最後の打ち合わせにも来なかった。
仕事が忙しいのだから仕方がないと、何度も自分に言い聞かせた。
忘れていたわけじゃない。
その願いを叶える相手が、僕ではなかっただけだ。
僕はチャペルに入らなかった。
仕事用のタブレットを取り出し、検査記録として庭からチャペルを一枚だけ撮った。
ガラス越しの祭壇と、指輪を交換するふたりが画面の端に写り込んでいた。
そのまま、予定どおり検査を終えた。
仕事だからだ。
軽井沢駅のホームで、スマホが震えた。
横浜の式場からの自動通知だった。
『高瀬湊様 水城玲奈様
ご結婚式まで、あと三日となりました』
あと三日。
でも玲奈はもう、別の男に愛を誓っていた。
第二話 二つの式
翌朝、玲奈からLINEが届いた。
『撮影、無事に終わったよ。今夜には帰れそう』
僕は『お疲れさま』とだけ返した。
午前十一時、横浜の式場へ向かった。
海の見える小さなホテルで、親族と友人、合わせて二十八人だけを招く予定だった。
「水城様は、本日もお仕事ですか」
担当の須藤さんが、席次表と進行表を並べる。
「はい。軽井沢にいます」
「本当にお忙しいんですね。高瀬様にすべてお任せできるから、安心していらっしゃるんでしょうね」
悪意のない言葉が、きれいに刺さった。
何をしても、この人なら受け止めてくれる。
玲奈にとって、僕はそういう相手なのだろう。
完成イメージには、白いバラとユーカリで飾られた庭が描かれていた。
玲奈が歩きやすいよう、芝生の上に細い木製の通路を敷くことまで考えた。
夕暮れの光に映えるランタンも、料理も、席順も、ひとつずつ決めた。
玲奈に確認するたび、返ってくる言葉は同じだった。
『湊に任せる』
以前は、それを信頼だと思っていた。
「水城様、きっと喜ばれますね」
須藤さんが笑う。
軽井沢で見た玲奈は、僕の知らない顔で笑っていた。
あの笑顔を思い出すと、答えは簡単だった。
「須藤さん」
「はい」
「今から式をキャンセルした場合、費用はいくらかかりますか」
須藤さんの笑顔が止まった。
「……キャンセルをお考えなのでしょうか」
「キャンセルする場合の手続きだけ、教えてください」
この時点でキャンセルすれば、費用は全額こちらの負担になる。
金額は小さくなかった。
須藤さんは、キャンセル料の内訳と手続きの流れをひとつずつ説明してくれた。
七年を失うことに比べれば、お金で済む損失など、まだましだった。
申込代表者は僕だ。
須藤さんは、キャンセル届とペンを差し出した。
署名欄の上で、ペン先が一度だけ止まった。
玲奈には、まだ何も聞けていない。七年を終わらせる前に、本人の口から本当のことを聞くべきではないのか。
けれど、どんな言い訳を聞かされても、軽井沢で見た玲奈の笑顔が消えるわけではない。
わかっている。それでも結局、僕は名前を書けなかった。
「すみません。今夜まで、考えさせてください」
「承知しました。お決まりになりましたら、このLINEにご連絡ください」
須藤さんとのLINEを確認してから、未記入のキャンセル届を鞄にしまった。
式場を出ても、答えは出なかった。
玲奈に最後の機会を与えたいのか。
それとも、僕がまだ、七年を手放す覚悟ができていないだけなのか。
第三話 招かれたカメラマン
結婚式二日前の夜八時過ぎ。
玄関の鍵が開いた。
「ただいま」
玲奈がキャリーケースを引いて帰ってきた。
いつもと変わらない笑顔を、僕に向けた。
「湊の顔を見たら、やっと帰ってきたって感じがする」
昨日、蒼真に向けていた笑顔とは違う。
あのときの玲奈は、恋をしている女の顔だった。
「軽井沢、どうだった?」
「大変だった。朝から夜まで撮影ばっかり」
「ホテルのチャペル、きれいだった?」
玲奈の動きが、一瞬だけ止まった。
「見てないよ。仕事で行ったんだから、そんな余裕ないって」
「そう」
玲奈は小さく息を吐いた。
左手の薬指に、細い白い跡がある。
外したばかりの指輪の跡。
僕は何も言わなかった。
それでも胸の奥には、捨てきれない期待が残っていた。
鞄の中には、名前を書けなかったキャンセル届が入っている。
あの紙に署名する前に、一度だけ、玲奈の口から本当の気持ちを聞きたかった。
「玲奈」
「なに?」
「本当に、僕と結婚したい?」
玲奈は目を瞬かせ、困ったように笑った。
「何それ。マリッジブルー?」
「答えて」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
玲奈はしばらく僕を見つめ、それから、当たり前のことを言うように答えた。
「結婚したいよ。七年も一緒にいたんだよ?」
「僕のこと、本当に好き?」
「好きに決まってる。私が結婚したいのは、湊だけ」
言葉だけを聞けば、信じられたかもしれない。けれど玲奈は、話している間も左手をさりげなく背中へ回し、指輪の跡を隠すように指を握り込んでいた。
「式の準備、終わってる?」
「全部終わってる」
「さすが。湊に任せておけば安心だね」
以前なら、その言葉を信頼だと思えた。
今は違う。
玲奈が信じているのは、僕の気持ちではない。何をしても僕は離れないという、自分に都合のいい思い込みだ。
玲奈は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出すと、思い出したように振り返った。
「そうだ。ひとつお願いがあるんだけど」
「何?」
「明後日、蒼真も来ることになったの」
「招待客として?」
「ううん。結婚祝いに、式の様子を撮ってくれるって」
玲奈の声が明るくなる。
昨日、玲奈と指輪を交換したばかりの男。
その男が明後日には、カメラ越しに玲奈が僕へ愛を誓う姿を撮る。
それを玲奈は、結婚祝いと呼んだ。
ついさっき「私が結婚したいのは、湊だけ」と言ったばかりなのに、玲奈は蒼真を僕たちの式へ招こうとしている。
言葉と行動が、何ひとつ噛み合っていなかった。
「外部スタッフの事前申請が必要だよね。蒼真の名前、追加しておいてくれる?」
「わかった」
それ以上、何も言わなかった。
「ありがとう。やっぱり湊に頼むと話が早い」
そのとき、玲奈のスマホが鳴った。
画面には『蒼真』と表示されている。
玲奈はスマホを伏せた。
「撮影の確認だと思う。あとでかけ直すね」
夕食後、玲奈は寝室へ入った。
玲奈が声を抑えて笑っているのが、閉じたドア越しに聞こえた。
「うん。当日もお願いね」
「大丈夫。湊は何も気づいてないから」
最後の一言だけ、はっきり聞こえた。
「好きに決まってる」と答えたときと、同じ声だった。
胸の奥にかろうじて残っていた期待が、音を立てて崩れた。
七年を手放せずにいた僕の未練も、そこで消えた。
通話が終わるのを待って、スマホを開いた。
須藤さんとのLINEを開き、短く打ち込んだ。
『先ほどの件ですが、明後日の式をキャンセルしてください。僕の意思です』
送信ボタンを押す指は、もう止まらなかった。
ほどなく既読がつき、須藤さんから返信が届いた。
『承知しました。明朝、キャンセル届をお持ちください。到着しだい手続きを進めます』
続けて、空きの見つかった翌日午後の単身引っ越し便を、その場で予約した。
予約完了の画面を閉じた。
玲奈はまだ、僕が何も気づいていないと思っている。
けれど、何も気づいていないのは玲奈のほうだ。僕はもう、玲奈との未来を片づけ始めていた。
第四話 忘れられない前夜
結婚式前日の朝。
玲奈は鼻歌を歌いながら、化粧品をスーツケースに詰めていた。
「今日は式場近くのホテルに泊まるね。明日は部屋にヘアメイクさんを呼んで、朝から支度するから」
「うん」
「湊は十時までに来れば大丈夫。指輪も忘れないでね」
玲奈はテーブルのリングケースを指さした。
一度も開けていないリングケース。中には、僕の結婚指輪が入っている。
二日前に蒼真と指輪を交換した玲奈は、明日になれば、今度は僕と結婚指輪を交換するつもりでいる。
「玲奈」
「なに?」
「……明日を迎える前に、何か言っておきたいことはない?」
スーツケースのファスナーを閉めようとした手が、ほんの一瞬止まった。
「何かって? 別にないけど……どうしたの?」
その瞬間、テーブルに置かれたスマホの画面が明るくなった。
『蒼真:軽井沢の写真、共有アルバムに入れたよ。あの日の誓い、一生大切にするよ』
玲奈は通知を見た途端、ほんの少し口元を緩めた。僕の視線に気づくと、すぐにスマホをバッグへしまった。
「仕事の連絡?」
そう聞くと、玲奈は迷わずうなずいた。
「うん。明日の撮影の確認」
「そう」
結局、玲奈は最後まで真実を口にしなかった。あれが最後の機会だったのに、返ってきたのはまた嘘だった。
その瞬間、もう何も言うことはないと悟った。
十時過ぎ、玲奈の母親が車で迎えに来た。
軽井沢のチャペルで玲奈のベールダウンをした母親は、何事もなかったように僕へ頭を下げた。
「湊さん。明日から玲奈をよろしくお願いしますね」
「はい」
何も知らないふりをして答えた。
玲奈の荷物を車まで運んだ。
トランクを閉めると、玲奈が窓を開けた。
「また明日ね」
「また明日」
玲奈たちの車を見送ったあと、僕は横浜の式場へ向かった。
鞄から未記入のキャンセル届を取り出し、須藤さんの前で署名した。
手続きを終えて部屋へ戻ったのは、昼前だった。
昼過ぎ、予約していた引っ越し業者がやって来た。
本と仕事の資料、衣類。
僕の荷物は、段ボール六箱とスーツケース一つに収まった。
共有の家具や家電には手をつけない。
冷蔵庫には、玲奈が好きなヨーグルトが残っていた。
洗面台の下には、補充したばかりの洗剤。
玄関には、雨の日のために用意した折り畳み傘。
どれも置いていく。
僕がいなくなったあと、玲奈は一つずつ気づくだろうか。
それとも、当たり前だったものがなくなって初めて、その意味に気づくのだろうか。
最後の箱を運び出したあと、ダイニングテーブルの上に、必要なものだけを残した。
部屋の鍵。
一度も開けていないリングケース。
須藤さんから届いたキャンセル手続き完了メールのコピー。
その下に、軽井沢で撮った一枚の写真を重ねた。
撮影日時が記録された写真の端には、玲奈と蒼真が指輪を交換する姿が写っている。
もう、説明は必要なかった。
遠方から来る親族や友人には、すでに個別に中止を伝えてある。
それ以外の招待客には、オンライン招待状で式の中止を知らせる文面を用意した。
玲奈の母親だけは、一斉送信の宛先から外してある。
送信予約は、明日の午前六時。
外が暗くなり始めた頃、玲奈から写真が届いた。
ホテルの部屋には、玲奈が自分で選んだ純白のドレスが掛けられていた。
『明日、これを着るのがまだ信じられない』
続けて、もう一通。
『一生忘れない日にしようね』
玲奈は、明日になれば式場で僕が待っていると信じている。
七年間、一度も彼女を置いていかなかったから。
仕事で遅くなれば迎えに行った。
体調を崩せば病院へ連れて行った。
家族の用事を頼まれれば、自分の予定を変えた。
玲奈は、僕が尽くしてきたことを愛だとは受け取らず、『何をしても離れていかない』という保証だと思っていた。
でも、それは今日で終わる。
僕は玄関に立ち、最後に部屋を見回した。
幸せだった時間まで、嘘にする必要はない。
ただ、その続きに僕はいない。
『そうだね。忘れられない日になるよ』
送信すると、すぐに既読がついた。
玲奈から笑顔のスタンプが返ってきた。
スマホを伏せ、玄関の灯りを消した。
翌朝、午前六時。
招待客への一斉送信が完了した。
七時を過ぎると、着信画面に『玲奈』の名前が何度も浮かんだ。
最初の留守電には、苛立ちがにじんでいた。
『湊、どういうこと? 式場の人に、あなたが式をキャンセルしたって言われたんだけど』
二つ目は、戸惑った声だった。
『ねえ、電話に出て。私、もうドレスを着てるの。私たち、今日結婚するんでしょう?』
少しして、LINEが届いた。
『ちゃんと答えたよね。私が結婚したいのは湊だけだって』
その言葉に、もう心は動かなかった。
これまでの僕なら、事情を聞き、玲奈の言葉を信じようとしていただろう。
でも今は知っている。
「好き」という言葉より、玲奈が選んだ行動のほうが、ずっと正直だった。
三つ目の留守電を再生する。
『湊……お願い。勝手に終わらせないで。何か誤解してるなら、ちゃんと説明するから』
最後まで聞かずに再生を止めた。
勝手に終わらせたのは、僕ではない。
玲奈が軽井沢で別の男に「誓います」と答えた瞬間、僕たちはもう終わっていた。
午前八時半、玲奈から一枚の写真が届いた。
誰もいない部屋のダイニングテーブル。
そこには、僕が置いてきた鍵とリングケース、キャンセル手続き完了メールのコピー、そして軽井沢の写真が並んでいた。
続けて、メッセージが届く。
『湊……あの日、見てたの?』
さっきまで僕を責めていた玲奈の言葉から、初めて余裕が消えた。
すぐに、着信画面に玲奈の名前が浮かんだ。
今度は、出た。
『湊……どこにいるの?』
さっきまでの強気な声は消え、今はかすかに震えていた。
「帰るつもりはない」
そう告げると、受話口の向こうで息を呑む音がした。
『待って。軽井沢のこと、ちゃんと話すから』
ようやく出てきたその言葉に、僕は黙って続きを待った。
けれど、次に玲奈が口にしたのは、謝罪の言葉ではなかった。