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6年の愛は憎しみに変わった
夫の一ノ瀬航平(いちのせ こうへい)は、妻の私、一ノ瀬紗和(いちのせ さわ)と息子の一ノ瀬悠真(いちのせ ゆうま)を何より大切にする人だと、周囲でもよく知られていた。 私が星を見たいと言えば、大金をかけて流星群を再現し、息子がメリーゴーラウンドを気に入れば、息子の名をつけた最大規模の遊園地を造る。私たちのためなら、何も惜しまない夫だった。 息子と私が交通事故に遭った日も、航平は名だたる医師たちを呼び集め、私を助けようとしてくれた。かろうじて意識をつなぎとめながら、私より先に息子を助けてほしいと頼むと、夫は声を詰まらせ、病院へ運ばれる途中、失血多量で亡くなったのだと告げた。 あまりの悲しみに、それ以上は意識を保っていられなかった。 次に目を覚ましたとき、扉の向こうから航平と医師の話し声が聞こえてきた。 「悠真くんはまだ助けられたんですよ。それなのに、どうして……ご自分のお子さんを見捨てたのですか」 航平は何でもないことのように、葉山美緒(はやま みお)と、その息子の葉山律(はやま りつ)の名を口にした。 「悠真が生まれてきたのは、俺と美緒の子を助けるためだ。死ななければ、心臓を取り出して律に移植できないだろう。紗和と息子には十分よくしてきた。今度は返してもらう番だ」 夫が私たち母子に注いできた愛情は、息子の心臓を手に入れるためのものだった。私も息子も、その優しさを信じたまま、ほかならぬ夫の手で苦しめられていたのだ。 それなら、お望み通りにしてあげるわ。
チャプター (1)
第1章
夫の一ノ瀬航平(いちのせ こうへい)は、妻の私、一ノ瀬紗和(いちのせ さわ)と息子の一ノ瀬悠真(いちのせ ゆうま)を何より大切にする人だと、周囲でもよく知られていた。
私が星を見たいと言えば、大金をかけて流星群を再現し、息子がメリーゴーラウンドを気に入れば、息子の名をつけた最大規模の遊園地を造る。私たちのためなら、何も惜しまない夫だった。
息子と私が交通事故に遭った日も、航平は名だたる医師たちを呼び集め、私を助けようとしてくれた。かろうじて意識をつなぎとめながら、私より先に息子を助けてほしいと頼むと、夫は声を詰まらせ、病院へ運ばれる途中、失血多量で亡くなったのだと告げた。
あまりの悲しみに、それ以上は意識を保っていられなかった。
次に目を覚ましたとき、扉の向こうから航平と医師の話し声が聞こえてきた。
「悠真くんはまだ助けられたんですよ。それなのに、どうして……ご自分のお子さんを見捨てたのですか」
航平は何でもないことのように、葉山美緒(はやま みお)と、その息子の葉山律(はやま りつ)の名を口にした。
「悠真が生まれてきたのは、俺と美緒の子を助けるためだ。死ななければ、心臓を取り出して律に移植できないだろう。紗和と息子には十分よくしてきた。今度は返してもらう番だ」
夫が私たち母子に注いできた愛情は、息子の心臓を手に入れるためのものだった。私も息子も、その優しさを信じたまま、ほかならぬ夫の手で苦しめられていたのだ。
それなら、お望み通りにしてあげるわ。
第1話
扉の向こうの救命処置室の外で、航平が笑いながら言うのが聞こえた。
「妻は息子を庇って子宮に致命的な損傷を負った。一命を取り留めるため、やむを得ず子宮を全摘出した……そういうことにしておけ」
「一ノ瀬様、それはさすがに……奥様はお子さんを亡くしたばかりなんです。そのうえ、二度と子どもを産めなくするなんて、あんまりじゃありませんか」と、医師のおびえた声が続いたが、航平は態度を変えずに答えた。
「俺の子は、生涯律ひとりだけでいい。その代わり、紗和とは一生別れない。
早く手術を始めてくれ。俺は律のところへ行く。あの子も美緒も、今は俺にいてほしいだろうから……。
ああ、手術は慎重にやれよ。妻は痛がりだからな」
遠のく意識の中、廊下を行く航平の足音が次第に遠ざかっていく。体の脇で握りしめた手には爪が深く食い込み、血がにじんでいた。こらえきれず、涙があふれた。
私と息子が誇りに思っていた優しい夫、優しい父親はすべて偽りだった。彼が注いでくれた愛情も嘘だった。唯一の真実は、彼が6年間も周到に私たちを欺き、あの事故さえも仕組んで息子の心臓を奪ったということだけ。
麻酔薬が全身へと巡り、意識が深い闇へと沈んでいく。無機質な医療器具が容赦なく体内へ差し込まれる冷たさに、私は何度も悪夢に苛まれた。
果てしない暗闇の中、心臓をもぎ取られて胸を空っぽにした息子が立ち尽くしている。息子は私に向かって小さな手を伸ばし、泣き叫んでいた。
「ママ、痛いよ……ママ……」
「悠真!」
悲鳴とともにはっと目を覚ますと、心配そうに見つめる航平の瞳が間近にあった。
「紗和、やっと目が覚めたのか。意識を失っていたこの2日間、お前までいなくなってしまうんじゃないかと、どれほど生きた心地がしなかったか……」
彼は震える腕で私を強く抱きしめた。
「悠真を失った今、お前まで失うわけにはいかない」
抱きしめられたまま航平の胸に耳を当てると、速い鼓動が伝わってきた。その言葉が本心だと信じてしまいそうなほどだった。
「先生から聞いたよ。事故で子宮を傷めてしまい、もう子どもは望めないかもしれないって。でも大丈夫だ、俺にはお前さえいればそれでいい」
何の迷いもなく告げるその姿に、以前の私なら、これほど素晴らしい夫に恵まれた幸せを噛みしめていただろう。けれど、全身に刻まれた傷跡と、母となる体を奪われた現実を前にして、彼の完璧な演技には吐き気しか覚えなかった。
私はさりげなくその体を押し返し、「悠真はどこ?あの子に会わせて」と尋ねた。
航平は一瞬言葉を詰まらせ、私の頭をそっと撫でながら声を落とした。
第2話
「すまない、紗和。あの子の亡骸を見たら余計に傷つくだろうと思って、昨日すでに火葬の手配を済ませてしまったんだ」
私を悲しませたくなかったのではない。心臓をえぐり取られた息子の胸を、見られるのが怖かっただけだ。
瞳に渦巻く憎悪を必死で押し殺し、私は航平の手首に目を落とした。そこには不揃いな編み目の赤いブレスレットが巻かれていた。
息子が生前、航平に贈ったお守りだった。
事故の前、航平は夜な夜な不眠に悩まされていた。そんな父親を心配した息子は、学校の先生に編み方を教わり、赤いひもで作ったブレスレットを、安眠のお守りとして贈ったのだ。
その時、航平は不格好なそのブレスレットを驚いたように見つめ、何か言いかけたまま、長い間言葉を発しなかった。息子に「パパ」と呼ばれてようやく受け取ると、大事に手首にはめ、息子を抱きしめた。
「悠真、ありがとう。すごく嬉しいよ」
今になって思えば、息子が父親の不眠を心配していた時、彼が眠れなかったのは、この偶然を装った事故を計画していたからだ。
私の視線に気づいた航平の瞳に複雑な色が過り、咄嗟にスーツの袖で手首を覆い隠した。
「約束するよ、紗和。俺も生涯をかけて、お前と一緒に悠真を偲び続ける」
私はうつむいたまま、答えなかった。せめてもの救いは、息子が最後まで、父親に愛されていると信じていたことだった。
だが、だからといって彼が息子を殺した事実を忘れるわけにはいかない。
悠真、ママが必ず仇を取るから。
そして、私たちを傷つけたこの裏表のある人殺しのもとから必ず去るから。
病院の消毒薬のにおいを嫌がる私を、翌日、航平は家へ連れ帰った。
その本性を知らなければ、航平は非の打ち所のない理想の夫だった。食べてはいけないものも覚えて自ら料理をし、事故のトラウマが残っているのを心配して、毎晩、足を湯につけてマッサージまでしてくれた。
自宅に戻って3日目の朝、航平は会社に急用ができたと言い残し、足早に出かけていった。暗転しかけたスマートフォンの画面に、美緒からの通知が表示されたのを私は見逃さなかった。
【航平、律がパパに会いたいって泣き叫んで手がつけられないの】
美緒の息子の呼び出しには、二つ返事で駆けつけるのだ。私の息子は、父親に会いに向かう途中で命を落としたというのに。
黙って航平を見送った後、私は3階へ上がり、書斎のドアの前に立った。
結婚して5年の間、夫婦であっても互いのプライバシーは尊重すべきだという航平の意向で、この部屋には暗証番号式の電子錠が取り付けられていた。
美緒と律の誕生日を組み合わせた数字を入力すると、カチャリと解錠の音が響いた。
扉を開けると、書斎の壁一面に3人の家族写真が隙間なく飾られていた。
美緒の妊娠、出産、律のお宮参り、初めて歯が生えた日、初めて歩いた日……航平はその成長をひとつ残らず記録していた。
だが、私の息子の写真は、生まれてから亡くなるまでの4年間分をすべてかき集めても、薄いアルバム1冊すら埋まらない。
デスクの上に置かれた航平の日記を開いた。
【5月20日。美緒からサプライズがあると言われた。妊娠だろうと見当はついていたが、検査薬を目の前に差し出された瞬間、涙をこらえることができなかった】
【1月23日。俺は父親になった。名前は律にした。あんなに小さくて愛おしい我が子を抱いた瞬間、全財産を彼に譲ってもいいとさえ思った。だがその直後、医師から律に先天性の心臓病があると告げられた】
【9月30日。律を救うため、俺は結婚した。花嫁は美緒ではない。美緒、俺は必ずいい夫になり、いい父親になってみせる】
紙を突き破りそうなほど力強い筆跡から、彼がどれほどの覚悟でペンを走らせたかが伝わってきた。私は乾いた笑いを漏らした。
第3話
私との結婚は、そこまで自分を押し殺して耐え忍ばねばならない苦行だったのか。
どうりで5年前、喜びに胸を膨らませて妊娠検査の結果を見せた時、航平が長いこと沈黙していたわけだ。
そして義務を果たしたかのように、「ありがとう」と言った。
悠真が生まれたときも、航平は抱こうとしなかった。初めてわが子を見たというのに、冷静に医師へ全身検査を命じ、なかでも心臓は念入りに調べるよう命じた。
新婚の夜、明かりをつけなかった部屋で、私は窓から差す月明かりを頼りに夫の顔を見ていた。照れているのだと思っていたけれど、今思えば、彼が結婚したかった相手は私ではなく、見つめたかった相手も私ではなかったのだ。
日記には取り留めもなく美緒と律のことばかりがつづられ、いちばん新しい日付は7日前だった。
【久しぶりによく眠れた。あのお守りのおかげだろうか。夢を見た……】
そこで文章は途切れていた。私もそれ以上読む気にはなれず、日記を写真に撮って、調査を頼んだ探偵に送った。元の場所に戻して書斎を出ると、ちょうど航平が帰ってきた。
私が3階から下りてくるのを見て、平静な顔にわずかな焦りが走った。
「どうして急に上の階へ?まだ傷が治ってないんだから、寝てないと」
私は彼が無意識に差し出した手を拒んだ。
「ずっと横になっているのも息が詰まるの」
航平は探るように私の表情を見つめていたが、普段と変わらない様子に安堵のため息を漏らした。背中に隠していた紙袋を差し出してくる。
「紗和の好きなお店のお菓子、買ってきたよ」
確かに私の好物だった。だが5分前、美緒がインスタグラムに同じお菓子の写真を載せていた。
【律が食べたいっておねだりしたら、車を2時間も飛ばして買ってきてくれた】
彼女は以前から、こういう曖昧な投稿をよくしていたが、彼女の言う相手が自分の夫だなんて思いもしなかった。
私は航平に気づかれないよう、その美緒の投稿に静かに「いいね」をつけた。
もう少しだけ待とう。十分な証拠がそろったら、私と航平の関係も終わる。
探偵に残りの報酬を支払った時、美緒から連絡が来た。
郊外の別荘で会いたいという。
暖色系でまとめられた室内は居心地がよく、私と航平の家とはまるで違っていた。彼はシンプルなものが好きだと言って、家中の家具や装飾はすべてモノトーンで統一されていた。
リビングのソファに腰掛けた美緒は、新調したネイルの手元を悠然と眺めながら、「ようやく航平と私の関係に気づいたみたいね」と口を開いた。悠真の心臓を手に入れた今、取り繕う気もないらしい。
「航平は約束してくれたわ。私と律を家に連れて帰り、律を正式な子どもとして認めるって」
私は落ち着いて美緒を見た。
「それを言うために私を呼んだの?」
私の冷淡な口調に、得意げな顔をこわばらせた美緒は、勢いよくソファから立ち上がった。
「何よ、その態度。奥様気取り?勘違いしないで。航平が本当にあなたを愛してると思ってるの?あの時、彼は私と律のために……」
そこで言葉を切ったものの、怒りは収まらなかったらしく、美緒は続けた。
「愛されてもいないのに、私たちの間に割り込んでるのはあなたでしょう。子どもだって同じよ。私の律が、航平の唯一の息子になるの!彼のものはすべて律のものになるわ!死んだ息子が恋しいなら、墓前で精一杯手を合わせて冥福でも祈っていればいいじゃない!」
悠真を愚弄された瞬間、腹の底から激しい怒りが突き上げた。思わず平手打ちを食らわせようと手を振り上げたが、病み上がりの体では敵わず、手をつかまれてしまった。
彼女は私に顔を近づけ、嘲笑を浮かべながら一言ずつ吐き捨てた。
「あなたも自業自得よ。自分の子どもも守れないんだから」
屈辱と憎しみで、目の奥が熱くなった。
第4話
渾身の力で美緒を突き飛ばすと、彼女は私の手を強引に引き寄せ、自らの頬を激しく叩いた。そして床へ大げさに倒れ込むと、怯えたような瞳で私を見上げてきた。
「紗和さん、悠真くんのことは私も本当に胸を痛めているんです。でも、私が一体何をしたというのですか……どうしてこんな酷いことを……」
事態を把握する間もなく、背後から強烈な力で突き飛ばされた。
額がガラステーブルの角に激突し、鮮血が床に滴り落ちた。だが航平は私の傷口など一瞥もせず、血相を変えて美緒を抱き起こした。
「美緒、大丈夫か?怪我はないか!」
美緒はか細く首を横に振りながら、大粒の涙をこぼした。
「航平、頭がすごく痛い」
航平は眉を吊り上げ、鬼のような形相で私を怒鳴りつけた。
「紗和、子どもを亡くしたからといって、ここで当たり散らしていい理由になると思うのか!今すぐ美緒に謝れ!」
怒りと悲哀が頂点に達し、涙がとめどなく溢れ出た。
「私の子は、あなたの実の息子でもあるのよ。4年間、あなたをパパって呼んでたのに!」
航平の表情が凍りつき、手首のブレスレットを見つめた。その重みが急に耐えがたいものになったかのように腕が震え、私と目を合わせられなくなった。
逃げるように背を向けても、胸を締めつける痛みで息さえままならないようだった。
美緒のすすり泣きが聞こえると、航平はまるで救いの藁を掴んだかのように彼女を抱き上げ、「美緒、病院へ行こう」と足早に出ていった。
ただ、私のそばを通り過ぎる時、その足取りはひどく重そうだった。
スマホの中には、先ほど録音した音声と、探偵から送られてきた調査済みのすべての証拠があった。
その中の一つの動画は、悠真が血だまりに倒れ、航平に向かって小さな手を伸ばしているものだった。
「パパ、助けて。ぼく、痛いよ。パパ……」
だが男は冷たい顔のまま、子どもの手が少しずつ、少しずつ地面に落ちていくのを黙って見ていた。
私は画面の中の悠真の顔を見つめ、彼がパパを求める目を見た。その目に浮かんでいた期待は、やがて困惑に変わり、最後には絶望へと沈んでいった。
私の子どもは、死ぬ前にパパが自分を愛していなかったという真実を知ってしまったのだ。
あの子はその時、何を考えていたのだろう?
自分が何か間違ったことをしたのか、それともなぜパパが自分にこんなことをするのか?
あるいは、ママ逃げて、と……
苦痛、憎悪、様々な感情で私は全身が震えた。
背後から再び足音が聞こえてきた。
5、6歳の子どもが青白い顔をして、飛行機の模型を抱えて寝室のドアの前に立っていた。
「お姉ちゃん、だれ?どうしてうちにいるの?」
彼の顔はとても馴染み深く、彼の心音も同じように馴染み深かった。私は彼の胸元を見つめた。服の下に隠れて脈打っているのは、私の息子の心臓だ。
律がいなければ、私の悠真は死ななかった。どうして悠真が死んで、この子は生きているの?
私は次第に冷たくなる眼差しを律に向けたまま、不思議そうにこちらを見るその子の前に、ゆっくりしゃがんだ。
「律くん、いい子ね。お姉ちゃんと一緒に帰ろう。美味しいお菓子を用意してあるからね」
……
車を運転して病院へ向かう道中、航平はずっと眉をひそめていた。
彼の目の前には、私が涙を浮かべて彼を問い詰める場面が絶えずフラッシュバックし、思い出すたびに胸の奥がつっかえ、彼をますます恐れと不安にさせた。
不気味なほど静かな車内に、突然、着信音が鳴り響いた。
「航平、律は私が預かってる」
電話越しに聞こえる感情のないロボットのような私の声に、航平は急ブレーキをかけて路肩に車を止め、ハンドルを強く握りしめた。
恐ろしい考えが彼の脳裏に突然芽生えた。
まさか……彼女は……真相を知ったのか?