冷めたミルクティーで、彼を捨てる

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冷めたミルクティーで、彼を捨てる

GoodNovel 完結

「別れよう」 自分の声とは思えないほど、それは酷く冷たく、凪いでいた。 月のモノが重く、下腹部を締め付けるような痛みに耐えていた私のため、恋人の結城陸斗(ゆうき りくと)は「温かいものでも買ってくるよ」と部屋を出た。……はずだった。 しかし、彼が持ち帰ってきたミルクティーは、すっかり冷めきっていたのだ。 理由を問う私、須永紬希(すなが つむぎ)に対し、陸斗は悪びれもせずに言い放つ。 「途中で美紅に会ってさ。あいつも温かいのが飲みたいって言うから譲ったんだ。お前はぬるくても平気だろ?」 白川美紅(しらかわ みく)――彼が昔から甘やかしている女友達。 窓の外で十一月の木枯らしが吹く中、私ははっきりと悟ってしまった。 この3年間、陸斗が私と美紅を天秤にかけ、私を優先してくれたことなどただの一度もなかったのだと。 その事実を突きつけられた瞬間、私の中で張り詰めていた糸が、ぷつんと切れた。 「別れよう」 再びそう告げると、陸斗は呆れたように鼻で笑った。 「はいはい、またそれか。今度はどのSNSをブロックする気だよ?どうせすぐ機嫌を直すくせに」 彼は、私がただの痴話喧嘩で拗ねているだけだと思っている。 でも、彼は知らない。 別れを切り出すより前に、私が海の向こうにある最高学府への特別留学枠を勝ち取っていることを。 ええ、ブロックなんて面倒なことはもうしない。 今度こそ、私はあなたから完全に離れるのだから。

チャプター (1)

第1章

「別れよう」 自分の声とは思えないほど、それは酷く冷たく、凪いでいた。 月のモノが重く、下腹部を締め付けるような痛みに耐えていた私のため、恋人の結城陸斗(ゆうき りくと)は「温かいものでも買ってくるよ」と部屋を出た。……はずだった。 しかし、彼が持ち帰ってきたミルクティーは、すっかり冷めきっていたのだ。 理由を問う私、須永紬希(すなが つむぎ)に対し、陸斗は悪びれもせずに言い放つ。 「途中で美紅に会ってさ。あいつも温かいのが飲みたいって言うから譲ったんだ。お前はぬるくても平気だろ?」 白川美紅(しらかわ みく)――彼が昔から甘やかしている女友達。 窓の外で十一月の木枯らしが吹く中、私ははっきりと悟ってしまった。 この3年間、陸斗が私と美紅を天秤にかけ、私を優先してくれたことなどただの一度もなかったのだと。 その事実を突きつけられた瞬間、私の中で張り詰めていた糸が、ぷつんと切れた。 「別れよう」 再びそう告げると、陸斗は呆れたように鼻で笑った。 「はいはい、またそれか。今度はどのSNSをブロックする気だよ?どうせすぐ機嫌を直すくせに」 彼は、私がただの痴話喧嘩で拗ねているだけだと思っている。 でも、彼は知らない。 別れを切り出すより前に、私が海の向こうにある最高学府への特別留学枠を勝ち取っていることを。 ええ、ブロックなんて面倒なことはもうしない。 今度こそ、私はあなたから完全に離れるのだから。 第1話 「たかがミルクティー一杯で?紬希、お前大げさすぎないか? 今回はどの連絡先をブロックする気だよ?メッセージアプリか?それとも電話? わかったよ、待っててやる。どうせ二、三日もすれば、自分から泣きついて解除してくるんだからさ」 陸斗の声には、あからさまなからかいの色が滲んでいた。 彼はわざとらしく振り返ると、美紅や、ちょうど向こうから歩いてきた友人たちに向かって、やれやれと肩をすくめてみせた。 その唇の動きは、はっきりと「いつもの癇癪だよ」と語っている。 一方の美紅は、両手で湯気の立つホットのあずきミルクティーを包み込み、ちびちびと口に運んでいる。 彼女の視線は私と陸斗の間を面白そうに行き来しており、その瞳の奥には隠しきれない優越感が浮かんでいた。 私は、ただ静かに彼の顔を見つめていた。 この3年間、ずっと好きだった人。必死に背中を追いかけ、彼を中心にして自分の未来のすべてを思い描いていたはずの男を。 生理特有の鉛のように重い下腹部の痛みと、胸の奥に渦巻く息苦しさ。 それらが入り混じり、やがてスッと引いていくと、後には氷のように冷たく澄み切った感情だけが残った。 もう、彼らの誰の顔を見る気にもなれなかった。 私は黙って背を向け、その場を歩き出す。 お腹の痛みは相変わらずひどいままだったけれど、不思議なことに足取りはいつもよりずっと軽かった。 たかがミルクティー一杯で? 陸斗は一生気づかないだろう。その一杯のミルクティーが、これまでに積み重なった私の数え切れないほどの失望と、わずかばかりの期待を完全に押し潰す「最後の一撃」だったということに。 思えば、彼を好きでいた期間は3年に及ぶ。 出会いは大学の入学式の日だった。重いスーツケースを引きずっていた私に、早く着いていた彼が「手伝うよ」と声をかけてくれたあの瞬間から。 あの時の屈託のない笑顔や、真っ直ぐな眼差し。私はすっかり惹き込まれ、彼こそが同じ道を歩んでいける運命の相手なのだと信じ込んでしまったのだ。 彼の歩幅に合わせようと、必死に努力した。同じ講義を履修し、同じサークルに入り、彼と釣り合う優秀な人間になりたくて、寝る間も惜しんで勉強に打ち込んだ。 目標はただ一つ。彼と一緒にこの大学の大学院へ内部進学すること。それが私たちの共有する未来なのだと信じて疑わなかったから。 でも今はもう、そんな未来はいらない。 なぜなら、私はすでに海の向こうにある世界最高峰の大学院から、特別留学枠の合格通知をもらっていたからだ。 それは以前、彼が「難易度が高すぎる。非現実的だ」と鼻で笑って切り捨てた憧れの学府。 度重なる彼への失望は、私の抱いていた愛情をとうの昔にすり減らしていた。 だからこそ、別れを切り出すよりずっと前に、私は留学への準備を密かに進めていたのだ。 ただ、3年間という月日が足枷となり、完全に縁を切るという最後の一歩をどうしても踏み出せずにいた。 けれど、もう迷う必要はない。 彼と一緒に大学院を目指すのをやめるか?――イエス。 彼をすっぱりと諦めるか?――もちろん、イエスだ。 私の心はもう、彼のために波立つことはない。 私の未来はもう、彼を中心に回ることはないのだ。 …… 別れを告げた後、私はすぐさま陸斗の連絡先をすべてブロックし、思いつく限りのSNSの繋がりも容赦なく削除した。 その手つきに迷いは一切なく、むしろある種の残酷なまでの快感すら覚えていた。 そうして、一週間の平穏な日々が訪れた。 私はこれでようやく心静かに過ごせると思っていた。 だが、そんな平和な時間は呆気なく破られた。 ある夜、陸斗とも面識がある共通の友人から、少し躊躇うような前置きと共に一つの動画ファイルが送られてきたのだ。 【紬希、これ見て……あんまり落ち込まないでね】 動画の背景は、大学の自習室だった。画面には、陸斗と数人の男友達、そして美紅が机を囲んで談笑する姿が映っている。 どうやら、誰かが画面の端からこっそり隠し撮りした映像らしい。 動画の中の陸斗は、いつものように自信たっぷりに笑い飛ばしていた。 「……平気だって。あいつが俺を無視できるのは数日が限界だろ。どうせそのうち耐えきれなくなって、自分から戻ってくるさ。今までもずっとそうだったしな」 第2話 横から男友達の一人が茶化すように口を挟む。 「そんなに余裕ぶってていいのかよ?紬希ちゃんって優秀だし、言い寄ってくる先輩だっているだろ。 万が一、うちよりずっとレベルの高い大学院にでも受かってどっか行っちゃったらどうすんだよ」 陸斗は鼻で笑い、見下すような口調で吐き捨てた。 「そうなったら清々してちょうどいいよ。一度高い壁にぶち当たって、現実を知ればいい。身の程知らずにも程がある」 そして、彼はまたいつものように不満を漏らし始めた。 「だいたい、あいつはいちいち細かいことを気にしすぎなんだよ。美紅のことくらいで、いつまでもネチネチと」 カメラの向きが少しだけ動き、美紅の顔がフレームに収まった。 彼女はわざとらしく唇を尖らせ、いかにも甘ったるい声で同調する。 「そうそう!陸斗くんたら、彼女ができた途端に私のこと全然構ってくれなくなるんだもん。昔から家族ぐるみのお付き合いなのに、薄情すぎー!」 その大げさな態度に、周囲からドッと笑いが起きる。 誰かが私と美紅を比べ、「紬希は真面目すぎる堅物で、美紅は愛嬌たっぷりの世渡り上手」などと冷やかした。 言わんとしていることはわかる。私は融通が利かない、面白みのない女だと言いたいのだ。 陸斗は苦笑いしながら肩をすくめた。 「はいはい。紬希は彼女で、美紅は妹みたいなもんだ。俺からすりゃ、どっちも大事なんだよ。ただ、紬希にはもう少し物分かりよく、大人になってほしいだけさ」 すると美紅が、すかさずあざとい声を張り上げる。 「わかってるってばー。これからはなるべく陸斗くんに迷惑かけないようにするね。また陸斗くんの『お姫様』の機嫌を損ねたら大変だもん。あーあ、私ってばほんと罪な女」 動画はそこで途切れていた。 私はスマートフォンを握りしめたまま、机の前でしばらく身動きすらできなかった。 ぐちゃぐちゃに絡まり合っていた感情は、やがてすーっと熱を失い――あとに残ったのは、芯まで凍てつくような、恐ろしいほどの冷静さだった。 そうか。彼の目に映る私は、そういう存在だったのだ。 私の募らせた好意も、これまでの献身も、そして別れを告げて去ったことすらも、彼にとっては取るに足らない茶番劇でしかなかった。 彼は安全な高みに立ったまま、私が惨めに泣きついて戻ってくるのを待っている。その上、私のことを「物分かりが悪い」と見下してさえいるのだ。 少し沈黙した後、私は父に電話をかけた。 電話が繋がると、父は開口一番、心配そうな声を投げかけてきた。 「紬希、最近どうだ?こないだ言っていた、こっちの大学院への進学を取りやめて、海外に留学するっていう話……あれは本気なのか?それに、陸斗くんとは……」 「お父さん」 私は努めて平坦な声で遮った。 「陸斗とは別れたの。……うん、本気だよ」 電話の向こうで、ふっと息を呑む気配がした。 構わず、私は続ける。 「海外のトップ大学院、もう合格したんだ。外の世界を見てみたい。もっと良い環境で、自分のためにしっかり学びたいの。当てつけなんかじゃない。私の、私のための決断だよ」 しばしの沈黙の後、父から返ってきたのは、どこか安堵したような、温かく力強い声だった。 「……そうか。お前が自分でよく考えて決めたことなら、お父さんは全力で応援するよ。手続きや準備で必要なことがあったら、いつでも遠慮なく頼りなさい」 通話を終えた後、私はスマートフォンのデリバリーアプリを開き、自分宛てにミルクティーを注文した。 木枯らしの吹くこんな寒い日には、やっぱり体の芯から温まるホットミルクティーが一番だ。 …… 数日後、私は身辺整理を始めた。 陸斗から貰ったものはすべて、段ボール箱に放り込んでいく。特に、大学院の内部進学対策に関連するものは念入りに。 彼が丁寧にまとめてくれたノート、押し付けられた参考書、それに高価で意味ありげなプレゼントの数々――「良い論文が書けるように」と贈られた限定モデルの万年筆や、電子書籍リーダーなども全部引っ張り出した。 これらはかつて、甘い思い出や共に描いた未来への期待が詰まっていたはずのものだ。 でも今はもう、ただの皮肉なガラクタにしか見えない。 ガムテープで封をした段ボール箱はずっしりと重く、まるで二度と戻らない私の3年間のようだった。 この箱を抱えて下へ行き、どこかのタイミングで彼に突き返して、一切の未練を断ち切ろう。 そう思って女子寮のエントランスを出たところで――運悪く、美紅を送り届けにきたらしい陸斗と鉢合わせてしまった。 美紅はごく自然な動作で、陸斗が着ているコートのポケットに手を突っ込み、キャンディを一つ取り出して自分の口に放り込んだ。 その一連の動きは、これまで何百回と繰り返してきたかのように滑らかで、ひどく親しげだ。 陸斗もまた、それを咎めることなく当たり前のように受け入れている。 私と、私が抱える不自然なほど大きな段ボール箱に気づいた二人は、ピタリと足を止めた。 第3話 陸斗の視線が箱に落ちる。 彼は一瞬だけポカンとした後、すぐに「ああ、なるほどね」と言わんばかりの、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。 「なんだよ紬希、そこまでやるか?まさか本気で別れるってアピールしてるつもりかよ?」 彼の声には、微塵の疑いもない、息が詰まるほどの自信が満ち溢れていた。 「はいはい、もういい加減にしろって。その荷物、お前がそのまま持ってな。 今ここで意地張って俺に突き返したって、どうせ機嫌が直ったら尻尾振って『やっぱり返して』ってすり寄ってくるんだろ? 二度手間になるようなことすんなよ。ほら、大人しく部屋に戻れって」 まるで、私のすべての行動が、彼の思い描いたくだらない脚本通りであるかのように言い放った。 私が口を開くより早く、美紅が一歩前に出た。彼女は親しげに陸斗の腕をペチッと叩き、わざとらしく口を尖らせる。 「もぉ、陸斗くんたら!そんな言い方ないでしょ!」 そして私の方へ向き直ると、いかにも困り果てたような、無実の被害者といった顔を作ってみせた。 「紬希さん、そんなに怒らないであげてください。全部私が悪いんです。 私がいつも講義の席取りをお願いしたり、課題のノートを見せてもらったり……それに、しつこいナンパ避けに彼氏のフリを頼んだりしたから、変に誤解させちゃったんですよね?」 彼女の声音は、本気で申し訳なく思っているように聞こえて、その実、ひどく白々しかった。 「私たち、本当に昔から実の兄妹みたいな感じで、他意は全然ないんですよ。 これからは気をつけますから、ね?だからもう、陸斗くんを困らせるのはやめてあげてください」 そのいかにも計算高い三文芝居と、横で「ほら見ろ、美紅はこんなにも聞き分けがいいじゃないか」とでも言いたげな陸斗の満足そうな顔。 それらを交互に見た瞬間――ここ数日、私の胸の奥でくすぶっていた怒りが、ついに限界点を突破した。 私は美紅の言葉を完全に無視し、ただ真っ直ぐに陸斗の目だけを射抜いた。 自分でも驚くほど、私の声は底冷えしていた。 「陸斗、よく聞きなさい。私は、あなたのご機嫌取りの茶番に付き合ってるわけじゃない」 そう言い捨てると同時に、腕の中にある重い段ボール箱をわずかに持ち上げる。 「ここに入ってるもの、もう全部いらないから。あとはそっちで好きに処分して」 言うが早いか、私はその箱を陸斗の足元へ向けて無造作に投げ落とした。 ドスンッ――! 鈍い音を立てて地面に叩きつけられた衝撃で、ガムテープが剥がれ、箱の角が大きく裂けた。 中から参考書や彼の手書きノート、プレゼントされた文房具などが無惨に飛び出し、二人の足元に散乱する。 私は、その光景に呆然と立ち尽くし、みるみるうちに羞恥と驚愕で顔を引きつらせていく陸斗を一瞥もしなかった。 「きゃっ!?」という美紅のわざとらしい悲鳴も無視して、踵を返し、一切の迷いなく女子寮のエントランスへと歩き出した。 背後から、プライドをズタズタにされた陸斗の激昂する声と、八つ当たりのように段ボール箱を乱暴に蹴り飛ばす音が響いてくる。 「紬希っ!お前、いい加減にしろよ!!」 …… 寮の自室に戻るなり、私はベッドに倒れ込み、泥のように深く重い眠りに落ちた。 夢の中に現れたのは、陸斗と過ごした過去の記憶ばかりだった。 大学1年の春、学生寮への入居日。爽やかな白いTシャツを着た彼は、私の重いスーツケースをひょいと持ち上げて笑いかけてくれた。 「君、何号室?俺、ちょうど自分の荷解きが終わったところだから手伝うよ」 退屈な一般教養の講義を隣同士で受けたり、サークル活動で息の合った連携を見せたり。バスケをしている彼にスポーツドリンクを差し出すと、彼がくしゃっと笑って私の頭を撫でてきたり…… 互いに惹かれ合い、壊れ物でも扱うようにそっと手を繋ぎ、やがて恋人同士になった。 かつての私は、彼こそが一緒に未来を歩いていく運命の人なのだと本気で信じていた。 彼は「紬希の真面目なところが好きだ」と言ってくれたし、「これからもずっと一緒に前へ進んでいこう」と約束してくれたのだ。 ――それが狂い始めたのは、いつからだったか。 たぶん、大学2年の春に、幼馴染である美紅がこの大学に入学してきてからだ。 家族ぐるみの付き合いだという彼女は明るく派手で、遊ぶのが大好きな性格。大人しくて一つのことにのめり込む私とは、まさに正反対のタイプだった。 彼女が現れてからというもの、陸斗の中では、「美紅のSOS」に駆けつけることが何よりも優先される絶対事項になってしまった。 美紅がテストで単位を落としそうになれば、陸斗は徹夜で予想問題を作ってやり、彼女がサークルの人間関係で揉めれば、彼が間に入って解決してやった。 美紅が彼氏と別れて落ち込んでいると言えば、私とのデートを平気でドタキャンして慰めに行く始末。 私が不満を漏らし、泣きながら訴えたこともあった。 けれど陸斗はいつも、決まってこう弁明するのだ。 「美紅の両親から、あいつの面倒を見てやってくれって頼まれてるんだよ。 俺にとっては実の妹みたいなもんなんだ。紬希も物分かりのいい大人になって、少しは理解してくれよ」 第4話 やがて彼は、言い訳をすることすら面倒になったらしい。 息をするように美紅のトラブル処理を優先し、その後で上の空のまま適当に私を宥めるようになった。 そして愚かなことに、私自身もそんな歪んだ優先順位を、自分に言い聞かせるようにして受け入れてしまっていたのだ。 あの、大雨の日の事件が起こるまでは。 その日は、私たちの専攻における非常に重要な、合同研究プロジェクトのメンバー登録の締め切り日だった。 私は前から陸斗と同じチームで組む約束をしており、提出期限までに彼と最終確認をして、申請書を出す必要があった。 ところがその日の午後、陸斗とは全く連絡がつかなくなってしまったのだ。 電話をかけても繋がらず、メッセージを送っても既読すらつかない。 不測の事態にでも巻き込まれたのではないかと心配になった私は、バケツをひっくり返したような土砂降りの中、彼がいそうな場所を狂ったように探し回った。 講義室、図書館、体育館、行きつけのカフェ…… 冷たい雨に打たれながら、私の心は焦燥と恐怖でパニック寸前だった。 結局、チームメイトになるはずだった彼は見つからず、私は申請の締め切り時間を逃してしまった。 私がどうしても入りたかった優秀な研究グループも、音信不通になった私のことを待ってはくれず、あっさりと別の学生で枠を埋めてしまっていた。 その日の夜、私はひどい高熱を出した。 全身が焼けつくように熱いのに、寒気でガタガタと震えが止まらない。 翌日、私はふらつく足を引きずりながら、一人で大学の保健管理センターへ向かい、点滴を打ってもらった。 ひんやりとしたパイプ椅子に持たれかかり、ポツン、ポツンと静脈に落ちていく薬液をぼんやりと見つめる。 頭はぐわんぐわんと揺れ、指先一つ動かす気力すらない。 そんな時だった。 本当に魔が差したとしか言いようがないタイミングで、私は何気なくスマートフォンのSNSを開いてしまったのだ。 そして、タイムラインの一番上に表示された投稿を目にして――すべてを理解した。 美紅が数分前に更新したばかりの投稿。 少しやつれたような自撮り写真だが、その口元は満面の笑みを浮かべている。 そして背景には、彼女に甲斐甲斐しくお菓子を差し出している陸斗の姿が写り込んでいた。彼の横顔は、呆れるほど優しく、甘やかさに満ちている。 キャプションにはこう書かれていた。 【テスト爆死。でも専属の甘やかし係が慰めてくれるから立ち直れそう~❤】 そういうことか。彼がスマートフォンを切り、音信不通になっていた理由。 それは、美紅がテストで赤点を取り、パニックになって泣きついたから――ただそれだけのことだったのだ。 画面の中で幸せそうに微笑む二人。その一方で、私の手の甲には冷たい点滴の針が刺さり、額は高熱でひどく熱を持っていた。 その残酷なまでの温度差を突きつけられた瞬間、私の心は真冬の氷の湖に沈められたように冷え切り、怒りや失望を抱く気力すら一滴も残っていなかった。 ああ、美紅のご機嫌取りは、私の将来を左右する重要なプロジェクトよりも、私の健康よりも、雨の中でパニックになっていた私の焦燥よりも――ずっと、ずっと重くて価値があるものなのだ。 熱が下がり、体調がすっかり元通りになる頃には、私の心も恐ろしいほどクリアになっていた。 もう誰も頼らない。 私は、私自身の人生を最優先に生きるのだ。 …… それから数週間後のこと。 図書館の静かな自習スペースで一人で文献を調べていた私のパソコンに、新着メールの通知音が静かに鳴った。 画面の右下にポップアップした件名には、私が志望していた海の向こうのトップ大学院の名前と、【Congratulations!(おめでとうございます!)】の文字がはっきりと表示されている。 はやる心を抑えながらメールを開く。 そこには正式な入学許可証と、留学ビザの申請に必要な公式書類のデータが添付されていた。 ドクン、ドクンと心臓の鼓動が早くなる。地に足の着いた、確かな高揚感が全身にじわじわと広がっていく。 やっとだ。私はついに、自分の力で新しい未来を掴み取ったのだ。 私は早速ビザ申請に必要な書類のリストに目を通し、頭の中で今後のスケジュールを組み立て始めた。 ちょうどその時、視界の端に二つの見慣れた人影が自習エリアに入ってくるのが見えた。 陸斗と美紅だ。 二人は私に気づいていないのか、少し離れた席に並んで座った。 美紅はごく自然な動作で分厚い参考書を陸斗の方へ押しやると、特定のページを指差して、いかにも困ったような顔で甘えながら助けを求めている。 陸斗はそれを受け取り、顔を寄せて何やら解説を始めた。だが、彼の視線はチラチラと、不自然なほど何度もこちらを盗み見ていた。 わかっている。彼は私がこれまでのように、美紅との距離の近さに気づき、嫉妬して怒り出すのを待っているのだ。 私は微かに冷たい息を吐き出すと、静かに視線をパソコンに戻した。そして資料やノートを淡々とリュックに詰め込むと、席を立ち、彼らとは反対側の出口に向かって歩き出した。 その間、私は一度たりとも彼らの方を振り返らなかった。 第5話 その日の夜。大学の学生専用の匿名掲示板で、あるスレッドが急に伸びていた。 誰かが、図書館で自習をしている私の横顔をこっそり撮ってアップしたらしい。 写真の中の私は少し俯き加減で、真剣な表情で洋書に目を落としていた。 スレッドを立てた投稿者は、こんなコメントを添えている。 【真剣に勉強してる横顔、めっちゃ綺麗。これどこの学部の先輩?彼氏いるのかな?】 その下には、私の学部やフルネームを特定するレスがいくつか連なっていた。 たまたまそれを見かけた私は、深い意味もなく、さらりと一言だけ返信を書き込んだ。 【ありがとうございます。でも今は学業に専念したいので、誰かとお付き合いする気はありません】 ところが、このたった一文の書き込みが、またしても陸斗の気に障ったらしい。 彼はわざわざ別の新しい電話番号を取得して、私宛てにメッセージを送りつけてきた。 文面は相変わらず、私を上から目線で諭し、適当に宥めようとするものだった。 【いい加減、機嫌直せよ。掲示板の書き込み見たぞ。意地張るのももう十分だろ。 そろそろ冬休みの予定決めようぜ。うちの母さんも何度かお前のこと聞いてきてるし、長期休みには一緒にうちの実家に顔出そう】 信じられない。彼の中では、まだ「一緒に実家へ行って親に挨拶する」という計画が生きているのだ。 私は自分の使っているすべてのSNSとメッセージアプリを開き、彼のアカウントがしっかりブロックリストに入っていることを確認してから、躊躇うことなくその新しい電話番号も着信拒否に設定した。 翌日。 選択科目の講義が終わり、教室を出た直後のことだった。 廊下の角を曲がろうとしたところで、待ち伏せしていた陸斗に立ち塞がられた。 彼は不機嫌そうに眉をひそめ、あからさまに苛立った顔をしている。 「紬希。お前、俺の連絡先、全部ブロックしたのか?」 「当たり前でしょ」 私は歩みを止め、氷のように冷めた瞳で彼を見つめ返した。 「別れた元カノと元カレが、いつまでも親密に連絡を取り合う必要があるの?」 「元カレ?」 陸斗はまるで、ひどく滑稽な冗談でも聞いたかのように鼻で笑った。 「たかがミルクティー一杯のことで、ちょっと喧嘩したからって、いつまでそうやって大げさに騒ぎ立てる気だよ? 紬希、そういうのもういいから。俺が別れる気なんてないこと、わかってるだろ」 彼はやれやれとため息をつくと、背負っていたリュックから一冊の真新しい専門書を取り出し、私の目の前に突きつけてきた。 「ほらよ。お前が前に欲しがってた本。とっくに絶版になってて手に入りにくいって言ってたから、ツテを頼って探し出したんだ。 大学院の内部進学試験、もうすぐだろ?一人で勉強してて不安なんだろ? 意地張るなって。……そうだ、願書の提出期限、ちゃんと確認したか?うっかり忘れるなよ」 呆れた。彼はまだ、私がこの大学の大学院に進むつもりだと信じ込んでいるのだ。 自分が手に入れた「価値あるプレゼント」を与えれば、私が嬉し泣きして元通りになるとでも思っているらしい。 目の前に差し出された分厚い専門書を見下ろしながら、私の心に湧き上がったのは、ただただ底知れないほどの可笑しさだけだった。 その時だった。あからさまに不満と鬱憤を滲ませた美紅の声が、横から唐突に割って入ってきた。 「陸斗くん!もう、こんなところにいたの!?ずっと探してたんだよ!」 彼女はツカツカと早足で歩いてくると、陸斗の腕にぴったりとすり寄り、子供のように地団駄を踏んでみせた。 「今日の昼までに、学生会副会長の選挙の演説原稿、チェックしてくれるって約束したじゃない! 今何時だと思ってるの?どうせまだ一行も読んでないんでしょ?私、すごく焦ってるのに! 結局、紬希さんとヨリ戻す方が大事で、私の約束なんか忘れちゃったんでしょ?」 そう捲し立てながら、彼女は挑発するような視線をチラリと私に投げかけてくる。 自分はこんなにも陸斗に甘え、優先される立場なのだと言わんばかりの、わざとらしい被害者ぶった態度。 陸斗の顔に一瞬、気まずさと苛立ちが交差した。だが、彼は染み付いた習慣に従い、反射的に美紅を宥め始める。 「わかった、わかったから。後ですぐ見るから、そんなに焦んなって」 そう言いながら、彼は探るような目でこちらを窺ってきた。 きっと私の顔に、「嫉妬」や「怒り」のサインが浮かんでいるのを期待しているのだろう。 私はひどく冷めきった声で、ただ一言だけ告げた。 「早く彼女の原稿を見てあげたら?」 予想外の無関心な反応に、陸斗は虚を突かれたように固まった。 そして慌てて言い訳を口にする。 「紬希、違うんだ。美紅にとって今回の選挙はすごく重要で、俺はちょっと手伝うだけで……その、お前も知ってるだろ?あいつん家とうちの家は昔から――」 「知ってるわよ」 私は容赦なく彼の言葉を遮った。 「あなたには彼女の面倒を見る責任がある。あなたたちは『家族』みたいなものなんでしょ?早く行ってあげなよ。大事な時間を無駄にしないで」 第6話 私のあまりの落ち着きぶりに、陸斗はますます焦りを見せ始めた。 「でも紬希、俺の彼女はお前だけだ!俺だって、お前にもう少し大人になって、理解してほしいだけなんだよ。この忙しい時期さえ過ぎれば……」 「陸斗」 これまでに何百回と聞かされてきた、中身のない薄っぺらい弁明。もうこれ以上の御託を並べられるのはうんざりだった。 「私たち、とっくの昔に別れてるから。あなたの責任なんて、もう私には一切関係ない」 それだけを言い捨て、私は彼を避けるようにして廊下を歩き出す。 背を向けて少し離れた後も、美紅の甘ったるい愚痴と、陸斗のどこか上の空な宥め声が微かに聞こえてきた。 後日、共通の友人から聞いた話によると、陸斗は自分のSNSに【どうしてこんなに話し合いが通じないんだ】と愚痴めいた投稿をしていたらしい。 おまけに、男友達と飲みに行った席でも、相変わらず自信満々にこう吹聴していたという。 「あいつはただ意地を張ってるだけだ。大学院の内部進学試験さえ終われば、ケロっと元通りになるさ」 彼はいつまでも自分に都合のいいシナリオに酔いしれ、現実から目を背け続けているのだ。 …… 翌日、私は大学の学生課へ向かった。ビザの面接に備えて、成績証明書と在学証明書を発行してもらうためだ。 その道中、共通の友人とばったり出くわした。 彼女は少し言いにくそうに口を開き、「陸斗が今もあちこちで紬希の近況を探り回っている」と教えてくれた。 どうやら彼は、私がこれほど長期間にわたって彼を拒絶し続けている理由が理解できず、苛立っているらしい。 その話を聞いて、私の心にさざ波一つ立たなかったと言えば嘘になる。 3年間という月日は、風が吹けば綺麗さっぱり消え去るような砂埃ではない。 ほんの少しだけ、「きちんと言葉を尽くして、最後に正式な別れを告げるべきだろうか」と迷う気持ちが芽生えてしまった。 しかし、その小さな揺らぎは、その日の午後には見事に打ち砕かれることになる。 以前、あの自習室での隠し撮り動画を送ってくれた友人が、今度はあるSNSのスクリーンショットを送ってきたのだ。 それは、美紅が先ほど更新したばかりの投稿だった。 そこには何枚もの写真がまとめられていた。 一枚目は、徹夜で選挙演説の原稿をチェックしているらしい陸斗の横顔。 キャプションには【陸斗くん、お手伝いお疲れ様!】。 二枚目は、ショッピングモールで帽子を試着して笑う美紅と、その横に立つ陸斗のツーショット。 キャプションには【気晴らしのお出かけ、大成功!】。 そして三枚目は、両家の家族ぐるみで行われたらしい食事会の写真。 そこにはこんな文章が添えられていた。 【陸斗くんのお母さんから「陸斗が大学院の試験勉強をサボらないように、美紅ちゃんがしっかり見張っててやってね」って頼まれちゃった。 プレッシャーやばい~!でもおばさん、安心してください、バッチリ任務完了してみせますっ😜】 さらにコメント欄では、知人がからかうようにこう書き込んでいた。 【美紅、ぶっちゃけお前と陸斗ってどういう関係なん?幼馴染ってやっぱ特別だよなー!】 それに対し、美紅は口元を隠して笑う絵文字とともに、わざとらしく意味深な返信をしている。 【さあ?ご想像にお任せしまーす♪】 これらの写真と見え透いたアピールの数々、そして嫌な顔一つせず彼女の「息抜き」に付き従う陸斗の姿を見た瞬間。 不思議なことに、私は苛立つどころか、ひどくホッとしてしまったのだ。 わざわざ最後にさよならを言う手間が省けて、ちょうどよかった。 私は送られてきたスクリーンショットを即座に削除した。 この日を境に、彼に関する一切の情報を完全にシャットアウトし、私は留学という新しい未来への準備だけに全力を注ぐようになった。 …… 留学ビザの申請に必要な書類の準備が、ようやくひと段落ついた頃のことだ。 ある夜、図書館での作業を終えて女子寮へ戻ると、エントランスの前で陸斗が待ち伏せしているのが見えた。 夜の闇に紛れて表情までははっきりと見えなかったが、その声には隠しきれない苛立ちが滲んでいた。 「紬希。ちょっと話がある」 彼は私の行く手を塞ぐように前に立った。 「もうその辺にしておけよ。いい加減意地を張るのはやめて、大人しく大学院の試験勉強に戻れ。自分の将来を遊び半分に考えるな」 彼は未だに、私がただの痴話喧嘩で拗ねて、「内部進学をやめる」と脅しているだけだと固く信じ込んでいるらしい。 私の中に残っていた僅かな忍耐も、完全に底を突いた。 「これが最後だからよく聞いて。陸斗、私たちはもう別れたの。自分の進路には自分で責任を持つから、あなたに心配してもらう筋合いは一切ないわ」 「自分で責任を持つだと?そんなのどうやって取るつもりだよ!」 私の取り付く島もない態度に、彼はついに声を荒らげた。 「俺への当てつけのために、一番大事なことまで投げ出す気か!?今の院試がどれだけ競争率が高くて厳しいか、わかってないわけじゃないだろ。 少しは物分かりのいい大人になって、これ以上わがまま言うのをやめてくれ! 俺だって最近、試験勉強とか色々と負担が大きくてストレス溜まってるんだよ……!」 「色々と負担って?」 私は氷のように冷ややかな声で刺した。 「美紅のご機嫌取りのこと?」 陸斗は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに開き直って自己弁護を始めた。 「俺にはあいつの面倒を見る責任があるって、ずっと言ってるだろ!親同士の繋がりもあるし、そういう義理を簡単に無下になんてできるわけないじゃないか。 なあ紬希、どうして俺の苦しい立場を少しでも分かってくれないんだ? お前は俺の一番の理解者だと思ってたのに、どうしてそんな風になっちゃったんだよ。……俺も、流石に疲れちまったよ」 第7話 またこのパターンだ。 果たすべき責任、義理、理解してほしいという訴え、そして「自分だって辛くて疲れている」という主張。 まるでこの関係において、必死に歩み寄りながら、常に相手から蔑ろにされてきた可哀想な被害者が、彼自身であるかのように語るのだから恐れ入る。 もはや彼との間で、無意味な言い争いをする気にもなれなかった。何の解決にもならない、ただ気力をすり減らすだけの不毛な時間でしかない。 「そうね、あなたの言う通りだわ。すごく疲れるわね」 私は静かに頷いた。 「だから、これからはもう私に気を揉んで疲れる必要はないわ。それじゃあ、さようなら」 私が構わず歩き出そうとすると、彼はついに取り繕う余裕すらなくしたのか、背後から思いつく限りの罵声を浴びせかけてきた。 「ふざけんな!そうやって意地張って自滅しろ!俺が受かって、お前が落ちて泣きを見たって、絶対に後悔するなよ!!」 最後の最後まで、彼は私の価値を「この大学院に合格できるかどうか」で測り、そして無意識のうちに「紬希は絶対に俺よりも劣っている」と見下しているのだ。 私は呆れ果て、振り返ることすら馬鹿馬鹿しかった。 後悔? ええ、本当に後悔しているわ。もっと早くに目を覚まして、手放しておけばよかったと心底悔やんでいる。 私のパソコンには、海を越えた先にある世界最高峰の学府からの入学許可証が届いている。 もっと広大で、美しい世界が私を待っているのだから。 彼のその虚勢に満ちた脅し文句は―― まるで、これから見知らぬ大地へと旅立とうとしている旅人に向かって、プラスチックのおもちゃの剣を振り回して威嚇している子供のように、ただただ滑稽で、ひどくちっぽけに感じられた。 数日後。 無事に留学ビザが下りた私は、荷造りを済ませ、寮の退去手続きなどを淡々とこなし始めた。 一方の陸斗は、未だに私が意地を張っているのだと思い込んでいたらしい。 共通の知人をあえて使い、「陸斗と美紅がますますいい雰囲気だ」とわざとらしくほのめかしてきた。 私の気を引いて嫉妬させようとする見え透いた手口だったが、私はそのすべてを適当に受け流した。 そして迎えた、出発の日。 私はすでに空港の出発ロビーに到着していた。 不意にスマートフォンが震える。見知らぬ番号からの着信だった。 無視して切ろうとしたが、つい指が滑って通話ボタンを押してしまった。 「あ、もしもし?紬希ちゃん?」 通話口から聞こえてきたのは、陸斗とよくつるんでいる男友達の一人の声だった。 私は不快に眉をひそめ、すぐに通話を切ろうとしたが、相手は構わず上機嫌にまくし立てた。 「いやー、やっと繋がった!今どこにいるの?あのさ、陸斗のやつガチで機嫌悪くてさ。 今みんなで飲んでるんだけど、マジでヤバいくらい顔死んでるんだよね」 電話の背後からは、ガンガン鳴り響くBGMと大勢の騒がしい話し声が聞こえてくる。 男友達の声には、明らかなからかいと煽りの色が混じっていた。 「早く会いに来てご機嫌とってやんないと、今夜マジで陸斗と美紅ちゃん、このまま勢いで付き合っちゃうかもよ? 今ちょうど周りのやつらが『キスしろ、キスしろ!』ってメッチャ煽ってるとこだからさ!あははっ!」 電話の向こうでは下世話な歓声や、囃し立てるような笑い声がドッと湧き上がっている。 彼らは「別れた彼女が慌てて駆けつけてくる劇的な修羅場」を面白半分に期待しているのだ。 「へえ、そう」 私はどこまでも平坦な声で答えた。 「それなら、そのまま『末長くお幸せに』って伝えてくれる?すごくお似合いの二人だから」 途端に、電話の向こうが水を打ったように静まり返った。 どうやら、私が泣きわめいて激怒するか、慌ててすっ飛んで来るとでも思っていたらしい。 私はさらに付け加えた。 「私、もう空港にいて、今から保安検査場を通るところなの。 だから、そっちの馬鹿馬鹿しい茶番劇を見学しに行く暇はないわ。 そういうわけだから、どうぞ朝まで存分に楽しんでってね」 その時だった。電話の向こうから突然―― ガシャァァァーーンッ!!! という凄まじい轟音が響き渡った。パイプ椅子を力任せに蹴り飛ばしたような強烈な音と、いくつものグラスが床で粉々に砕け散る甲高い音。 それに続いて、周囲の学生たちがパニックになって叫ぶ声が飛び交った。 「おい、陸斗!?」 「ちょっと、陸斗!お前いきなりどうしたんだよ!?」

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