第1章
婚約パーティーが始まる3時間前。
榊原瑛司(さかきばら えいじ)は私の婚約指輪を手に取り、元恋人・篠崎美梨(しのざき みり)の指にはめた。
「美梨は指が細いから、緩くないか試してもらっただけだ」
抗がん剤治療を終えたばかりの母・雨宮和恵(あまみや かずえ)は、帽子をかぶって招待客の席に座り、親戚に笑顔で話していた。
「琴乃ちゃんにも、やっと大切にしてくれる人ができたのよ」
ところが控室では、美梨が手を上げ、指輪を明かりにかざした。
「瑛司、やっぱり私のほうが似合うと思わない?」
瑛司は眉をひそめたが、指輪を外せとは言わなかった。代わりに、低い声で美梨をなだめた。
「わがまま言うなよ。今日は俺たちの婚約パーティーなんだぞ」
美梨はみるみる目を潤ませた。
「最初の指輪は、私にくれるって言ったのに」
瑛司は少し黙ったあと、手を伸ばして美梨の涙をぬぐった。
私はドアの前に立ったまま、昨夜のことを思い出した。
母は私の手を握り、こう言った。
「琴乃ちゃん、もう長くは一緒にいられないかもしれない。せめて琴乃ちゃんが家庭を持つ日だけは、この目で見届けたいの」
だから、私は耐えた。
二人のもとへ歩み寄り、指輪を返してほしいと手を差し出した。すると美梨は突然、瑛司の胸元へ逃げるように身を引いた。
その拍子に美梨がシャンパンタワーにぶつかり、指輪がその指から滑り落ちた。
積み上げられたグラスが大きな音を立てて崩れ、指輪も破片の中へ転がっていった。破片の中の指輪を拾おうと手を伸ばした瞬間、ガラスで手のひらを切った。
瑛司は血のにじむ私の手には目もくれず、真っ先に美梨をかばった。
「琴乃、こんな日に何やってるんだ?」
手のひらに目を落とすと、傷口から血が流れていた。
指輪は割れたグラスの破片に埋もれ、もう輝きを失っていた。
そこで初めて気づいた。一度でもほかの誰かの指にはまったものは、もう私のものではない。
第1話
「琴乃、今は怒ってる場合じゃないだろ?」
瑛司の低い声には、かすかな苛立ちがにじんでいた。美梨を背後にかばったまま、床に散らばったガラス片に目を落とした。
私はまだ血の滴る手のひらを見つめたまま、何も答えなかった。
美梨は瑛司の背後から、泣きそうな声で言った。
「瑛司、ごめんなさい。わざとじゃないの。琴乃さんに指輪を返そうとしただけなのに、急に手を伸ばしてきたから、びっくりして落としちゃって」
そう言いながら、瑛司のスーツの袖をそっと引いた。
瑛司は美梨のほうへ向き直ると、ポケットからハンカチを取り出し、シャンパンのついた手を丁寧に拭いた。
「大丈夫だ。怪我がなくてよかった」
怯えた子どもをなだめるような、優しい口調だった。
美梨の手を拭き終え、瑛司はようやく私に目を向けた。手のひらから流れる血に気づくと、わずかに眉をひそめた。
「化粧室で洗ってきたほうがいい。このあと人前に出るんだから」
痛くないかとも聞かず、医者を呼ぼうともせず、ただこのあとの予定を淡々と告げただけだった。
私は小さくうなずき、化粧室へ向かった。
「待て」
背後から瑛司の声がした。
足を止めたが、振り返らなかった。
「指輪は割れたグラスの破片に埋もれている。探すのに時間がかかるし、縁起も悪い。
秘書に、下のジュエリーショップで間に合わせのリングを買ってこさせる。
どうせ形だけの儀式なんだ。そんなにこだわるなよ」
鏡に映る自分の青白い顔を見つめた。
あのピンクダイヤの指輪は、半年かけて自分でデザインし、何度も工房へ足を運んでようやく完成させた特注品だった。内側には、二人の名前の頭文字も刻まれている。
それなのに、瑛司は適当な指輪で間に合わせればいいと言う。
「わかった」
小さな声で答えた。言い争いもせず、問い詰めもしなかった。
私があっさり引き下がると、瑛司は満足そうに近づき、頭を撫でようと手を伸ばした。
「今日はずいぶん聞き分けがいいな。美梨は最近、気持ちが不安定なんだ。少しくらい大目に見てやってくれ」
私は顔を背け、その手を避けた。
瑛司の手が宙で止まり、その目がわずかに曇った。
「まだ怒ってるのか?」
「怒ってない」
蛇口をひねり、傷口に冷たい水を流す。
「早く済ませたいだけ。お母さんが外で待ってるから」
母の話をすると、瑛司の表情がわずかに和らいだ。
「お母さんには俺から声をかけておく。手当てが済んだら戻ってこい。あまりみんなを待たせるなよ」
そう言い残し、美梨を連れて出ていった。
化粧室に残されたのは、私一人だけだ。蛇口から流れる水の音だけが響いている。
手のひらの深い傷を見つめ、ペーパータオルを一枚取り、少しずつ水気を拭った。
痛くない。本当に、痛くない。
10分後、秘書が息を切らして私のもとへやって来た。
「雨宮さん、社長からです」
差し出されたのは、ロゴのないベルベットの箱だった。
箱を開けると、中には何の飾りもない銀色のリングが入っていた。
ダイヤも刻印もなく、サイズまでひと回り大きかった。
「時間がなくて、これしか用意できなかったとのことです」
秘書はおずおずと、私の顔色をうかがっていた。
「わかりました。お礼を伝えてください」
そのリングを薬指にはめた。ぶかぶかで、少し動くだけでも指から滑り落ちそうだった。
第2話
会場はきらびやかな光に包まれている。
ドレスの裾を持ち上げ、入口で司会者の合図を待っている。
隣に立つ瑛司は、うつむいてカフスを整えている。
「手、まだ痛むか?」
何気ない口調だった。
「もう痛くない」
前を向いたまま答えた。
母は最前列のよく見える席に座っている。抗がん剤治療で抜けた髪を、ワインレッドのニット帽で隠している。顔色は悪いが、とても嬉しそうに笑っている。隣にいる親戚の腕を取り、ステージを指さしながら何か話している。
何を話しているのか、だいたい想像がつく。
きっと、琴乃もようやく幸せになれると話しているのだろう。
瑛司は私の視線を追って母を見ると、小さくうなずいた。
「今日はお母さんの調子がよさそうだな。パーティーが終わったら、専門の先生にもう一度詳しく診てもらえるよう、俺が手配する」
瑛司はいつもそうだ。散々傷つけたあとで、決まって優しくする。
以前の私は、そのわずかな優しさだけで、美梨ばかりを優先する瑛司を何度も許してきた。
けれど今は、ただ疲れている。
「必要ない。今は体に負担の少ない治療を続けるしかないって先生に言われてるから」
静かに断った。
私のそっけない返事が意外だったのか、瑛司は一度こちらを見ると、何も言わずに腕を差し出した。
「行こう。もう入場の時間だ」
瑛司と腕を組んだ。
音楽が流れ、大きな扉がゆっくりと開いた。
スポットライトを浴びながら、笑顔を崩さず、一歩ずつステージへ向かう。
会場のいちばん前にあるテーブルを通りかかったとき、美梨の姿が目に入った。
そこは本来、主賓のために取っておいた席だった。
今は美梨が座り、赤ワインのグラスを手に、薄く笑いながらこちらを見ている。その視線が、私の薬指で止まった。サイズの合わないリングを見て、美梨はほんの一瞬、勝ち誇ったような目をした。
席に着くと、料理が次々と運ばれてきた。メニューはすべて私が決め、最後のデザートには瑛司がいちばん好きなチョコレートケーキを頼んでいた。
ところが、運ばれてきたのはマンゴームースだった。
一瞬、固まった。
瑛司は当たり前のようにマンゴームースを受け取り、美梨の前に置いた。
「美梨、これ好きだろ」
美梨は照れたように笑い、スプーンですくってひと口食べた。
「ありがとう、瑛司。覚えててくれたんだ」
瑛司は振り返り、私の前にも一つ置いた。
「甘いものでも食べれば、少しは気分も変わるだろ」
目の前の黄色いマンゴームースを見つめると、吐き気がこみ上げた。
瑛司とは付き合って5年になる。美梨がマンゴーを好きなことは覚えているのに、私に重いマンゴーアレルギーがあることは忘れていた。一口食べただけで全身に発疹が出て、ひどければアナフィラキシーショックを起こす。
スプーンには手を伸ばさなかった。
「どうして食べない?」
瑛司が眉をひそめた。
「口に合わないのか?美梨がわざわざ会場のスタッフに頼んで、メニューを変えてくれたんだ。マンゴーのほうがパーティーに合うからって」
当然のように言う瑛司を、静かに見つめた。
「お腹が空いてないだけ」
皿を少し遠ざけた。
瑛司の顔に、不満が浮かんだ。
「琴乃、今日はどうしたんだ?美梨がせっかくメニューを変えてくれたんだ。一口くらい食べられないのか?」
顔を上げ、まっすぐに瑛司を見た。
「瑛司、私、マンゴーアレルギーなの」
瑛司の表情が固まり、その目に一瞬動揺が浮かんだが、すぐに平静を装った。
「……忘れてた」
瑛司が小さく咳払いし、皿を下げようと手を伸ばした。
「忘れてたなら、別にいい」
淡々と答えた。
母は心配そうに、私たちを見ている。
「琴乃ちゃん、どうしたの?瑛司くんと喧嘩でもしたの?」
母のほうを向き、笑いかけた。
「何でもないよ、お母さん。このデザート、ちょっと重そうで、今は食べたくないだけ」
母はほっとしたように、私の手を軽くたたいた。
「それならよかった。今日は二人の大事な日なんだから、楽しまなくちゃね」
小さくうなずいた。
そのとき、司会者の明るく弾んだ声が、マイクを通して会場いっぱいに響いた。
「皆様、お待たせいたしました。続きまして、本日の主役であるお二人にご登壇いただき、婚約の証を交換していただきます!」
第3話
席を立ち、ドレスの裾を持ち上げてステージへ向かうと、瑛司も後ろからついてきた。会場中の視線が、私たちに集まっている。
司会者はマイクを手に、笑顔で立っている。
「婚約の証を交換する前に、まずはお二人で、お祝いのケーキにナイフを入れていただきましょう!」
5段の大きなケーキが運ばれてきた。
瑛司は私の手を取り、銀色のケーキナイフを握った。
瑛司の手のひらは熱いのに、私の手は冷え切っている。
「琴乃、さっきは悪かった。俺の不注意だった」
瑛司が耳元で声を潜めた。
「終わったら、琴乃がいちばん好きな店に連れていく」
手を振りほどかず、ただケーキを見つめた。
「いい。早くお母さんと病院に戻りたい」
私が素直に喜ばないのが気に入らないのか、瑛司は眉をひそめたが、それ以上は何も言わず、ナイフを握る手に力を込めた。
ケーキにナイフを入れようとした、そのときだった。
会場のどこかから突然、声が上がった。
「美梨、どうしたの?」
振り向くと、美梨が胃のあたりを押さえ、血の気の引いた顔で椅子に倒れ込んでいる。
そばにいる親戚たちは、すっかり取り乱している。
瑛司の動きが止まり、銀色のケーキナイフが音を立ててワゴンの上に落ちた。次の瞬間には、迷いなく私の手を離し、ステージから飛び降りて美梨のもとへ駆け寄っていた。
「どうした?」
焦りを隠そうともしない声だった。
「わからない。急にお腹が痛いって言い出して、もう耐えられないって……」
瑛司は美梨を抱き上げた。
「控室へ連れていく」
美梨を抱いたまま、大股で控室へ向かっていった。
会場がしんと静まり返った。
みんなは顔を見合わせたまま、どうしていいかわからずにいる。司会者もステージの上で固まり、マイクを持ったまま次の言葉が出てこない。
最前列の母は顔から血の気が引き、肘掛けを強く握ったまま、小さく震えている。
私はステージに立ったまま、瑛司が美梨を抱いて廊下の奥へ消えていくのを見つめた。
スポットライトが私一人だけを照らしている。ひどく滑稽な光景だった。
「雨宮様、これは……」
司会者が、気まずそうに私を見た。
ワゴンに落ちたケーキナイフを拾い、紙ナプキンで柄を拭った。
「大丈夫です。私一人で切ります」
ケーキナイフを握ると、表情を変えず、迷うことも手を止めることもなく、大きなケーキに刃を入れた。
会場から、まばらな拍手が起こった。
ケーキを切り分けて皿に1切れ載せ、ステージを下りると、そのまま母に差し出した。
「お母さん、食べてみて。甘いよ」
母は目を赤くして、私を見つめた。
「琴乃ちゃん、瑛司くんは……」
「友達の具合が悪くなったから、様子を見に行っただけだよ」
笑顔でその言葉を遮った。
「気にしないで。ほら、ケーキ食べて」
母は震える手で皿を受け取った。大粒の涙が、クリームの上にぽろぽろと落ちた。
紙ナプキンで、母の頬を伝う涙を拭った。
「お母さん、今日は私の婚約パーティーだよ。どうして泣くの?」
母は声を詰まらせ、何も答えられなかった。
振り向き、近くにいたスタッフを手招きした。
「控室を見てきていただけますか。瑛司に、何か必要なものがないか聞いてください」
スタッフはうなずき、急いで控室へ向かった。
ほどなくして、ピンク色の保温ボトルを手に戻ってきた。
「雨宮様、榊原様から、篠崎様がお腹を痛めているので、このボトルに水を入れ、痛み止めと一緒に持ってきてほしいとのことです」
その保温ボトルを見つめた。
それは今日のために買ったものだ。パーティーの間に喉を潤せるよう、水を入れておくつもりだった。自分で描いたキャラクターのシールも貼ってある。それが今では、美梨のためのものになっている。
「わかりました。お願いします」
スタッフは保温ボトルを手に、再び控室へ向かった。
会場のスクリーンには、婚約記念に撮った写真が繰り返し映し出されている。
写真の中の瑛司は、かつてあれほど愛おしそうに私を見つめていた。
第4話
会場の空気が、どこかおかしい。
瑛司はなかなか戻ってこない。みんながひそひそと話し始めている。
私は席に座り、水を一口ずつ飲んでいる。
額に汗をにじませた司会者が、慌てて駆け寄ってきた。
「雨宮様、このあとの指輪交換について、進行表の最終確認をお願いいたします。問題がなければ、こちらにサインをいただけますか」
差し出されたのは、金色で縁取られた進行表だった。
ペンを受け取り、進行表に目を落とした。
【榊原瑛司様ご挨拶】と書かれた欄の横に、ボールペンで小さな文字が書き足されている。
【思い出ムービー上映】
ペンを持つ手が、一瞬止まった。
私が決めた流れに、こんな演出は入っていない。
「これは何ですか?」
その文字を指さして尋ねた。
司会者は額の汗を拭った。
「こちらは、先ほど榊原様から追加するように言われまして。篠崎様がお二人の婚約祝いに編集された映像を、スクリーンで流してほしいとのことです」
顔を上げ、正面のスクリーンを見た。
スクリーンが一瞬暗くなり、すぐに軽快な曲が流れ始めた。
写真が次々と映し出される。
最初の1枚は、大学のキャンパスで撮った瑛司と美梨の写真だった。白いワンピース姿の美梨が、明るく笑っている。瑛司は隣で少し顔を伏せ、愛おしそうに美梨を見つめている。
画面には、二人でスキーに行ったときの写真が映る。続いて、美梨の誕生日に瑛司が彼女の鼻先へケーキのクリームをつけた写真へと切り替わる。
……
100枚を超える写真は、どれも瑛司と美梨の思い出ばかりで、私が写っているものは1枚もない。
会場は一瞬で静まり返り、気まずい空気が広がった。
母は全身を震わせながら、スクリーンを指さした。
「これは……いったい何なの?瑛司くんはどういうつもりなの!」
母の手を押さえ、そっとたたいた。
「お母さん、怒らないで。体に悪いよ」
振り向くと、瑛司が控室から出てきた。
スクリーンの写真に気づいたのか、その表情に一瞬、驚きがよぎった。それでも止めようとはせず、私のそばまで来て声を落とした。
「美梨も俺たちの婚約を祝いたいって言うから、任せただけだ。写真くらい、気にするなよ。やっとお腹の痛みが治まったところなんだ。まだ気持ちも不安定だし、今は刺激したくない」
当然のような顔で話す瑛司を見つめた。
瑛司は、私を物分かりのいい女だと思っている。以前と同じように、その場を丸く収めるためなら、どんな不満も黙って飲み込むと。
「別にいいよ」
小さな声で答えた。
瑛司はほっと息をつき、私の肩を抱こうと手を伸ばした。
「やっぱり琴乃は話がわかるな」
その手を避け、進行表の【婚約者雨宮琴乃(あまみや ことの)】と書かれた欄に目を落とした。
ペンのキャップを外し、自分の名前に力を込めて線を引く。
1本、2本。
力を込めた線が、名前の上に重なった。
司会者が目を見開いた。
「雨宮様、これは……」
進行表を司会者に返した。
「このあとは、私抜きで進めてください」
瑛司が顔色を変えた。
「琴乃、何してるんだ?みんなの前なんだぞ。今ここで揉めることないだろ?」
釘を刺すような口調だった。
返事はせず、腰をかがめ、母の体をそっと支えて立たせた。
「お母さん、帰ろう。病院に戻ろう」
母は私を見つめ、また涙をこぼしたが、何も聞かずにうなずいた。
「ええ。一緒に戻りましょう」