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月が沈む夜に訪れた別れ
夫の黒瀬悠真(くろせ ゆうま)は、幼なじみの白石雪乃(しらいし ゆきの)がエレベーターに1時間閉じ込められた翌日、私たちの6歳の娘・黒瀬莉子(くろせ りこ)をスーツケースに丸一昼夜閉じ込めた。 出張先にいた私、黒瀬音羽(くろせ おとは)は、自宅の見守りカメラに映る激しく揺れるスーツケースを見て、すぐに悠真へ電話をかけた。 「悠真、正気なの?莉子はまだ6歳なのよ。あんなところに閉じ込めるなんて……早く出して!」 けれど、悠真は冷たく言い放った。 「莉子が余計なことをしなければ、雪乃は閉じ込められなかった。閉所恐怖症の雪乃がどれだけ怖かったと思う?莉子にも同じ思いをさせれば、さすがに懲りるだろ」
チャプター (1)
第1章
夫の黒瀬悠真(くろせ ゆうま)は、幼なじみの白石雪乃(しらいし ゆきの)がエレベーターに1時間閉じ込められた翌日、私たちの6歳の娘・黒瀬莉子(くろせ りこ)をスーツケースに丸一昼夜閉じ込めた。
出張先にいた私、黒瀬音羽(くろせ おとは)は、自宅の見守りカメラに映る激しく揺れるスーツケースを見て、すぐに悠真へ電話をかけた。
「悠真、正気なの?莉子はまだ6歳なのよ。あんなところに閉じ込めるなんて……早く出して!」
けれど、悠真は冷たく言い放った。
「莉子が余計なことをしなければ、雪乃は閉じ込められなかった。閉所恐怖症の雪乃がどれだけ怖かったと思う?莉子にも同じ思いをさせれば、さすがに懲りるだろ」
第1話
「雪乃、雪乃って……悠真の頭の中には、あの人しかいないの?」
黒瀬音羽は目を赤くしたままタクシーを拾い、空港へ急いだ。雪乃のためなら何をしでかすか分からない悠真のことだ。少しでも遅れれば、娘の最期にさえ間に合わないかもしれない。
これまでも、大雪の高速道路に音羽と莉子を置き去りにし、莉子が6年間かわいがってきた犬を、雪乃が犬の毛にアレルギーだというだけで殺処分にした。音羽のワンピースを雪乃が褒めれば、人前で無理やり脱がせて渡したことさえある。
そんな悠真が今度は、雪乃のためにエレベーターのボタンを押した莉子を、スーツケースに閉じ込めたのだ。
見守りカメラの映像では、さっきまで激しく揺れていたスーツケースが次第に静まり、莉子の泣き声も小さくなっていった。
「悠真、お願い……莉子を出して。あの子はあなたの娘でもあるのよ。どうして少しも莉子を可哀想だと思わないの? 莉子を出してくれるなら何だってする。離婚だってする。雪乃と一緒になっても構わない。だからお願い……莉子を出して」
悠真は鼻で笑った。
「音羽、俺を馬鹿にするな。離婚したら、また祖母をけしかけて雪乃を困らせる気だろ。今さら遅い。恩を盾に俺と結婚したのはお前じゃないか」
言い返す間もなく電話は切れ、その直後、カメラ越しに聞こえていた莉子の泣き声まで途絶えた。
音羽は初めて、悠真と結婚したことを心の底から悔やんだ。
幼い頃から児童養護施設で育った音羽は、努力して凪城市(なぎしろし)の進学校へ入り、その後、難関の凪城大学へ進学した。卒業後は留学するつもりでいたが、ある日、心臓発作で倒れた黒瀬千鶴(くろせ ちづる)を偶然助けた。
一命を取り留めた千鶴は音羽に感謝し、やがて孫との縁談を持ちかけてきた。
「そういえば、うちの孫とは高校も大学も同じなのよね。これも何かの縁じゃないかしら」
音羽には好きな人がいたため、最初は断るつもりだった。ところが、その孫こそ、高校時代から思い続けていた悠真だった。
その後、悠真からプロポーズされると、音羽は舞い上がるほど喜び、留学のことも忘れて結婚した。
しかし新婚初夜、音羽はひとりで夜を過ごすことになった。悠真を捜して会員制クラブまで行くと、雪乃の腰に腕を回して踊る彼の姿があった。
音羽が彼に怒りをぶつけたのは、そのときが初めてだった。
「悠真、会社の急用って、これのことだったの?」
悠真は冷たく笑った。
「何を今さら。俺が雪乃を好きなのは、みんな知ってるだろ。祖母を助けた恩を盾に俺と結婚したのはお前じゃないか。何不自由なく暮らしてるんだから、それで十分だ。これからはお互い好きにすればいい。俺には口を出すな」
その夜、音羽はようやく、千鶴が結婚を勧めた理由を知った。
悠真が、長年黒瀬家と対立してきた白石家の娘・雪乃を愛していたからだ。千鶴は二人を別れさせようとしていた。
あの日、千鶴を助けたのが音羽でなくても、きっと別の誰かに同じ話を持ちかけていただろう。たまたま、それが音羽だっただけだ。
そこまで思い返したところで、飛行機は凪城市の空港に到着した。
音羽は吹雪の中を急いで家へ戻り、泣きながら階段を駆け上がった。
「莉子……莉子!」
震える手でスーツケースを開けると、強い腐敗臭が鼻をついた。中には、狭い空間で体を折り曲げた莉子が横たわっていた。頬には乾いた涙の跡が残り、もう息はなかった。
音羽は頭が真っ白になり、そのまま莉子を抱きしめて夜が明けるまで泣き続けた。やがて屋敷にいた使用人たちを問い詰めると、返ってきたのはあまりにも冷たい答えだった。
「どうして……どうして誰も莉子を助けてくれなかったの?」
「申し訳ありません。悠真様から、許可なくお嬢様を出すなと命じられておりました」
その言葉で、音羽はようやく目が覚めた。
8年間耐えてきても、悠真に大切にされることも、感謝されることもなかった。最後に残ったのは、冷たくなった娘だけだった。
音羽は涙を拭い、莉子の葬儀を簡素に済ませると、ナイフを手に悠真の会社へ向かった。
社長室に入っても、悠真は顔さえ上げない。
「莉子は反省したか?」
「反省?莉子の何が悪かったっていうの?あの子の一番の不幸は、あなたが父親だったことよ。私の一番の間違いは、あなたと結婚したこと」
泣きながら笑う音羽を見て、悠真はようやく眉をひそめて顔を上げた。
「悠真、あなたみたいな悪魔に生きてる資格なんてない。地獄に落ちろ!」
音羽が悠真に襲いかかったその瞬間だった。社長室のドアが勢いよく開き、飛び込んできた雪乃が刃を素手でつかんだ。
血が床一面に広がった。
「雪乃!」
悠真は顔色を変え、音羽を突き飛ばして雪乃を抱き寄せた。
「音羽、雪乃に何かあったら、お前も無事じゃ済まないからな!」
そう言うと、音羽には目もくれず、雪乃を抱えて部屋を出ていった。
突き飛ばされた音羽は机の角に腰を強く打ちつけた。息をのむほどの痛みが走ったが、莉子を失った苦しみに比べれば何でもなかった。
もう限界だった。莉子の遺骨と一緒にここを出て、悠真から離れよう。
そのときの音羽は、異様なほど冷静だった。腰の痛みも気にせず、そのまま黒瀬家の本邸へ向かった。
千鶴の前に立つと、音羽は告げた。
「おばあさま、悠真と離婚します」
第2話
「おばあさま、前に言いましたよね。3年経っても悠真が私を愛さなかったら、いつでも離れていいって」
莉子が亡くなったことは、千鶴もすでに知っていた。何か言いかけた千鶴の言葉を、音羽は遮った。
「おばあさまが何を言いたいかは分かっています。悠真と雪乃のことだけなら、莉子のためにこれからも我慢したと思います。でも、莉子はもういません。あの子を死なせた悠真と、もう一緒にはいられません」
千鶴はそんな音羽を見つめ、やがて口を開いた。
「音羽ちゃん、本当にごめんなさい。黒瀬家があなたと莉子ちゃんにしたことを思えば、もう引き止められないわ。離婚のことはこちらで進めるし、財産も半分はあなたに渡す。二人へのせめてもの償いにさせてちょうだい」
千鶴の了承を得た音羽は、1週間後の航空券を予約し、悠真と雪乃を訴えるため弁護士にも連絡した。
そこまで済ませてようやくスマホの電源を切ると、布団に潜り込み、無理やり目を閉じた。
ここしばらくは仕事に追われ、食事さえ満足に取れない日が続いていたうえ、莉子を助けるため急きょ帰国したことで仕事まで駄目になった。
それでも肝心の莉子を救うことはできず、何もかもが、もう終わってしまったように思えた。
疲れ切った音羽は、そのまま眠りに落ちた。
翌日、激しい息苦しさで目を覚ました音羽は、自分が透明な水槽の中に縛られていることに気づいた。水はすでに胸元まで達し、無数の水ヘビが体に食いついていた。
「悠真……今度は何をする気?」
水槽の外に立つ悠真が、冷ややかに言った。
「音羽、お前いい加減にしろよ。この前、雪乃を刺したときだって、雪乃が許してやってって言うから見逃したんだ。それなのに今度は俺と雪乃を訴えるって?莉子をスーツケースに閉じ込めたくらいで、そこまでするか?」
――閉じ込めたくらいで。
その言い方に、音羽は怒りを抑えられなかった。悠真にとっては、莉子の死さえその程度のことなのか。
莉子の最期を思い出すと、二人とも殺してやりたいほど憎かった。
「悠真、あんた本当に最低ね。莉子をスーツケースに閉じ込めたうえ、今度は私まで水槽に閉じ込めるの?莉子は、あなたに殺され――」
「もういい。お前の言い分なんか聞きに来たんじゃない。弁護士に連絡して訴えを取り下げろ。それから莉子を連れて雪乃に謝ってこい。それで許してやる」
「ふざけないで。ここで溺れ死んでも、絶対に取り下げない!」
莉子を殺したのはあなただと、はっきり言ってやりたかった。8年間のみ込んできた思いも、何もかもぶつけたかった。けれど、水は口元まで迫り、もう息をするだけで精いっぱいだった。
必死につま先で踏ん張っていた足が滑り、四方から押し寄せる水に引きずられるように体が沈んでいく。
これで莉子のところへ行ける――そう思ったとき、網で水槽の外へ引き上げられた。
激しくせき込む音羽の顎を、悠真が強くつかんだ。
「お前、やってくれたな。祖母のこともあるし、莉子と一緒に謝れば、そこで終わりにするつもりだった。それでも引かないなら、もう容赦しない。その弁護士も、お前に手を貸した奴も、全員潰す」
悠真が背を向けて出ていった直後、音羽のスマホが激しく震え、弁護士からの着信を知らせた。
「黒瀬さん、もう無理です。これ以上この件は担当できません。黒瀬ホールディングスと関係の深い顧客から、次々と契約を切られています。このままでは事務所が潰れます。30人の所員まで巻き添えにはできません。申し訳ありません」
音羽は言葉を失った。弁護士がそのあと何を言ったのか、ほとんど覚えていない。
悠真の強引なやり方は何度も見てきた。それでも、自分までこんな目に遭わされるとは思っていなかった。学生時代の悠真は、音羽にとってまさに救世主だったからだ。
仲間外れにされていた音羽を生徒会へ誘ったのも、苦手な理系科目を放課後まで教えてくれたのも、高熱が下がらない音羽を病院へ連れていってくれたのも、悠真だった。
口は悪くても、本当は優しい人だと思っていたし、そんな悠真に何度も背中を押されてきた。だから凪城大学に合格したとき、音羽は気持ちを伝えようと決めた。ところがその矢先、海外にいた雪乃が帰国した。
雪乃を見た瞬間、悠真の目に涙が浮かんだ。そんな顔を見たのは初めてだった。そのとき音羽は、ようやく気づいた。
悠真が自分に優しかったのは、自分が雪乃に似ていたからなのだと。
音羽は最初から、雪乃の代わりでしかなかった。
ただの片思いなら、いつか振り向いてもらえるかもしれない。でも、自分が誰かの代わりでしかないのなら、最初から自分自身を見てもらえてなどいなかったのだ。8年間夫婦でいても、それは変わらなかった。
「黒瀬さん、もうやめたほうがいいです。黒瀬ホールディングスを相手にしても、勝てません」
弁護士にそう告げられ、結局、訴えは退けられた。音羽は呆然としたまま傷の手当てを受けるため病院へ向かい、そのまま入院することになった。
入院手続きを終えたばかりの音羽の病室に、雪乃がゆっくり入ってきた。そして、手にしていたごみ袋を音羽に投げてよこした。
中に入っていたのは莉子の骨壺だった。
第3話
ぞくりと全身に寒気が走った。震える手で骨壺を開けると、中には何も入っていなかった。
「雪乃……何をしたの?莉子の遺骨はどこ?」
音羽が苦しむ様子を、雪乃は愉しげに眺めていた。
「ゴミなんて、埋めたって土地の無駄でしょ。だから化学実験に使ったの。あの子が役に立つとしたら、それくらいじゃない?そうそう、莉子ちゃんをスーツケースに閉じ込めるよう悠真に言ったのも私。私がひと言言えば、悠真は実の娘だって平気で殺せるのよ。音羽、それでも私に勝てると思ってる?」
そう言って、雪乃は薬指の指輪を見せつけた。
淡いピンクのダイヤは、少し前に悠真が高値で落札したものだった。世界に一つしかないその石を、誰もが音羽への贈り物だと思っていた。
それが今、雪乃の薬指にある。
「悠真の妻だからって何?ダイヤの指輪、買ってもらったことある?結婚写真は?新婚旅行は?あんたどころか、あんたが産んだあのガキだって――」
最後まで言わせず、音羽は雪乃の頬を打った。そのまま髪をつかんで床へ押し倒し、馬乗りになって何度も平手を浴びせる。
「これは莉子を死なせた分!これは人の家庭を壊した分!それからこれは、8年間散々、私たちの仲をかき回してきた分よ!雪乃、あんたなんか死ねばいい。殺してやる!」
怒りに任せて雪乃の首を締め上げても、その顔から勝ち誇った笑みは消えなかった。
その瞬間、飛んできた花瓶が音羽の頭を直撃し、眉のあたりから血が流れた。
「音羽、何やってるんだ!」
駆け込んできた悠真は、血まみれの雪乃を見るなり激怒し、連れていたボディーガードたちに音羽を取り押さえさせた。
床に押さえつけられた音羽は、声を上げた。
「放して!悠真、雪乃が莉子を殺したのよ!遺骨まで実験に使ったの!」
「もういい。俺を馬鹿にするな。莉子は、お前が戻ってからずっといないそうじゃないか。雪乃に謝りたくなくて隠したんだろ?死んだなんて嘘までついて……母親がすることか?」
母親がすることか――
莉子が言葉を覚え、歩き始め、学校で字を書くようになるまで、音羽はその成長をずっと見守ってきた。そして最後の葬儀も、音羽が見送った。
その一方で悠真は、娘の名前を覚えるだけで3年もかかり、莉子が死んだことさえ知らない。そんな悠真に、責められる筋合いなどなかった。
張り詰めた空気の中、雪乃が泣きながら口を挟んだ。
「悠真、音羽さん、もうやめて。私、今日は謝りに来ただけなの。音羽さんにも莉子ちゃんにも、本当に申し訳ないと思ってる。できる限り償いたいの」
その白々しさに音羽が言い返そうとしたとき、悠真が先に口を開いた。
「雪乃は何も悪くない。悪いのはあいつら母娘だ。自業自得だろ。雪乃が謝る必要も、償う必要もない」
悠真は雪乃には優しくそう言うと、音羽へ向き直った。
「それと音羽。莉子をしつけられないなら、こっちでしつける。お前も、このままで済むと思うな。雪乃を殴った分だけ、きっちり返してもらうぞ」
嫌な予感がした。
「悠真、何を――」
頬を打つ乾いた音が、言葉を遮った。
音羽が身構える間もなく、左右から容赦なく平手が飛んできた。何度も頬を打たれ、両頬はみるみる腫れ上がり、口の中は血でいっぱいになり、歯まで何本か抜け落ちた。ようやく手が止まると、音羽はぐったりと床に投げ出された。
それを見ても、悠真はまばたきひとつしなかった。
「音羽、お前最近どうしたんだよ。8年間ずっといい妻ぶってたじゃないか。祖母からもらう金じゃ足りないのか?何が不満か知らないが、今日みたいな真似は二度とするな。くだらないことで騒ぐな」
悠真は雪乃を抱き寄せると、床に倒れた音羽には目もくれず、そのまま病室を出ていった。
第4話
入院して3日が過ぎても、悠真が病室へ来ることはなかった。
代わりに届いたのは、1か月前に卒業生代表として挨拶を頼まれていた凪城大学創立70周年記念式典のリハーサルに参加してほしいという、大学時代の指導教員からの連絡だった。
まだ莉子が生きていた頃、この話をすると、あの子は嬉しそうに尋ねた。
「ママ、パパも一緒に大学へ行くの?」
ちょうど帰宅した悠真がそれを聞き、顔をしかめた。
「俺と一緒に式典に出たいからって、莉子をだしに使ったのか?」
音羽が説明しようとしたが、悠真は取り合わなかった。
「勘違いするな。お前は雪乃じゃない。俺と並んで式典に出られると思うな」
それ以来、莉子は悠真と話すたび、音羽に確認するようになった。
「ママ、今の言い方、大丈夫?」
まだ幼い子供なのに、父親の顔色をうかがうようになっていた。
思い出すだけで涙がこぼれたが、どうにかして気持ちを落ち着かせた音羽は、指導教員に参加すると返信した。
翌日、凪城大学を訪れた音羽は、関係者とキャンパスを回る途中、化学研究棟の実験室から聞き覚えのある声がするのに気づき、目を向けると悠真と雪乃の姿があった。
二人は実験をしながら楽しげに言葉を交わし、ときおり顔を寄せて耳元で囁き合っていた。その親密さに、音羽と悠真の関係を知る周囲の人々も気まずそうな視線を向けている。
その空気を察した指導教員が、慌てて口を挟んだ。
「白石先生は本学の化学教授で、この研究棟は黒瀬ホールディングスの支援で建てられました。黒瀬社長も今日は視察で……」
視察。それにしては、悠真は雪乃のそばにつききりだった。
経営を学んだ悠真が、数ある施設の中で化学研究棟にだけ出資している。そのことまで思い至ると、何もかもがひどく滑稽に思えた。
音羽は二人を見なかったことにして、その場を離れようとした。だが次の瞬間、背後で凄まじい爆発音が轟いた。
「火事だ!早く外へ!」
研究棟はたちまち炎に包まれ、濃い黒煙が立ちのぼった。
避難しようと人々が一斉に出口へ押し寄せ、その波に巻き込まれた音羽は床に倒れた。何度も足を踏まれ、起き上がれずにいると、混乱の中で誰かが手を差し伸べてくる。
その手につかまって顔を上げると、そこには白々しい笑みを浮かべた雪乃と、険しい表情の悠真がいた。
「雪乃、そんなやつまで助けなくていい」
悠真は音羽を見るなり、苛立たしげに吐き捨てた。
「音羽、いつまでぼさっとしてるんだ。お前のせいで俺たちまで逃げ遅れたんだぞ。どこまで人に迷惑かければ気が済むんだ」
炎にあぶられ、ふくらはぎには次々と水ぶくれが浮かんでいく。それでも、音羽には悠真の言葉のほうがよほど冷たかった。
――莉子がスーツケースの中で死にかけていたときも、悠真はあの子にこんな態度を取っていたのだろうか。
そう思った矢先、すぐそばで焼けた柱が大きく傾き、音羽と雪乃めがけて倒れてきた。
「雪乃、危ない!」
悠真はとっさに音羽を突き飛ばし、雪乃をかばった。
突き飛ばされた音羽の脚に、そのまま燃えた柱が直撃し、ふくらはぎはひどく焼けただれ、焦げた臭いが鼻をついた。
「悠真……助けて」
悠真は雪乃を抱き上げると、音羽には目もくれなかった。
「こんな時くらい自分でなんとかしろ。人を巻き込むな。お前なんか、ここで焼け死んだって別にいい」
雪乃を抱えて遠ざかっていく悠真の背中を見つめながら、音羽はふと、昔の火事を思い出した。
あの頃の悠真なら、音羽が中に残っていると知れば、逃げたあとでも戻ってきてくれた。
「私を助けに戻って、もし悠真まで死んでたらどうするつもりだったの?」
そう尋ねると、18歳の悠真は不満そうに言った。
「何言ってんだよ。俺が選んだ副会長を置いて逃げられるか。大丈夫、音羽は俺が守る」
あの頃の悠真と、今こうして音羽を見捨てていく悠真が、どうしても同じ人には思えなかった。
このままここで死ぬのだと思った瞬間、冷たい水しぶきが全身を打った。
駆けつけた消防隊員に救い出され、建物の外へ運ばれる。ふと目を向けると、悠真が雪乃に付き添い、救急車へ乗り込もうとしていた。
「雪乃、もうすぐ病院だ。もう少しだけ頑張れ。寝るなよ」
その言葉に、かつて必死に呼びかけてきた悠真の声が蘇った。
「音羽、目を開けろ。寝るな。絶対助けるから。頼む、目を開けてくれ。音羽が死んだら、俺はどうすればいいんだよ……俺を一生後悔させる気か?」
かつて自分に向けられた声が、今は雪乃に向けられている。その現実に、胸を引き裂かれるような痛みが走った。
押し寄せる悲しみと絶望に呑まれ、音羽は目を閉じた。
第5話
気がつくと、音羽はまた病院のベッドにいた。辺りには消毒薬の匂いが漂っていた。
「起きたか」
声のするほうを見ると、病床のそばに悠真が立っていた。いつになく穏やかな口調で、その理由もすぐに分かった。
「明日の夜は祖母の誕生日会だ。雪乃も来る。どうすればいいか分かるよな?」
結婚して8年、悠真が音羽に優しい顔を見せたことなどなかった。莉子を産んで入院していたときでさえ、見舞いに来たことはない。
それが今、雪乃が千鶴に責められないよう、音羽に協力させるためわざわざ病室まで来ている。
音羽は喉が詰まり、何も言えなかった。悠真はそのまま話を続けた。
「明日、祖母をうまくなだめてくれれば、莉子のことはもう許して家に戻してやるし、莉子名義の信託も作って、お前たちが一生困らないようにしてやる」
まるで妻ではなく、金さえ積めば言うことを聞く相手だとでも思っているようだった。
莉子がもういないことを、今さら悠真に告げる気にはなれなかった。
「莉子は何も悪くない。許してもらう必要もないし、そんなお金もいらない。もう帰って」
以前のように声を荒らすこともなく、音羽は静かに悠真を突き放した。悠真はすぐに顔をしかめた。
「明日、祖母をがっかりさせるなよ」
音羽は誕生日会を断るつもりでいた。だがそのとき、枕元のスマホが震えた。千鶴からのメッセージだった。
【音羽ちゃん、明日の誕生日会、来てくれるわよね?発つ前に、もう一度おばあちゃんに顔を見せてくれないかしら】
黒瀬家で、音羽と莉子によくしてくれたのは千鶴だけだった。結局、その頼みを断ることはできなかった。
「行くわ。でも、あなたたちのためじゃない。おばあさまに会いに行くだけ」
「好きに言えばいい」
翌日、誕生日会は予定どおり開かれた。
傷もまだ癒えておらず、余計な騒ぎを起こしたくなかった音羽は、会場の隅にある目立たない席へ腰を下ろした。
会場では、悠真と雪乃が人目もはばからず寄り添い、ダンスを踊ったかと思えば、今度は並んでピアノを弾き、さらにはデザートまで食べさせ合っていた。
千鶴がたまりかねて二人を注意しようとしたが、音羽はそっと止めた。
「もういいんです、おばあさま。今日はお誕生日なんですから、私のことで怒らないでください」
莉子を失ったあの日を境に、悠真への思いもとうに尽きていた。今さら雪乃とどれほど親しげにしていようと、もう音羽には関係のないことだった。
そんな音羽を見つめ、千鶴は仕方なさそうにため息をついた。
「音羽ちゃん、少し書斎へ来てくれる?財産分与の書類を確認してほしいの」
二人で書斎へ向かうと、扉の前には雪乃が立っていた。だが、その顔からはいつもの柔らかな笑みが消えていた。
「何しに来たの?あんたなんか、この家には来てほしくないわ」
千鶴が杖を手に雪乃を追い払おうとしたが、雪乃は引き下がらなかった。
「このクソババア!」
雪乃は無表情のまま千鶴を押し返した。
「あんたさえ邪魔しなければ、私と悠真は何年も離ればなれにならずに済んだのよ。あんたなんか、とっくに死んでればよかった。音羽が産んだあのガキみたいにね!」
雪乃の目に異様なものを感じ、音羽が息をのんだ次の瞬間、雪乃は千鶴を階段から突き落とした。
「おばあさま!」
千鶴は階段を転げ落ち、その勢いのまま壁へ激しく打ちつけられた。衝撃でそばの花瓶まで倒れ、千鶴の頭を直撃した。たちまち額から血が流れ出した。
「雪乃、正気なの!?悠真のおばあさまよ!」
すると雪乃は、音羽に向かって薄く笑った。
「心配しなくても、次はあんたの番よ」
そう言うなり、自分の頬を何度も叩き、ブラウスの胸元を乱すと、突然声を張り上げた。
「誰か来て!助けて!音羽さんが人を殺したの!」
悲鳴を聞きつけ、庭にいた招待客たちが一斉に屋内へ駆け込んできた。
駆けつけた悠真は、乱れた雪乃の姿を見るなり上着を脱ぎ、包み込むように抱き寄せた。
だが次の瞬間、血を流して倒れている千鶴が目に入り、顔色が変わった。
「悠真……私、おばあさまに挨拶しようと思って来たら、音羽さんがおばあさまを突き落として……止めようとしたら、私まで……」
雪乃はそこで言葉を濁した。それだけで、周囲の疑いは音羽へ向かった。
「黒瀬社長のところ、前から夫婦仲が悪いって噂だったけど……まさかおばあさまにまで手を出すなんて」
「人前で平気でこんなことするなんて、普段はもっとひどいんじゃない?」
「黒瀬社長も気の毒ね。こんな奥さんじゃ……」
悪意のこもった声と蔑むような視線が一斉に音羽へ向けられ、思わず後ずさった。
「違う……私じゃない。雪乃が――」
「もういい!」
悠真が音羽の手首を強くつかんだ。
「俺とのことはともかく、祖母がお前と莉子をどれだけ大事にしてきたか分かってるだろ。それなのに、よくこんなことができたな」
「違う!私じゃない。雪乃が――」
「この期に及んで、まだ雪乃に罪をなすりつけるのか。お前がここまで卑劣な人間だとは思わなかった。祖母に何かあったら、絶対に許さない」
悠真は音羽の手を振り払うと、千鶴をすぐに病院へ運ぶよう指示した。振り払われた音羽は腰をテーブルの角に打ちつけ、鋭い痛みに息をのんだ。
だが、このまま千鶴を突き落とした犯人にされるわけにはいかない。音羽は痛みをこらえ、事情を説明しようとあとを追った。
屋敷を出ようとしたところで、数人のボディーガードが行く手を塞いだ。
「黒瀬さん。悠真様から、今は精神的に不安定な状態だから治療を受けてもらうようにと言われています。ご同行ください」
第6話
音羽はそのまま、郊外にある私設の療養施設へ連れていかれた。
車から降ろされるなり、音羽は門前の電柱にしがみつき、必死に抵抗した。
「いやよ!私は何ともない!こんなところに閉じ込めるなんて、悠真にだって許されない!誰か助けて!お願い、誰か……!」
声がかれるまで叫んでも、通りかかった人たちは不審そうな目を向けるだけで、誰も助けようとはしなかった。
やがて力ずくで施設の中へ連れ込まれると、数人の入所者に床へ押さえつけられ、長い髪を無残に切られた。
痰の混じった飲み物を無理やり飲まされたうえ、電気警棒で何度も殴られ、気づけば骨まで折れ、下腹部には血がにじんでいた。
激痛に耐える音羽の脳裏に、あの夜、見守りカメラに映っていた激しく揺れるスーツケースと、そこから響く莉子の泣き声が鮮明によみがえった。
「パパ、ごめんなさい!もうしないから、出して!怖いよ!死にたくない!誰か助けて!ママ!助けて!ママ、来て……!」
……
あの日の泣き声は、今も耳にこびりついている。夜が来るたび、その声に胸を締めつけられた。
「莉子……あのとき、こんなに怖かったの?こんなにも苦しかったの?」
視界がぐらりと揺れ、莉子の笑顔が浮かんだ。
「ママ、大好き」
莉子の笑顔と声が重なったところで、音羽はとうとう意識を保てなくなった。
朦朧とする意識の中、どこからか雪乃が現れた。
「もういいわ。懲らしめるだけで十分よ。死なれたら困るわ」
雪乃は施設の責任者に封筒を渡した。
「この女、どこか遠くへやって。二度と悠真に近づけないようにして」
責任者は中身を確かめると、満足そうにうなずいた。
「ご安心ください。二度とお二人の邪魔はさせません。人里離れたところへ送って、簡単には戻れないようにしておきます」
そのあとの会話は、もう聞き取れなかった。
やがて誰かに抱え上げられ、そのまま車へ押し込まれた。薄れていく意識を必死につなぎ止めながら、音羽は人目を盗んでバッグを探り、小さな腕時計を取り出した。
それは出張先で莉子のために注文した、緊急通報機能付きの腕時計だった。結局、莉子に渡すことはできなかったが、今はその時計だけが音羽の命綱だった。
震える指で緊急通報を作動させた瞬間、車窓の向こうが白み始め、差し込んだ朝の光が音羽の頬を照らした。
音羽は、かすかに笑った。
やがて夜が明けた。