第1章
母は末期がんだった。最後の願いは、一度でいいから、私がウェディングドレスを着た姿を見ること。
私は恋人の賀川清人(かがわ きよと)と親友の佐倉遥(さくら はるか)に何度も何度も頭を下げた。しつこいくらい頼み込んで、ようやく二人は、母の最期の願いを叶えるための「偽の結婚式」に付き合ってくれることになった。
結婚式当日、母は最後の力を振り絞って待ち続けた。目が虚ろになるまでずっと。
それなのに清人は来なかった。付き添いを頼んでいた遥も来なかった。
そんな中、遥がSNSに写真を投稿した。
新郎衣装を着た清人と、ドレスアップした遥。二人はケーキを前にして、まぶしいほど楽しそうに笑っていた。
【親友の結婚式、緊張しすぎて無理!新郎さんがわざわざ街の反対側までケーキを買いに付き合ってくれた!こんな優しい彼氏がいるなんて、寧々は幸せ者だね】
位置情報には、人気のケーキ店の名前が表示されていた。
私は震える手で電話をかけた。問い詰めると、清人は悪びれもせず、軽い口調で言った。
「お前のお母さんの願いを叶えるためなんだろ?遥が緊張してたから、ちょっと気分転換させてただけ。そっちのほうが本番もうまく演じられるだろ」
すると遥まで電話口に割り込んできて、笑いながら言った。
「そうだよ寧々。ちょっとからかっただけ。すぐ戻るって。先生にももう少し待っててもらってよ」
その瞬間ようやくわかった。私が必死になって何度も頭を下げたことも、母の最期の願いも。
母の教え子であるこの二人にとってはどうでもいい、ただの冗談だったのだ。
私は一直線になった心電図を見つめた。涙で何も見えなくなった。
こんな馬鹿げたことは終わりにしよう。今後はもう私は一人でいい。
これからは二人とは関わらない。そして私自身もようやく解放してあげることにした。
第1章
病院で必要な手続きをすべて終え、私は急ごしらえの小さな式場へ戻った。
招待客はとっくに一人残らず帰っていた。
正面の壁には、大きな紅白の飾りが貼られている。昨夜、私が一つずつ飾ったものだ。
母は言っていた。
「お祝いの飾りは、曲がらないようにちゃんと貼るのよ。そうすれば、これからの人生もうまくいくから」
テーブルには、母が選んだウェディングケーキが残されていた。時間が経ち、クリームは少し溶けて崩れている。
ぐちゃぐちゃになったその姿は、今の私の心そのものに見えた。
ウェディングドレスを脱ぎ、何も考えられないまま後片付けを始める。
半分ほど片づけた頃、ようやく清人と遥が姿を現した。
二人の手には、あの人気ケーキ店の紙袋が提げられていた。
「寧々、お待たせ!先生のために低糖質のケーキを選んできたの。ここの一番人気で……」
明るく響いていた遥の声が途中で止まった。閑散とした会場を見回し、驚いた顔をする。
「みんなは?結婚式やるんじゃなかったの?なんで誰もいないの?」
清人も眉をひそめた。
「寧々、遥が聞いてるだろ。みんなどこに行ったんだよ?」
私は答えなかった。
さすがに何かがおかしいと感じたのか、遥が恐る恐る取り繕うように言った。
「寧々、もしかして先生、怒ってる?ごめんね。私がちゃんと時間を考えてなかったせいだよ。清人も、私のケーキ選びに付き合ってくれたから遅くなっただけで……」
遥が言い終えるより先に清人が口を挟んだ。だが私ではなく、遥を慰める。
「遥が気にすることないって。先生はあんなに優しい人なんだから、事情を知ったって俺たちを責めたりしないよ」
その一言が、針のように胸へ突き刺さった。目の奥が熱くなる。
母が清人を責めるはずなんてない。
最期の瞬間まで、二人が来ない理由を代わりに考えてあげていたくらいなのだから。
十年前、清人の両親が離婚騒ぎを起こし、誰も彼の面倒を見ていなかった頃のことだ。
清人は胃に穴が開くほど体調を崩し、激痛で意識を失った。
大雨の中、彼を病院まで運んだのは母だった。
病院では最初に入院保証金を求められた。母は迷うことなく、自分の給料二か月分を立て替えた。
それでも清人に負い目を感じさせたくなかったのだろう。母は笑って言った。
「私はあなたの先生なんだから、これくらい当然よ。そんなに気にしないの。清人くんは将来、大物になるんだから。そのときに返してくれればいいわ」
病室のベッドに横たわった清人は、母の手を握りしめて、長いこと泣いていた。そして必ず一生かけて恩返しすると誓った。
それから清人は、頻繁にうちへ顔を出すようになった。
年末年始やお盆など、節目の日には真っ先にやって来る。母が病気になったときには、私以上に慌てていたほどだ。周囲からも、本当の息子みたいに親孝行だと褒められていた。
なのに、母のための最後の芝居だけは、まともに演じてくれなかった。
私は脱いだウェディングドレスを椅子の上に放った。
自分のものとは思えないほど、かすれた声が出る。
「結婚式はもうやらない。これから先もする必要はないから」
清人は一瞬、呆気に取られた。だがすぐに顔を冷たく歪め、鼻で笑った。
「寧々、どういう意味だよ?」
第2章
「今度は結婚式を盾に俺を脅すつもりか?ちゃんと戻ってきて、芝居にも付き合おうとしてるだろ。何が不満なんだよ」
私は静かに答えた。
「別に何も。ただもう芝居をする必要はないって言ってるだけ」
清人の顔色が一気に変わった。胸につけていた新郎用のブートニアを乱暴にテーブルへ叩きつける。
「わかったよ!やらなくていいならやらないさ!
そもそもこの結婚式は偽物だろ。先生に見せたいって、お前が俺に頼み込んできたんじゃないか。自分から中止したんだから、あとで泣きついてきても知らないからな」
遥が慌てて清人の腕をつかんだ。
「清人、寧々にそんな言い方しないで」
それから私を見る。その目はもう赤く潤んでいた。
「寧々、そんなふうにならないでよ。清人も言い方はきついけど、あの性格なのは知ってるでしょ?ちょっと優しく言ってあげなよ。それで済む話なんだから」
これまで喧嘩をするたび、悪いのが私でなくても、最後に折れるのはいつも私だった。
清人が機嫌を悪くすれば、清人の好きな食べ物を買っていった。
メッセージを無視されれば、会社の前で帰ってくるのを待った。
心が狭いと言われれば、気にしていないふりをして、何度も自分の物分かりのよさを証明しようとした。
目の前でわざと遥と親しげにされても、何も言わなかった。
でも今回はもう本当に疲れた。私は淡々と言った。
「帰るならさっさと帰って」
清人は怒りをあらわにし、遥の腕を振り払うと、そのまま振り返りもせず出ていった。
遥も彼を追いかけようとしたが、扉を出る直前に一度だけ私を振り返った。
「寧々、本当にがっかりした。こんな些細なことで、そこまで怒るなんて。先生が今の寧々を見たら、きっと悲しむよ」
扉が閉まる。会場は再び静まり返った。
入口に飾られた結婚式用の写真を見つめると、たまらなく滑稽に思えた。
二人は知らない。母はもう悲しむことさえできないのだ。
すべての後片付けを終えた頃には、もう外は暗くなっていた。
私は雑貨や荷物を詰め込んだ袋を抱え、清人と二人で暮らしている家へ戻った。
スマホを開くと、遥がSNSを更新していた。
9枚の写真がまとめて投稿されている。
【今日は一日、仕方なくサービスしてきました。親友の結婚式はなくなっちゃったけど、せっかくの衣装を無駄にするのももったいないしね】
一枚目、遥と清人がスイーツ店で並んで座り、楽しそうに笑っていた。
テーブルのケーキにはHappy Weddingと書かれている。
二枚目は遊園地だった。
ブライズメイド用のドレスを着た遥が、カメラに向かって横顔でピースをしている。
その隣では、清人が遥のドレスの裾を持ってやっていた。
三枚目は海辺。
風に飛ばされそうになった遥のベールを、清人が手を伸ばして押さえている。
そして最後の一枚。清人が遥のベールを整えていた。
二人の顔は、あと少し近づけばキスしてしまいそうなほど近い。
どの写真でも二人は幸せそうに笑っていた。まるで絵に描いたような恋人同士だった。
二人が着ているのは、私の結婚式のために用意した衣装なのに。
写真だけを見れば、本物の新婚夫婦にしか見えない。
本当の恋人である私は、ただの笑いものだった。
普段はSNSなんてほとんど更新しない清人まで、珍しく遥とのツーショットを投稿していた。
【この衣装も無駄にならずに済んだ】
コメント欄には二人をからかう言葉がずらりと並んでいた。
【二人とも、このまま結婚するの?】
【美男美女でお似合いすぎる】
【清人の目、本当にただの演技には見えないんだけど】
【この雰囲気すごい。もうそのまま結婚しちゃえば?】
一つ一つの冗談が、頬を平手打ちされているように痛かった。
遥はコメント欄で返信していた。
【変なこと言わないでよ。清人は寧々の彼氏なんだから】
【私はちょっと借りて写真撮っただけ】
それでも誰かしらがからかう。
【ウェディングフォトまで撮っておいて、まだ言う?】
遥はまた答えた。
【もう、やめてよ。私と清人は本当に何もないから】
【今日は私が無駄足にならないようにって、少し付き合ってくれただけ】
【楽しい写真を撮ったら、寧々も見て喜ぶかなって思ったの】
私はその一文をじっと見つめた。笑いながら、涙が落ちた。
私の結婚式の衣装を着て、私の恋人とカップル写真を撮った。
そのうえ私を喜ばせるためだったとまでいう。
第3章
私は遥の投稿に「いいね」を押した。
数分もしないうちに遥から電話がかかってきた。どこか後ろめたそうな声だった。
「寧々、投稿見た?勘違いしないでね。ただふざけて写真を撮ってただけだから」
私は何も答えなかった。遥は慌てて言葉を続ける。
「大丈夫。先生には見えないようにしてあるから」
母が見たら何か思うかもしれない。そのことくらいは、遥にもわかっていたらしい。
でも遥は知らない。母はもう二度と何かを見ることはできない。
電話の向こうで、遥はまだ話し続けていた。
「寧々、清人と意地を張り合うのはやめなよ。私からもちゃんと言っておいたから。今度はもっといい会場を探そう。それで絶対、先生の願いを叶えようよ。先生は私にとってもすごく大切な人だもん」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。息をするのさえ苦しかった。
遥も母の教え子だった。
遥の家は息子ばかりを可愛がり、娘である遥にはまともに食事すら与えないことがあった。
母は何度も、誰にも知られないように遥のICカードへお金を入れていた。
高校三年生の頃、家族から学校を辞めて働けと言われた遥のために、母は三度も彼女の家へ足を運んだ。
遥の代わりに怒って、頭を下げて、必死に家族を説得した。
そうしてようやく、遥は学校に通い続けることができたのだ。
あの日、遥は母に抱きついて泣いていた。
「先生……先生のほうが、私の本当のお母さんみたい」
そう言っていた。
なのに今、母が娘のように可愛がってきた遥は、私が用意したブライズメイドのドレスを着て、私の恋人と丸一日遊び歩いていた。
そして、母に見えなければいいだろう、と言う。
遥の声はまだ止まらない。
「寧々、考えすぎだよ。コメントしてる人たちだって、ただふざけてるだけじゃん。嫌なら投稿は消すから。でも清人とは喧嘩しないで。今日はもう、清人もすごく疲れてるんだから」
目の奥がひどく痛んだ。もうこれ以上彼女の一方的な言い分を聞いていたくなかった。
私はそのまま電話を切った。
ソファに座り、母が残したわずかな遺品を眺める。声すら出ないほど泣いた。
どれくらい経ったのだろう。再びスマホの画面が光った。
清人からだった。
【気が済んだなら、帰ってきて謝れ】
【遥が泣いてる。せっかくお前を慰めようとしてくれたのに、その態度はないだろ】
【先生だって、今のお前を見たくはないはずだ】
画面をじっと見つめた。その瞬間、これまでの年月すべてが馬鹿馬鹿しく思えた。
遥が泣けば、一大事。
私の母が死んでも、私はただの恩知らずでわがままな女らしい。
荷造りには三十分もかからなかった。
考えてみれば滑稽な話だった。ここは私と清人が二人で暮らしている家なのに、私よりも遥の物のほうが多い。
浴室、クローゼット、冷蔵庫。家のあちこちに、遥の痕跡が残っている。
寝室のベッド脇の引き出しからは、遥のヘアゴムまで出てきた。
それを手にしたまま、私はしばらく動けなかった。昔のことを思い出す。
遥も清人も、母の教え子だった。
けれど二人は昔から相性が悪く、顔を合わせればすぐに言い合いになった。三言話せば、二言は喧嘩しているような二人だった。
母はいつも料理をよそいながら、呆れたように仲裁していた。
「二人ともいい子なんだから、そんなに喧嘩しないの。清人くんは男の子なんだから、少しくらい遥ちゃんに譲ってあげなさい。遥ちゃんもそんなに意地を張らないの」
そして私にも言った。
「寧々はここの家の子なんだから、二人のことをちゃんともてなしてあげてね」
あの頃は、本当ににぎやかな家だと思っていた。
好きな人と、一番の親友と、母と、みんなで同じ食卓を囲んでいた。
いつからだろう。二人の間に、私だけが入れない何かが生まれていた。
遥が残業で遅くなれば、清人は迎えに行った。
雨の日に遥が傘を忘れれば、私が気づくより先に清人が心配していた。
遥が失恋して酔いつぶれれば、清人は夜中まで話に付き合った。
私が不満を口にするたび、清人は決まってこう言った。
「遥はお前の親友だろ。お前の友達だから、俺だって気にかけてるだけだ。それなのに遥に嫉妬するのか?寧々、心狭すぎるだろ」
遥も目を赤くして言った。
「寧々……もう私とは友達でいたくないの?」
そう言われるたび、結局謝るのは私だった。
恋人を失うのが怖かった。親友を失うのも怖かった。そして何より、母に心配をかけたくなかった。
だが結局私は何一つ守れなかった。
第4章
突然、玄関の鍵が開く音がして、私は我に返った。
清人が帰ってきた。その後ろには遥もいる。
家に入った清人の視線が、真っ先に私のスーツケースへ向かった。
途端に顔が険しくなる。
「寧々、今度は何のつもりだ?先生が危篤だっていうのに、家出なんかしてる場合かよ」
清人の後ろに立つ遥は、目を真っ赤にしていた。傷ついたような顔で私を見る。
「寧々……私に何か不満でもあるの?だったら、その話はあとにしようよ……今は怒ってる場合じゃないでしょ。先生の体がどんな状態か、寧々だってわかってるよね。今は先生のことが一番大事なんだから」
喉の奥に綿でも詰め込まれたようだった。今になって母が大事だと言うの?
それなら昨日は、どうして二人とも連絡すらつかなかったのだろう。
なのに今では、まるで私のほうが、わがままを言って周囲を困らせている悪役のようだった。
遥が近づき、私の手を取ろうとした。私は避けた。
すると彼女の目はさらに赤くなり、声まで震え始める。
「寧々……写真のことで怒ってるんだよね?本当にごめんなさい。これからは清人とちゃんと距離を置くから。
でも今は、本当に意地を張ってる場合じゃないよ。先生は体調が悪いんだから。寧々と清人がこんなことになってるって知ったら、どれだけ悲しむと思う?」
胸の奥がずきりと痛んだ。悲しむ?
母が人生で一番悲しかったのは、最後の息を引き取るその瞬間まで、二人を待っていたあのときだ。
私は冷めた声で言った。
「謝らなくていい。お母さんのことも二人には関係ないから」
清人が鼻で笑った。私の前まで歩いてくると、遥をかばうように自分の背後へ下がらせる。
「関係ない?先生は俺の将来の義母で、俺の恩師でもある。俺が心配して何が悪いんだよ」
私は荷造りの手を止めた。まっすぐ清人を見つめる。
「今になって思い出したの?お母さんがあなたの将来の義母だって。昨日、お母さんがあなたを待っていたとき、どこにいたの?
最後に一度、あなたからお母さんって呼んでもらいたいって願っていたとき、あなたはどこにいたの?」
清人の顔色が変わった。声が一段高くなる。
「寧々、お前、いちいちそんな嫌味ったらしい言い方しかできないのか?言っただろ。俺は遥と先生のケーキを買いに行ってただけだ。戻らないなんて一言も言ってない。それをお前が勝手に大騒ぎして、結婚式まで中止にしたんだろ?」
空気が険悪になると、遥が慌てて二人の間へ入ってきた。
「清人、やめて……今はみんなつらいんだから。全部私が悪いの。私のせいで、こんなことになっちゃって……」
遥は昔からこういうときの空気を読むのがうまかった。
弱々しく振る舞うことも、誰より得意だった。
案の定、清人は心配そうに彼女を見た。そして私には冷たい顔を向ける。
「わかったよ。出ていきたいなら勝手に出ていけ。でも一つだけ言っておく。先生の病気を利用して、俺を折れさせようとするな。俺だって、毎回お前のわがままに付き合うつもりはないからな」
そう言い捨てると、清人は遥の手を引いて出ていった。
清人に手を引かれたまま、遥は玄関を出る直前に私を振り返った。
その目には傷ついたような色と、隠しきれない、わずかな勝ち誇った色が浮かんでいた。
扉が閉まる。家には私一人だけが残された。
私はその場に立ち尽くし、長いこと動かなかった。
これまで喧嘩をするたび、私は清人が帰ってくるのを待った。怒りが収まるのを待った。私の話を聞く気になるのを待った。彼のほうから仲直りのきっかけをくれるのを待った。
でも今回はもう待ちたくなかった。
私はスーツケースを引き、鍵を玄関の棚へ置いた。そして一度も振り返らず、その家を出た。
マンションを出たところで、病院の看護師から電話がかかってきた。
「夏目さん、お母様の死亡診断書と、ご遺体の搬送に関する手続きについて、ご確認いただきたいことがあります。病院までお越しいただけますか?」
スマホを握ったまま、私は小さく答えた。
「……はい」
これさえ終われば、私はもう本当に何にも縛られなくなる。
翌朝早く、病院へ向かった。
いくつもの書類に署名したあと、医師から廊下で待つように言われた。
診察室を出る直前、医師が一通の封筒を差し出した。
「こちらは、お母様の遺品です」
封を開けると、中に入っていたのは、母があらかじめ書いていた結婚式のスピーチ原稿だった。
文字は少し震えていた。それでも一文字一文字、とても丁寧に書かれていた。
第5章
【清人くんへ。
先生にはもう、この世に心残りはほとんどありません。ただ、寧々のことだけが心配です。
あの子は小さい頃から父親がいなくて、普段は明るくて何でも平気そうに見えるけれど、本当は誰よりも一人になることを怖がっています。
清人くんは落ち着いた子だから、寧々が意地を張っているときには、少し優しくしてあげてね。まともに張り合ったりしないで。これからは先生の代わりに、寧々を大切にしてあげてください】
その下には、少し薄くなった字で、もう一つメッセージが続いていた。
【遥ちゃんへ。
先生からあなたにも、一つお願いがあります。
寧々は頑固そうに見えるけれど、本当はとても優しい子です。あなたと寧々は、本当の姉妹みたいでしょう?
先生がいなくなっても、二人ともずっと仲良くしていてね。そうすれば、先生も向こうで安心できます】
ぽたりと涙が便箋の上に落ちた。もうそれ以上読むことができなかった。
母は最後の最後まで、清人のことを信じていた。私と遥のことを心配していた。
そして私を清人に託そうとしていた。
でも母は知らなかった。託す相手を間違えていたことを。
まだ気持ちの整理すらつかないうちに、廊下の向こうから清人と遥が慌ただしく歩いてくるのが見えた。
清人の顔には苛立ちが浮かんでいた。私を見つけた途端、大股で近づいてくる。
「寧々、お前いったい何したんだよ?先生まで電話に出ないじゃないか。先生に何を言った?」
後ろからついてきた遥も、私を責めるような顔をしていた。
「寧々、私たちに怒ってるのはわかるよ。でも先生は今あんな状態なんだから、余計な心配をかけちゃだめでしょ?会場だって、もう別のところを押さえたの。今度は絶対に失敗しないから。私たちだって、本気で先生の願いを叶えたいと思ってるんだよ」
私が何も答えないでいると、清人はいっそう苛立った。
「そんな顔するなよ。昨日だって俺から折れてやったのに、お前が勝手に騒ぎ続けたんだろ。今度は病院に逃げ込んで、先生に味方してもらうつもりか?寧々、いい加減もう少し大人になれよ」
私は清人を見つめた。途端にどうしようもなく疲れた。
説明することすらもう面倒だった。口元に自嘲めいた笑みが浮かぶ。
そして静かに言った。
「清人。お母さんは死んだよ」
廊下が一瞬、しんと静まり返った。
清人の顔からさっと血の気が引いた次の瞬間、頬に激しい衝撃が走った。清人に平手打ちされたのだ。
顔が横を向き、耳の奥でキーンと音が鳴る。殴った本人も、すぐに固まった。
自分の手を見つめ、後悔したような表情を浮かべる。
それでも口では認めなかった。
「わざとじゃない。お前があまりにもひどいことを言うからだろ。俺に謝らせたいからって、そんな嘘までつくのかよ?先生はまだ病室にいるんだぞ。死んだなんて縁起でもないこと、よく言えるな」
遥まで、今度こそ本気で目を赤くしていた。
「寧々……本当にひどいよ。先生はいつも、寧々は一番親孝行で、一番しっかりした子だって言ってたのに。先生の生き死にを、そんな冗談に使うなんて……」
自分のものとは思えないほど冷たい声が出た。
「じゃあ、昨日はどうして結婚式を冗談にしたの?」
遥の表情が一瞬こわばる。すぐに俯き、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「わかってる……私が悪かった。でも、本当にわざとじゃなかったの。緊張して、ちゃんと演じられるか不安だったから、清人が気分転換に付き合ってくれただけで……まさか、あんなに遅くなるなんて思わなくて……」
最後まで言わせず、清人が遥の前に立ちはだかった。
「もういい!遥だって十分反省してるだろ!みんなを追い詰めないと気が済まないのか?」
私は笑った。そのとき初めて、いつの間にか頬を涙が伝っていたことに気づいた。
「反省?ブライズメイドのドレスを着て、あなたとカップル写真を撮ることが?」
清人の視線が一瞬泳いだ。声にもわずかな動揺が混じる。
「いつまでその話してるんだよ?俺たちだって、この二日間ずっと動き回って、新しい式場まで準備したんだぞ。今度こそ、絶対に先生を喜ばせるから」
視界が涙で滲んだ。私が何か言おうとしたそのとき、診察室から医師が出てきた。
「夏目さん、夏目美和(なつめ みわ)さんの死亡診断書ですが、もう一か所だけご署名をお願いします」
空気が凍りついた。
清人と遥の顔から少しずつ血の気が失われていった。