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遅すぎた鍵を置いて
大学受験が終わったあの日。私、結城紬(ゆうき つむぎ)はキャリーケースを引きずり、父の結城弘之(ゆうき ひろゆき)と母の結城恵美(ゆうき えみ)が暮らす都会のマンションへ再び足を運んだ。 ドアを開けた母は、ただ一言だけこう口にした。 「試験も終わったんだし、しばらく家でゆっくりしていくといいわ」 あくまで「しばらく」であり、「ずっと」ではないのだ。 結城家には3人の子供がいる。しかし、両親と一緒に暮らしているのは兄と妹だけ。私1人だけが、幼い頃から祖父母の結城泰造(ゆうき たいぞう)と結城小百合(ゆうき さゆり)の元に預けられて育った。 兄には専用の書斎があり、妹には自分の部屋がある。リビングのソファを寝床にしているのは、私だけだ。 歯ブラシも、スリッパも、タオルでさえも客用の使い捨て。当然、家の鍵すら与えられていない。 母からは「めったに帰ってこないんだから、鍵なんて必要ないでしょ?」と吐き捨てられている。 だからここへ来るたび、私は招かれざる客のようにドアの前に立ち、誰かが内側から開けてくれるのを待つしかなかった。 ところが今回、彼らはようやく私に1本の鍵を渡してきた。 兄の結城慎(ゆうき まこと)が私の手のひらに鍵を押し付け、笑いながらこう言ったのだ。 「俺たち旅行に行ってくるからさ、その間ゆっくり留守番でもしててよ」 リビングのローテーブルには、4枚の航空券が几帳面に並べられていた。 父、母、兄、妹の分。そこに私の分はない。 12年間ずっと待ち望んでいた鍵を見つめているうち、ふと自嘲気味な笑みがこぼれた。 そうか、これは「家族の輪」に入るための鍵ではない。 私にここから立ち去るよう促す、残酷な合図なのだ。
チャプター (1)
第1章
大学受験が終わったあの日。私、結城紬(ゆうき つむぎ)はキャリーケースを引きずり、父の結城弘之(ゆうき ひろゆき)と母の結城恵美(ゆうき えみ)が暮らす都会のマンションへ再び足を運んだ。
ドアを開けた母は、ただ一言だけこう口にした。
「試験も終わったんだし、しばらく家でゆっくりしていくといいわ」
あくまで「しばらく」であり、「ずっと」ではないのだ。
結城家には3人の子供がいる。しかし、両親と一緒に暮らしているのは兄と妹だけ。私1人だけが、幼い頃から祖父母の結城泰造(ゆうき たいぞう)と結城小百合(ゆうき さゆり)の元に預けられて育った。
兄には専用の書斎があり、妹には自分の部屋がある。リビングのソファを寝床にしているのは、私だけだ。
歯ブラシも、スリッパも、タオルでさえも客用の使い捨て。当然、家の鍵すら与えられていない。
母からは「めったに帰ってこないんだから、鍵なんて必要ないでしょ?」と吐き捨てられている。
だからここへ来るたび、私は招かれざる客のようにドアの前に立ち、誰かが内側から開けてくれるのを待つしかなかった。
ところが今回、彼らはようやく私に1本の鍵を渡してきた。
兄の結城慎(ゆうき まこと)が私の手のひらに鍵を押し付け、笑いながらこう言ったのだ。
「俺たち旅行に行ってくるからさ、その間ゆっくり留守番でもしててよ」
リビングのローテーブルには、4枚の航空券が几帳面に並べられていた。
父、母、兄、妹の分。そこに私の分はない。
12年間ずっと待ち望んでいた鍵を見つめているうち、ふと自嘲気味な笑みがこぼれた。
そうか、これは「家族の輪」に入るための鍵ではない。
私にここから立ち去るよう促す、残酷な合図なのだ。
第1話
「ぼーっとしてどうしたんだ?」
慎が、私の目の前で手をひらひらと振った。
「鍵、なくすなよ。明日の朝早くに出発するから、締め出されるぞ」
そう言う慎の脇を抜け、妹の結城莉子(ゆうき りこ)が部屋から出てきた。その腕には何着ものワンピースが抱えられている。
「お母さん、この青いワンピースにしようかな?写真撮る時、顔色悪く見えないかな?」
母が歩み寄る。
「そんなことないわよ。莉子は青が一番似合うんだから。海辺で映えるし、その白いのも持っていきなさい」
「でも、白は汚れやすいし」
「汚れたらお母さんが洗ってあげるから平気よ」
母はあまりにも自然にそう言い放った。
娘の服が汚れたなら、母親が洗ってやるのが当然だとでも言うように。
掌の鍵を握りしめながら、私はふと遠い昔の記憶を呼び起こしていた。
制服の袖口を汚してしまった時のことだ。祖母に苦労をかけたくなくて、ひたすらゴシゴシと生地をもみ洗いした。
冬の水道水は骨に染みるほど冷たく、手を入れた途端に指先の感覚が消え失せた。
それでも手を止めるわけにはいかない。
翌日もその制服を着て登校しなければならなかったからだ。
やがて手にはひどい霜焼けができ、治ってはまたひび割れる日々を繰り返した。
今でも手の甲には、うっすらとその痛々しい跡が残っている。
一方、父はスマートフォンで旅行のスケジュールを確認することに夢中だ。
「明日の朝は6時半に家を出るぞ。7時半に空港に着いて、10時の便だ。
現地に着いたらまずホテルに荷物を置いて、午後は海へ行く。夜は海鮮料理だな」
慎が横から画面を覗き込む。
「美味しいものは控えめにしておけよ。莉子はただでさえぽっちゃりしてんだから」
莉子がすかさず文句を言う。
「お母さん、お兄ちゃんたらまた私のことバカにしてる!」
母が笑ってとりなす。
「いざとなったら、お兄ちゃんはホテルの外に閉め出しましょうね」
家族は海や夕日、美食の話題で嬉々として盛り上がっている。
誰も私に行きたいかどうかなんて聞いてこない。
そもそも、私を連れて行くという選択肢など誰の頭にもないのだ。
私はその場に立ったまま、片付け忘れられた古びた荷物のように放置されていた。
ずいぶん時間が経ってから、母がようやく私の存在を思い出したように振り返った。
「そういえば紬、留守の間、食事はどうするの?
冷蔵庫に野菜もあるし、冷凍の餃子も入ってるわ。自炊が面倒なら、デリバリーでも頼んでいいからね」
私は「なんでもいいよ」と短く答えた。
母は安堵したように息を吐く。
「それならよかった。小さい頃からおじいちゃんとおばあちゃんに育てられたんだし、自分のことくらい自分でできるわよね」
私は黙って頷いた。
確かに、私は自分の身の回りの世話をするのがとても得意だ。
幼い頃に熱を出した時は、自分で濡れタオルを作って額に乗せた。
雨の日に誰も迎えに来てくれなかった時は、ランドセルを傘代わりにして家まで走った。
祖母が膝を痛めた年は、料理の腕も鍛えられた。
私はずっと、自分のことは自分で何でもこなしてきた。
だから両親は安心しきっているのだ。
私がつい先日大学受験を終えたばかりの高校生だという事実すら忘れるほどに。
父が時計に目をやった。
「もういい時間だな。
紬、先にお風呂に入ってきなさい。パジャマは後でお母さんに出してもらうから」
「ううん、自分で持ってきたから大丈夫」
私の荷物はまだ玄関に置かれたままだ。
使い古されたキャンバス地のトートバッグ。一度ファスナーが壊れた際、祖母が黒い糸で丁寧に繕ってくれたものだ。
トートバッグから着替えを取り出し、脱衣所へ入る。
壁には4枚のバスタオルが掛かっていた。
グレーは、父の。ベージュは、母の。ネイビーは、慎の。ピンクは、莉子の。
私のものは、ない。
第2話
私はその4枚のバスタオルをじっと見つめた。
踵を返し、どれを使えばいいのか母に尋ねようとドアノブに手をかける。
その時、リビングから押し殺したような話し声が漏れ聞こえてきた。
「莉子、少しは聞き分けなさい。
紬がここにいるのは数日だけよ。旅行から帰ってきたら、またおじいちゃんたちの所に送り返すんだから」
ドアノブに伸ばした手は、何かに縫い留められたようにピタリと止まった。
リビングでの会話はまだ続いている。
莉子の不満げな声が聞こえた。
「とにかく私は、お姉ちゃんと一緒に住みたくないもん。
彼女、なんか変な匂いがするし、持ってるものも全部ダサいんだもん」
母が声を潜めてなだめる。
「1晩だけの我慢よ。明日の朝にはもう家を出るんだから」
「じゃあ、なんでリビングで寝かせないの?」
そこへ慎の声も混ざる。
「先に言っておくけど、俺の部屋で寝かせるのも絶対ダメだからな。机の上に大学の資料出しっぱなしなんだから。
勝手にいじられて、ぐちゃぐちゃにされたらどうすんだよ」
母がたしなめるように言う。
「紬はそんなことしないわよ」
慎が鼻で笑った。
「そんなの、分かんねえだろ!
ずっと田舎で育ったんだぞ、どんな図々しい真似するか知れたもんじゃない」
莉子がすかさず同調する。
「そうよ。彼女がいると、なんか気が休まらないの。
今まで通り、4人だけの時が一番よかったのに」
父が重々しいため息をついた。
「紬が急に来たのが悪い。ちょうど旅行のタイミングと重なってしまったからな。
だが来てしまった以上、数日だけ泊まらせてから送り返すしかないだろう」
数日泊まらせて、また送り返す。
その言葉は、これまで嫌というほど聞かされてきた。
幼い頃、私は母に尋ねたことがある。なぜお兄ちゃんと妹はお父さんたちと一緒に住めるのに、私だけ仲間外れなのかと。
母はこう答えた。
「うちも経済的に余裕がないのよ。紬はおじいちゃんとおばあちゃんがちゃんと面倒を見てくれるからね」
父にも尋ねたことがある。なぜお兄ちゃんだけが都会の学校に通えて、私はダメなのかと。
父はこう答えた。
「くじ引きで、お兄ちゃんが当たったからだ」
私が3歳の年、妹の莉子はまだ生まれていなかった。
両親は都会へ働きに出ることになったが、2人の子供を手元で育てる余裕はなく、くじ引きで決めることにしたらしい。
当たった方を都会へ連れて行く。
父が引き当てたのは、4歳の慎だった。
こうして慎は両親と一緒に都会へ行き、私は祖父母と一緒に田舎へ残されたのだ。
それからずっと、私は考え続けてきた。もしあの時、引き当てられたのが私だったら、と。
連れて行かれたのが私だったら、私にも自分の部屋が与えられていたのだろうか。
毎日宿題を見てくれる母親がいて、学校の送り迎えをしてくれる父親がいたのだろうか。
両親と私を引き裂いたあのくじを、密かに恨んだことすらあった。
でも今ならはっきりと分かる。誰がくじに当たるかなんて関係なかったのだ。
重要なのは、彼らが最初から「誰を連れて行きたかったか」ということだ。
リビングでは、母がまだ莉子をなだめている。
「お姉ちゃんのことは、旅行から帰ってきてからまた考えましょう。
あの子は小さい頃からおじいちゃんたちの所にいたから、常識とか教わってないのよ。大目に見てあげなさい」
教わっていない。
だから私は不潔で、ダサくて、礼儀を知らない。
でも、彼らは一度でも考えたことがあるのだろうか。なぜ私には「教えてくれる親」がいなかったのかを。
私はこれ以上聞いていたくなくて、ドアノブを回し、勢いよく扉を押し開けた。
「あのさ、私はどのバスタオルを使えばいいの?」
その瞬間、リビングにいた全員の表情が凍りついた。まるで見てはいけない秘密を暴かれたかのような顔だった。
母がいの一番に反応し、慌てて取り繕うように背筋を伸ばす。
「つ、紬……」
私はその言葉を遮り、淡々と尋ねた。
「どのバスタオルを使えばいいの?」
母の顔から血の気が引く。
父が気まずそうに眉をひそめた。
「紬、変に誤解しないでくれよ」
「うん。で、どれを使えばいいの?」
慎が苛立たしげに舌打ちをし、莉子はばつが悪そうにうつむいてワンピースの裾をいじり始めた。
母は私をじっと見つめ、やがてふっとため息をつくと、脱衣所に向かって歩き出した。
「新しいのを探してあげるわ」
使い捨ての歯ブラシ。
使い捨てのスリッパ。
未開封のバスタオル。
この家で私に与えられるのは、いつも決まって真っ新なものばかりだ。
なぜなら、私自身がこの家にとって「臨時のお客様」でしかないからだ。
母は収納棚から真っ白なバスタオルを取り出した。
それを私に差し出す時、まるで物分かりの悪い子供を相手にするかのように、少しウンザリした顔を見せた。
「紬、お母さんたちは本当にそういうつもりで言ったんじゃないのよ。ただ、あなたがこの家に慣れないんじゃないかって心配だっただけで……」
私はうつむいて見えないふりをし、「分かってる」とだけ答えた。
バスタオルを抱えて浴室に戻る。
温かいシャワーを浴びながら、私は自分の手のひらをじっと見つめた。
第3話
先ほどまで、手の中には1本の鍵が握られていた。
12年間、ずっと待ち望んでいた鍵だ。
けれど、世の中には、たとえ鍵を開けることができても、決して中には入れてもらえない扉が存在するのだ。
風呂から上がると、母はまだ私を莉子の部屋で寝かせようと画策していた。
しかし莉子はベッドの上に座り込んだまま、頑なに口を閉ざしている。
母はしばらく莉子を見ていたが、やがて私に渡すつもりだった薄手のタオルケットを、諦めたようにリビングのソファの上に置いた。
「夜はエアコンの温度を下げすぎないようにね。風邪をひくから。
明日は朝早くに出るから起こさないわ。ゆっくり寝てなさい」
私は黙って頷いた。
母は何かを思い出したように、ローテーブルを指さした。
「家の鍵はちゃんと保管しておいてね。私たちがいない間に宅配便が来たら、代わりに受け取っておいてちょうだい。
ベランダの鉢植えには2日に1回水をやって。ゴミもこまめに捨てるのよ、夏場は匂いが出やすいからね」
父が顔を上げる。
「もし管理会社が点検に来ても、すぐにはドアを開けず、まずは私たちに電話しなさい」
慎が言った。
「俺の部屋は鍵かけておくから、絶対に入るなよ」
莉子もすかさず続く。
「私の机の上のものにも触らないで。特にアクスタには絶対」
同じように受験が終わった夏、両親は慎を連れて南の島のリゾートへ旅行に行った。
莉子が高校受験を終えた時は、有名なテーマパークへ連れて行った。
そして私の番になって、彼らが私に与えたのは、次から次へと続く留守番の指示と無機質な注意書きだけだった。
私が一つ一つ頷くのを見て、母は慎と莉子に早く寝るよう促し始めた。
「早く歯を磨いてきなさい。明日起きられなくなるわよ」
父はスマートフォンをいじりながら言った。
「最後に一つ、ホテルの情報を家族のLINEグループに送ったから、お前たちも確認しておきなさい」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、リビングに立て続けに通知音が鳴り響いた。
母のスマホ。
慎のスマホ。
莉子のスマホ。
私のスマホだけが、静寂を保っていた。
父はふと違和感を覚えたように顔を上げ、私を見た。
「紬はまだグループに入ってなかったか?」
母がハッとする。
「そうみたいね」
「じゃあ、後で招待しておいてくれ」
私は静かに言った。
「いいよ、必要ない」
父はよく聞こえなかったようだ。
「なんだって?」
私がもう一度口を開く前に、慎が声を遮った。
「父さん、俺のゲーム機、そっちにない?」
父はすぐに立ち上がった。
「どれどれ、父さんのカバンか、母さんのカバンの中に入ってるはずだ」
そう言って主寝室に向かい、私が先ほど何と言ったのかを深く追求することはなかった。
リビングの明かりはすぐに消された。
3つの部屋のドアも、次々と閉ざされた。
私はソファに横たわり、真っ暗な天井を見つめながら、自分が今何を考えているのかすら分からなかった。
スマホがふいに震えた。
祖母からの電話だった。
「紬かい、もう寝たかい?」
「まだだよ」
「家には慣れたかい?お母さんたち、美味しいものを作ってくれたかい?」
私は喉の奥が熱く詰まるのを感じながら、帰省して最初の食事を思い出した。
母は莉子が好きなハンバーグを作り、慎が好きなエビフライを作った。
父が好きなパクチーのサラダも添えられていた。
でも、私がパクチーのアレルギーだということは、誰1人として覚えていなかった。
私は何度か深呼吸をして、声を絞り出した。
「うん、作ってくれたよ」
祖母は何かを察したように少し黙り込み、優しく尋ねてきた。
「紬、もしかして居心地が悪いんじゃないのかい?」
「そんなことないよ」
「紬、無理してないで帰っておいで。おじいちゃんが今日、スイカを買ってきて、冷やしてあるんだよ。
あんたの部屋も掃除しておいたし、布団も干したから、お日様のいい匂いがするよ」
その瞬間、私は泣き崩れそうになった。
両親の家には、私の居場所はない。
でも、祖父母の家には、私の帰る部屋がある。
リビングに一時的にしつらえられた寝床でもなく、妹が嫌々ながら明け渡してくれた片隅でもない。
私だけの部屋。
そこには私のベッドがあり、私の勉強机があり、壁には私がもらった賞状が誇らしげに貼られている。
電話の向こうから、祖父が大声を出すのが聞こえた。
「いつ帰ってくるんだって聞け!いつだって駅まで迎えに行ってやるからな!」
私は必死に唇を噛み締め、嗚咽を漏らさないようにした。
祖母がまた言う。
「紬、そっちで何かあったら、我慢しないでちゃんと言うんだよ。
自分の家で言いたいことも言えないなんて、そんなのおかしいんだから」
電話を切り、スマホの画面が暗くなると、リビングは再び闇に包まれた。
3つの部屋のドアの隙間からは、温かな光と家族の笑い声が漏れ出している。
祖母の言う通りだ。自分の家なら、言えないことなんてないはずだ。
ただ、ここは私の家ではない。それだけのこと。
私は頬を伝う涙を乱暴に拭い、乗換案内のアプリを開いた。
明日の朝8時、祖父母の住む田舎へ向かう特急列車がある。
私は乗客情報を入力し、チケットの購入ボタンを押した。
第4話
支払い完了のメッセージがポップアップした時、私は大きく息を吐き出した。
ここから祖父母の家まで、600キロ。
私はこの12年間で、48回も往復してきた。
これからはもう、49回目はない。
翌朝5時、まだ夜も明けないうちに母が起きてきた。
彼女はまず莉子を起こしに行き、次に慎を叩き起こした。
リビングを通り過ぎる時、母がふと止まった。
彼女が私のそばに立ち、しばらく私を見下ろしている気配がする。
やがて、彼女は私の肩にかかったタオルケットをそっと引き上げてくれた。
次の瞬間、莉子の声が響く。
「お母さーん、私のサングラスどこ?」
母はすぐに背を向けて立ち去った。
「はいはい、今行くわよ。カバンの中に入ってるでしょ」
私は薄目を開け、玄関へ向かう母の後ろ姿を見つめた。
父は玄関で靴を履いている。
慎はカメラを持ち、莉子の姿を撮影している。
私が起き上がると、それに気づいた母が一瞬驚いた顔をした。
「起こしちゃった?」
私は無言で首を振る。
「あ、ちょうどよかった。お姉ちゃん、写真撮ってよ」
莉子がカメラを私の胸元に押し付けてきた。
誰もその無神経な振る舞いに違和感を抱いていない。
彼ら4人は玄関に並んで立った。
父はキャリーケースに手を添え、莉子は母の腕に抱きついている。
慎は一番後ろに陣取り、莉子の頭の上でおどけてピースサインを作っていた。
シャッターを切る。
「撮れたよ」
莉子はカメラを受け取り、画面を見るとすぐに歓声を上げた。
「きゃあ、これすっごくよく撮れてる!」
慎が言う。
「グループLINEに送っとけよ」
母も頷く。
「後で送るわね」
私はうつむいて自分のスマホを見た。
相変わらず、沈黙したままだ。
ドアが開き、廊下のセンサーライトが点灯した。
家族はキャリーケースを引きずりながら出て行く。
母が最後に振り返って私を見た。
何か言いたげだったが、結局口にしたのはこうだった。
「紬、家でおとなしくお留守番してるのよ」
私は頷き、「うん」と答えた。
ドアが閉まり、彼らの声は完全に遮断され、エレベーターと共に遠ざかっていった。
家の中はしんと静まり返った。
私はしばらくじっと座っていた後、床に置かれたキャンバス地のバッグを手に取り、脱いだ服を綺麗に畳んで中に押し込んだ。
バッグを背負い、玄関に立つ。
靴箱には、慎のブランド物のスニーカーが2段にわたって並べられている。
莉子のローファーもずらりと整頓されていた。
私の靴は、今履き潰しているこの1足だけだ。
来た時もこれを履いていた。
帰る時も、これを履いていく。
私が内側からドアを開けると、鍵穴がカチャッと音を立てた。
外から鍵を使って開ける音と全く同じだ。
でも、この何年間、私は一度も鍵を使ってこのドアを開けたことはなかった。
私は渡されたばかりのあの鍵を、靴箱の上にそっと置いた。
ドアを閉め、マンションを下りる。
駅へ向かうタクシーに乗り込んだ時、スマホが鳴った。
母からだった。
電話の向こうは騒がしく、空港のアナウンスや莉子の笑い声が入り混じっていた。
「紬?玄関の防犯カメラの映像にあなたが映って出かけたみたいなんだけど、どこか行ったの?
鍵はちゃんと持った?」
「持ってない」
「もう、この子は。鍵を持たずに出るなんて、また業者を呼んで開けてもらわなきゃならないじゃない……」
「鍵開けなんて必要ないよ」
私は静かに彼女の言葉を遮った。
「私はもう戻らないから」
電話の向こうが一瞬静寂に包まれ、母は意味が理解できないようだった。
「戻らないって、どういうこと?」
「家に帰るの」と私は言った。
母の声が途端に焦りを帯びた。
「家に帰るって何?今いるそこが家でしょう?」
私は何も答えなかった。
電話の向こうで、莉子の声が聞こえた。
「お母さん、どうしたの?」
慎の声も聞こえてくる。
「紬がまた何かやらかしたのか?」
父がスマホを受け取ったのか、低い声が響いた。
「紬、わがままを言うな。
こっちはもう空港に着いてるんだ。1人で家でおとなしくしていなさい。言いたいことがあるなら、私たちが帰ってきてから聞きなさい」
私は車窓から飛ぶように後ろへ流れていく街並みを見つめながら、ふと、大学受験の最後の科目が終わった時のことを思い出していた。
祖母が学校の外で私を待ってくれていた日のことだ。
彼女は背が低く、人混みに紛れて顔の半分しか見えなかった。
それでも、私は一目で彼女を見つけた。
なぜなら、私を迎えに来てくれたのは彼女だけだったから。
小さい頃からずっと、私を待ってくれていたのは、祖父母だけだった。
私は小さく息を吐き出した。
「わがままなんて言ってないよ。ただ、あそこは私の家じゃないって気づいただけ。
お父さん、お母さん、良い旅を」
私は通話を切り、連絡先アプリを開いた。
そして1人、また1人と、彼らを着信拒否にし、連絡先から削除していった。
今回、私は送り返されるんじゃない。
自分の意志で、本当の家に帰るのだ。