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火傷の痕を消した日、涙も涸れた
幼馴染みという関係に甘え、私、唐田琴(からた こと)は、川人紘太(かわひと こうた)のそばに20年ものあいだ居座り続けてきた。 誰もが知っている。私が彼にとって振り払えない厄介者であり、来る日も来る日もあの手この手で、彼を振り回し続けてきたのだと。 それなのに、彼が新車を手に入れたその日を境に、私は嘘のようにおとなしくなり、まるで空気のように存在感を消してしまった。 私のことをよく知る紘太でさえ、その急な変わりように戸惑いを隠せずにいた。 彼は深夜、雨の中を二人の家まで駆け戻ってくると、珍しく声を和らげ、私に事情を説明した。 「今夜、お前を車に乗せなかったのは……佳世子のせいなんだ。あいつ潔癖症で、お前の服に染みついたもつ鍋屋の匂いがどうしても駄目らしくて。 雨もそれほどひどくはなかったから、佳世子を先に送っていっただけだ。頼むから、もう口をきかないなんて言わないでくれ」 ああ、また白井佳世子(しらい かよこ)か。あの、ささいな生活臭すら許せないという、お上品な潔癖症のせいで。 私はふっと笑った。 「別に。気にしてないから」 どうせ3日後には、フランスのル・コルドン・ブルーへ発つ身だ。これからはもう、お互い相手の匂いに悩まされることもないのだから。
チャプター (1)
第1章
幼馴染みという関係に甘え、私、唐田琴(からた こと)は、川人紘太(かわひと こうた)のそばに20年ものあいだ居座り続けてきた。
誰もが知っている。私が彼にとって振り払えない厄介者であり、来る日も来る日もあの手この手で、彼を振り回し続けてきたのだと。
それなのに、彼が新車を手に入れたその日を境に、私は嘘のようにおとなしくなり、まるで空気のように存在感を消してしまった。
私のことをよく知る紘太でさえ、その急な変わりように戸惑いを隠せずにいた。
彼は深夜、雨の中を二人の家まで駆け戻ってくると、珍しく声を和らげ、私に事情を説明した。
「今夜、お前を車に乗せなかったのは……佳世子のせいなんだ。あいつ潔癖症で、お前の服に染みついたもつ鍋屋の匂いがどうしても駄目らしくて。
雨もそれほどひどくはなかったから、佳世子を先に送っていっただけだ。頼むから、もう口をきかないなんて言わないでくれ」
ああ、また白井佳世子(しらい かよこ)か。あの、ささいな生活臭すら許せないという、お上品な潔癖症のせいで。
私はふっと笑った。
「別に。気にしてないから」
どうせ3日後には、フランスのル・コルドン・ブルーへ発つ身だ。これからはもう、お互い相手の匂いに悩まされることもないのだから。
第1話
紘太は帰ってきたときのまま玄関先に立ち、微かに眉をひそめていた。
まるで、私がいつものように大喧嘩を吹っ掛けるのを、待ち構えているかのように。
無理もない。この20年、彼のそばに女の気配が少しでもあれば、私は決まって大騒ぎしてきたのだから。
ましてや今日は、彼があのポルシェ・パナメーラを手に入れた記念すべき日だ。
3ヶ月ものあいだ、カップ麺ばかりの生活に付き合い、数え切れないほどの企画書を書き上げ、彼が車を一括で買えるほどの大型契約を取れるよう支えた。
それなのに彼は、鍵を受け取った瞬間、真っ先に助手席へ佳世子をエスコートしたのだ。
そして私ひとりだけを、店の前に置き去りにした。
「本当に、気にしてないのか?」
紘太はスリッパに履き替えると、私の前まで歩み寄り、探るような視線を向けてきた。
私はスーツケースに服を詰めるのに夢中で、顔すら上げなかった。
「気にしてないよ。佳世子さんはお体がデリケートなんだから、あなたが気を遣うのは当然でしょう」
紘太の眉間の皺が、いっそう深く刻まれる。
彼は服を畳み続ける私の手を、上から強く押さえつけた。
「琴、そういう嫌味っぽい言い方はやめてくれ。
佳世子は潔癖症なだけじゃない、ひどい喘息持ちなんだ。あの古い店の匂いは本当にきつすぎる。嗅いだら発作を起こしかねない。
機嫌が悪いなら、明日、お前がずっと欲しがっていたあのバッグを買いに行こう。それでいいだろ?」
バッグ?
端正な顔立ちの奥に苛立ちを滲ませる紘太を見上げて、私はふと滑稽に思えた。
あのバッグは先月、私が目をつけていたものだ。彼への納車祝いを買うためにお金を貯めようと、ずっと買うのを我慢していたのに。
それなのに、彼が佳世子への手土産に選んだのは、数百万円もするオーダーメイドのネックレスだった。
「いらない。バッグなら足りてるから」
私はそっと手を引き抜き、最後の一着のセーターをスーツケースに押し込んだ。
紘太はようやく床に置かれたスーツケースの存在に気づいたらしく、その目をすっと冷たくした。
「唐田琴、また家出の真似事か」
フルネームで私を呼ぶのは、彼が本気で苛立っている時の悪い癖だ。
「お前は少しでも気に入らないことがあると、毎回大騒ぎして荷物をまとめて実家に帰ろうとする!
もう25なんだから、いい加減、大人になれよ」
私はスーツケースのファスナーをしっかりと閉め、立ち上がって彼の目をまっすぐに見つめ返した。
「別に騒いでなんかいないよ。ただ、衣替えで服をクリーニングに出すだけ」
紘太は一瞬虚を突かれ、面食らった表情を見せた。
苛立たしげにネクタイを緩めると、再び声を和らげてみせる。
「……わかった、今日のことは俺が悪かった。お前を雨の中に置き去りにするべきじゃなかった。
1日中、胃が痛いんだ。麺を作ってくれよ、目玉焼きを2つのせてな」
彼は、私が心配のあまり慌てて台所へ駆け込むものと信じて疑わない様子で、当然のように命じてきた。
胃を押さえる彼の手を見つめながら、私の脳裏に浮かんでいたのは、今日の昼間の光景だった。
第2話
SNSで彼が「いいね」を押していた、佳世子との優雅なフレンチディナーの写真。
「もう麺は切らしてるよ。デリバリーでも頼めば」
私はスーツケースを引きずり、寝室へ向かって歩き出した。
その背後から、紘太が突然私の手首を強く掴んだ。あまりの力強さに、思わずくぐもった悲鳴が漏れる。
「唐田琴。俺がこれだけ下手に出て機嫌を取ってやってるってのに、まだ気が済まないのか」
手首に走る鋭い痛みに、私は反射的に身を捩って逃れようとした。
紘太は私の右腕に残る、ひどく引きつれた火傷の痕をじっと見つめた。一瞬だけその瞳を揺らしたあと、結局彼は手を離した。
あの痕は18歳の年、彼の家が突然の火事に見舞われたとき、私が燃え盛る炎の中に飛び込んで彼を引きずり出した証だ。
この傷痕のせいで、私はダンス学校を受験する夢を諦めた。
代わりにお玉を握り、母が遺したあの古びたもつ鍋屋を継いだのだ。
あの時、紘太は血まみれになった私を強く抱きしめ、泣きながら一生守り抜くと誓ってくれたのに。
今の彼にとって、私の体に染みついた鍋の匂いは、憧れの佳世子を不快にさせるだけの忌まわしいものでしかないらしい。
「拗ねてるんじゃないよ。ただ本当に、疲れただけ」
私は痛む手首をさすりながら、感情を押し殺した声で答えた。
紘太はしばらく私を睨みつけていたが、ふと氷のように冷たく笑った。
「そうか、作らないんだな。なら明日、あの潰れかけのもつ鍋屋、他人に売り渡す手続きを進める!
佳世子はあの通りを通るたび、嫌そうに鼻をつまんでる。前から店を畳ませたいと思ってたんだ」
ピタリと足が止まる。信じられない思いで、私は彼を振り返った。
「紘太、あれは母が残してくれた唯一の遺品だよ。あなたに勝手に処分する権利なんてない」
私の顔にようやく感情の波が浮かんだのを見て、紘太の目に一瞬、愉快そうな笑みがよぎった。
「権利ならあるさ。あの店の名義は、今はもう俺のものだからな。
琴、少しは素直になれよ。店を畳んで、うちの会社で事務でもやればいい。毎日綺麗な格好で働けるじゃないか。
あんな場所に1日中入り浸って、下品な匂いを体に染みつけて。お前を連れて人前に出るのすら、俺は恥ずかしいんだよ」
下品な匂い。
その一言に、胸が詰まった。
この20年間、彼のために夜通し夜食を作ったり、彼の起業資金を稼ぐためにあのもつ鍋屋を必死に守り続けてきたというのに。
いざ彼が成功を手にした途端、私の匂いを下品だと切り捨てるのか。
私は大きく息を吸い込み、目の奥に滲み出そうになる熱いものを無理やり押し戻した。
「……好きにすれば」
背を向け、寝室に入ると同時に鍵をかけた。
扉の外で、紘太がローテーブルを蹴り倒す激しい音が響き、狂ったような怒声がそれに続いた。
「唐田琴!俺が本気でやらないとでも思ってるのか!明日、お前が本当に店を開けようもんなら、看板ごと叩き壊してやるからな!」
私は冷たい扉に背を預け、ずるずると床に座り込んだ。
ポケットから、パリ行きの航空券を取り出す。
あとふつか。
紘太、もうすぐあなたは、私のこの下品な匂いを我慢しなくてよくなる。
翌朝、私は市内中心部の公証役場へ向かった。
もつ鍋屋の株式のうち、私の持ち分である5割の株式を、以前から買収を望んでいたオーナーに無償で譲渡した。
署名を終えたばかりのその時、スマホが激しく震え出した。
店のスタッフをまとめる田中からの着信だった。その声には、明らかな涙が滲んでいた。
「琴さん、早く来てください!紘太さんが人を連れて、店を壊しに来てるんです!
改装して、フランス風のスイーツ店にするとかで。もう中の物をどんどん外に放り出してます!」
スマホを握りしめる手に、無意識のうちに強い力がこもった。
紘太、あなたって人は、本当にどこまでも容赦がない。
私は慌ててタクシーを止め、運転手に急いでもらいながら店へと向かった。
第3話
まだ遠くからでも、はっきりと見えた。母が生前、自らの手で書き上げたあの看板が、泥まみれの路上に無惨に投げ捨てられているのが。
佳世子は紘太の差しかける傘の下に立ち、鼻を押さえながら、店から次々と運び出される鍋や食器の山を、あからさまな嫌悪を込めて眺めていた。
「紘太くん、ここすごく汚いね。本当に素敵なスイーツ店に生まれ変わるの?」
「安心して、佳世子。消毒も徹底させるし、床の古いタイルも全部剥がして新しく張り替える。匂いなんて一切残らないようにするからさ」
紘太の声は、驚くほど優しかった。昨夜、狂ったように私に怒鳴り散らしていた時とは、まるで別人のように。
私は野次馬の人だかりをかき分け、現場へ飛び込んだ。その瞬間、目に飛び込んできたのは、ゴミの山のいちばん上に無造作に投げ捨てられた、あの古い木箱だった。
あれは、私にとって命より大切なものだった。
中には母が遺した秘伝のスープの配合表だけでなく、紘太が15歳の時、自分の手でナイフを使って不器用に彫ってくれた木製のお玉が大切にしまってある。
あの時、彼は指を切りながらも照れくさそうに笑って言ったのだ。
「琴、将来お前が立派な板前になったら、俺が助手になってやるよ」
考えるより先に体が動き、私は木箱を取り戻そうと必死に飛びついた。
「唐田琴!何やってるんだ!」
背後から紘太が私の襟首を掴み、力任せに引き戻した。
足がもつれ、私はそのまま油汚れの浮いた冷たい水たまりに倒れ込んだ。
砕けたタイルに膝を強く打ちつけ、骨の髄まで響くような鋭い痛みが走る。
佳世子が短い悲鳴を上げ、紘太の胸に縮こまるように身を寄せた。
「紘太くん、あの人すごく汚い、私に絶対触れさせないで!」
紘太はすぐさま佳世子を背中にかばい、泥だらけの私を見下ろすように冷酷に睨みつけた。
「何を狂ったように暴れてるんだ。昨夜言ったはずだろ、この店は必ず畳ませるって」
私は彼の言葉を無視して、手足を使って泥まみれになりながらあの木箱へ這い寄ろうとした。
だが、もう遅かった。
ちょうどバックしてきたゴミ収集車がその場に停まり、作業員たちが次々とゴミ袋を後部の投入口へ放り込んでいった。
そのゴミの山も、あっという間に収集車の中へ飲み込まれていった。
「やめて!止めてお願い!その中に、母の形見が入ってるの!」
喉が裂けるほど叫びながら、収集車を止めようと無我夢中で駆け出そうとした。
だが紘太が、私の腰を背後からきつく抱え込んで、その場に縫い止めるように押さえ込む。
「いい加減にしろ!
ただのガラクタだろ。そんなゴミのために、ヒステリックに喚き散らして恥をさらす必要なんてないだろう」
バキッ、という鈍い音が響いた。
大切な木箱が収集車の投入口へ放り込まれ、そのまま回転板に巻き込まれて無惨に潰れていくのを、私はただ目を見開いて見つめることしかできなかった。
私たちの幼馴染みとしての絆そのものだったあの木製のお玉は真っ二つにへし折られ、ゴミ収集車の奥深くへ落ちていった。
母の色褪せたレシピ帳もろとも、ただの紙屑のように呆気なく押し潰されて。
その瞬間、私の中の世界は、恐ろしいほど静まり返った。
泣き叫ぶ声も、振りほどこうとする抵抗も、すべてが消え失せた。
私はただ糸が切れた人形のように動かず、紘太に路肩まで引きずられていくのに任せた。
そんな生気を完全に失った私の姿に、紘太自身も戸惑い、動揺したらしい。
彼は抱え込んでいた手を離すと、声にわずかな狼狽を滲ませて弁明を始めた。
「琴……そんな顔するなよ。たかがレシピ帳1冊じゃないか。腕のいい料理人を探して、また一からレシピを作らせてやるから。
あの木のお玉だって、大したことないだろ。明日デパートで、一番高いやつを買ってやるよ。それでいいだろ?」
私はゆっくりと顔を上げ、目の前に立つ、20年間愛し続けてきた男を見つめた。
彼は知らないのだ。あのレシピ帳のページの間には、彼の母親が死の間際に、彼へ宛てて書いた手紙が大切に挟まれていたことを。
その手紙を、私は10年間、誰にも言わずに大切に守り続けてきた。
来月訪れる彼の30歳の誕生日に、特別なプレゼントとして渡し、長年彼の胸の奥に刺さり続けたわだかまりを解いてやるつもりだったのだ。
それなのに、今はもう何も残っていない。
私は不意に、おかしな笑いがこみ上げてきた。
「いいよ、紘太。一番高いやつ、絶対に忘れないでね」
紘太は私のその不気味な笑顔を見て、なぜか背筋にぞくりと寒気を覚えたようだった。
彼は迷うように手を伸ばし、泥がはねた私の頬に触れようとしたが、私はそっと顔をそむけてその手を避けた。
第4話
「佳世子さんが待ってるんでしょ。これ以上、私の『下品な匂い』を嗅がせないほうがいいんじゃない?」
私は壁に手をついて、膝の痛みに足を引きずりながら、なんとか立ち上がった。
佳世子が近づいてきて、私にティッシュを差し出す。だがその目には、あからさまに勝ち誇った挑発の色が浮かんでいた。
「琴さん、紘太くんを恨まないであげてね。あなたのためを思ってのことなんだから。
若い女の子が、いつも服や髪にもつ鍋の匂いを染みつかせてたら、何かと大変でしょう?」
私はそのティッシュを受け取ることなく、ただ冷徹な目線で彼女を見つめ返した。
「せいぜい、一生そういう生活臭とは無縁でいられるよう祈っておくことね」
それだけ言い捨てると、私は降りしきる雨の中へと歩き出した。
背後から、紘太の理性を失ったような怒声が飛んでくる。
「唐田琴!今日出て行ったら、二度とうちに来るな!」
私は振り返らなかった。一瞬たりとも足を止めることはなかった。
部屋に戻ると、私物をすべて綺麗に片づけた。
何着かの普段着と、ル・コルドン・ブルーの合格通知書。それ以外は、何ひとつ持ち出さなかった。
空っぽになった部屋を眺めながら、5年間暮らしたこの場所を、最後に一度だけ見回した。
玄関には、紘太のお気に入りのルームシューズを、そのまま置いていた。
台所には、彼が一番好きな長芋と豚肉のやさしい豚汁も、そのまま残していた。
私はダイニングテーブルに歩み寄り、メモ用紙を一枚取り出すと、こう書き残した。
【豚汁は鍋の中。温かいうちに食べてね】
書き終えると、部屋の鍵をそのメモ用紙の上に重ねて置き、スーツケースを引きながら、二度と振り返ることなく家を出た。
3日目。フランスへと旅立つ日。
天気は不思議なほどに晴れ渡り、その眩しい日差しに、なぜか不意に涙がにじんだ。
空港の待合室で、私はスマホの画面に映る紘太のアイコンをじっと見つめていた。
昨日から今まで、彼からは1通のメッセージも、1本の電話もこなかった。
きっと彼は、私がまた駆け引きのつもりでじらしているだけだと思っているのだろう。
自分が折れて機嫌を取りに来るのを待っているのだと。
搭乗が始まる直前、スマホが鳴った。
紘太からだった。
私は少しだけ迷ってから、通話ボタンを押した。
「お前、一体何のつもりだ?昨日は1日中連絡してこないし、今日は電話にも出ない!」
苛立った詰問が、電話の向こうから響いてくる。
電話の向こうでは、佳世子の甘ったるい笑い声と、周囲のはやし立てる声が混じって聞こえていた。
「紘太くんったら、早くケーキ切って!みんな待ってるよ!」
そうか。今日は、佳世子の誕生日でもあったのか。
彼は清純で手の届かない憧れの人の誕生日を祝っていて、私はひとり、空港で搭乗の時を待っている。
「騒いでなんかいないよ」
窓の外で離着陸を繰り返す飛行機を見ながら、私は静かに答えた。
「紘太、ただ伝えておきたかっただけ。鍋の豚汁、もう悪くなってるかもしれないから、食べないで」
紘太は一瞬だけ黙り込み、それから冷たく鼻で笑った。
「そんな当てつけがましいこと言って、俺を不快にさせるな!家出すれば、俺が探しに行くとでも思ってるのか?
言っておくが、今日電話を切るような真似をしたら、俺たちはそれで本当に終わりだからな」
私はふっと口元を緩めた。だが、前触れもなく涙が手の甲にこぼれ落ちた。
「わかった」
たった一言だけ答えて、私は迷うことなく通話を切った。
電源を落とし、SIMカードを抜き取ると、すぐ隣にあったゴミ箱へと放り込んだ。
紘太、私たちはとっくに終わっていたんだよ。
あなたが人に命じて、母の遺品を押し潰させたあの瞬間から。
あなたが私の体の匂いを、疎ましく思ったあの瞬間から。
私たちはもう、二度と元には戻れなくなっていたんだ。
私はスーツケースを引き、まっすぐ搭乗口へと向かった。
飛行機が雲を突き抜けたちょうどその頃、遠く離れた都心では、紘太がマンションの扉を押し開けていた。