第1章
深田麻実(ふかだ あさみ)の夫である深田博之(ふかだ ひろゆき)は、警察の特殊急襲部隊随一の狙撃手だった。任務での命中率は百パーセント。これまで、ただの一度として的を外したことはなかった。深田麻実(ふかだ あさみ)の夫である深田博之(ふかだ ひろゆき)は、警察の特殊急襲部隊随一の狙撃手だった。任務での命中率は百パーセント。これまで、ただの一度として的を外したことはなかった。
けれど今回の救出作戦では、彼は実の娘、深田晴菜(ふかだ はるな)に3発もの銃弾を撃ち込んだ。4発目でようやく犯人を仕留めた。
すべては、麻実の姉である高月綾子(たかつき あやこ)を無事に逃がすためだけに。
救急車の中で、麻実は震える両手で娘を抱きしめていた。小さな体からとめどなくあふれ出す鮮血が、彼女の視界をどこまでも赤く染め上げていった。
病院へ搬送されたものの、晴菜は右手と左脚を切断することとなり、かろうじて一命を取り留めた。
綾子は、かすり傷ひとつ負っていなかった。
誰もが、博之は職務を全うするため、あの引き金を引いたのだと信じている。
だが、麻実だけは知っていた。あの引き金を引いたのは、彼自身の私情からだったのだと。
けれど今回の救出作戦では、彼は実の娘、深田晴菜(ふかだ はるな)に3発もの銃弾を撃ち込んだ。4発目でようやく犯人を仕留めた。
すべては、麻実の姉である高月綾子(たかつき あやこ)を無事に逃がすためだけに。
救急車の中で、麻実は震える両手で娘を抱きしめていた。小さな体からとめどなくあふれ出す鮮血が、彼女の視界をどこまでも赤く染め上げていった。
病院へ搬送されたものの、晴菜は右手と左脚を切断することとなり、かろうじて一命を取り留めた。
綾子は、かすり傷ひとつ負っていなかった。
誰もが、博之は職務を全うするため、あの引き金を引いたのだと信じている。
だが、麻実だけは知っていた。あの引き金を引いたのは、彼自身の私情からだったのだと。
第1話
麻実は取り乱し、博之の職場に押しかけたこともあった。彼の拳銃を奪って胸元に銃口を突きつけ、半狂乱で問い詰めた。どうしてなの、と。
博之は落ち着き払った声で答えた。
「スコープの向こうで、犯人がナイフで綾子の首を切りつけたのが見えた。次の瞬間には人質を殺すつもりかもしれない。賭けには出られなかった。
あの3発は、晴菜の命を奪わずに犯人を仕留める最善の選択だった。すべて計算し尽くした上でのことだ」
その声は少しも乱れることなく、静かに響き渡った。
「犯人を仕留める。それが俺の職務だ」
拳銃を構える両手がわななき、麻実の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「じゃあ誓える?綾子のためじゃないって」
博之は目を伏せ、何ひとつ答えようとはしなかった。
その沈黙が、麻実の胸を締めつけた。力なく手から拳銃が滑り落ち、彼女は体を折り曲げ、声もなく泣き崩れた。
彼が覗き込んでいたスコープに映っていたのは、綾子ただひとりだったのだ。実の娘の命が風前の灯火であったあの瞬間、彼の頭を占めていたのは、もうひとりの女をどう守るかということだけだった。
隊員に引き離された麻実は、娘の集中治療室の前で一昼夜座り込んだ。その日を境にして、彼女は別人のように変わってしまった。
もう毎日、昼に弁当を作って博之の職場へ届けることも、立入禁止エリアの外からつま先立ちになって彼の姿を追うこともしなくなった。
毎月の収入の半分を母、高月明美(たかつき あけみ)に渡すことも、仕事帰りに明美の家事を手伝うこともやめた。
綾子の息子である高月悠斗(たかつき ゆうと)も家に送り返した。もう送り迎えも、身の回りの世話を焼くこともしなくなった。
事件から半月が過ぎ、博之はようやく病室に姿を見せた。
連れ立っていたのは、綾子と明美だった。
博之は病床の晴菜を見つめ、その瞳に痛ましげな色を浮かべながら、小さな頭を撫でようと手を伸ばした。だがその手は、麻実によって強く払いのけられた。
「触らないでッ!」
麻実は荒い呼吸で胸を大きく上下させ、目を強く閉じた。
「……出て行って」
博之は眉間に深く皺を寄せた。
「いつまでそうやって意地を張るつもりだ。
晴菜は俺の娘でもある。お前以上に、俺だって辛いんだ」
晴菜の布団を掛け直していた麻実の手が止まり、堪えきれずに涙がこぼれ落ちた。ゆっくりと振り返り、冷たく口元を歪めた。
「はっ……あなたも辛いって?
辛いなら、どうして一度も来なかったの?それなのに、傷ひとつ負わなかった綾子には、まるで犬のようにつきまとって」
病室が一瞬、静まり返る。明美は険しい顔で麻実に歩み寄ると、勢いよく彼女の頬を平手打ちし、鋭い声を上げた。
「この人でなし!綾子の夫は博之を助けて命を落としたのよ。あの子がどれだけ長い間、ひとりで子供を抱えて苦労してきたと思ってるのよ!よくも綾子に、そんなことが言えたわね!」
耳の奥で甲高い音が鳴り、麻実の頬が熱を持って腫れ上がった。
顔を覆いながら、記憶が遠い過去へと引き戻されていった。
そう、綾子の夫が博之をかばって死んだ。そのせいで、博之の休暇はいつも綾子と悠斗のために費やされ、父親代わりとして出席する保護者会も、悠斗のものばかりだった。
明美は悠斗ばかりを可愛がり、晴菜にはただの一度として笑顔を向けなかった。お年玉やプレゼントをもらうのも悠斗だけ。
家族旅行でさえ、いつもあの4人だけのものだった。
彼らは麻実の犠牲の上に成り立つ生活を、当然のように享受し続け、麻実と晴菜を家族として扱ったことは一度もない。
そばに立つ綾子の目に、今にもこぼれ落ちそうな涙が浮かんだ。
「ごめんね麻実、全部私が悪いの。博之やお母さんを責めないで……」
麻実は青ざめた顔のまま身をかがめ、意識のない晴菜の、青白い小さな顔にそっと触れ、額に唇を寄せた。
晴菜。ママがこの吐き気のするような家からあなたを連れ出すからね。これからは、これからは、ママの愛情は全部、晴菜だけのものだからね!
麻実は振り返り、博之を見据えると、静かな声で告げた。
「離婚しましょう、博之」
第2話
そのひと言に、病室が静まり返った。
博之の眉間に皺が寄り、指先が知らず知らずのうちに強張った。
明美の顔色が見る間に険しくなり、ベッドの上で意識を失っている晴菜を指差して怒鳴った。
「そんな足手まといを連れて、離婚した後で誰があんたの面倒を見てくれるっていうの!私が面倒を見るなんて、あてにしないでよ!」
麻実は静かに答えた。
「私の娘は、自分で育てます。誰の助けもいりませんから」
ドアを開け、まるで赤の他人にでも向けるような、よそよそしい声で言い放つ。
「晴菜には静かな環境が必要なんです。出て行ってください」
博之が大股で踏み出し、彼女の手首を掴んだ。その瞳の奥には、本人すら気づいていない深い動揺がはっきりと滲んでいた。
「お前……っ」
綾子が涙声で口を開いた。
「麻実、こんなことまでして、晴菜をちゃんと見ていなかった私を責めたいの?」
麻実は氷のように冷え切った目で姉を見据えた。
「最初に人質にされたのはあなただけだったでしょ。晴菜までわざと巻き込んだんでしょう」
博之の表情が一瞬で凍りつき、麻実の手を乱暴に振り払って言い捨てた。
「馬鹿げてる」
麻実は目を伏せ、手首に残る赤い痕を見つめ、自嘲するようにふっと笑いを漏らした。
明美は彼女を指差し、怒りに震えていた。
「あんたの心はどこまで腐ってるの!?実の姉さんのことを、そんな風に思うなんて!」
綾子は目を赤く腫らし、しゃくり上げるような涙声を漏らした。
「ここ数年、博之に迷惑をかけてきたのはわかってる。でも彼がいなかったら、私ひとりでどうやって生きていけばよかったのか……本当にわからなかったの」
言い終えるなり、綾子は身を翻し、病室を飛び出していった。
博之がひどく心配そうな顔つきになり、すぐさまその後を追う。
「綾子……っ!」
明美は胸を痛めたような顔をすると、振り返って麻実を憎々しげに睨みつけ、腕を掴んで無理やり連れ出しながら、鋭く言った。
「早く綾子に謝りなさい!許してもらえるまで、ちゃんと頭を下げるのよ!」
麻実は抵抗する間もなく、明美に屋上まで引きずられていった。
綾子は屋上の縁に立ち、今にも落ちそうにふらついている。
博之は少し離れた場所から、いつも冷静沈着なはずの声を、初めてこれほどまでに乱しながら叫んでいた。
「綾子、早まるな。こっちへ降りてこい……!」
明美はそれを見て、ぼろぼろと涙を流しながら訴えかけた。
「お願いだから降りてきて。お願いだから……!」
そして鬼のような形相で振り返り、麻実の髪を強く掴んで、地面へ無理やり跪かせ、金切り声を上げた。
「この薄情者!早く姉さんに謝りなさい!」
頭皮が引きちぎられるような激痛とともに、麻実の膝が硬い地面に強く打ちつけられた。
古傷が疼き、目の前が真っ暗になる。
これまでも、麻実が少しでも姉の機嫌を損ねるたび、明美は理不尽に彼女をリビングの床に跪かせて罰してきた。
長年の積み重ねで両膝はとうに傷んでおり、跪くたびに骨の髄まで刺すような鋭い痛みが走る。
両脚の激しい痛みで立ち上がることもできず、麻実はそのまま何度も地面に頭を下げさせられた。
明美は麻実の髪をしっかりと掴んだまま、半狂乱になって泣きながら、綾子に向かって叫んだ。
「綾子、こっちを見て!麻実がちゃんと頭を下げて謝ってるから。お願い、降りてきて!」
額が無理やり地面に打ちつけられ、皮膚が破れて生暖かい血が流れ出す。麻実の視界の端がじわりと赤く染まっていく。
痛みに耐えながら、彼女はゆっくりと顔を上げた。振り向いた綾子の瞳には、幼い頃から見慣れた勝ち誇ったような笑みがはっきりと浮かんでいる。
そして次の瞬間、綾子は一切のためらいも見せることなく、ふわりと宙へ身を投げた。
博之は考える間もなく、猛然と屋上の縁へ駆け寄ると、そのまま綾子を追って飛び降りた。落ちていく彼女をとっさに抱き止め、その屈強な腕でかばうように抱き込んだ。
麻実は目の前で繰り広げられるその光景を、ただ呆然と見つめていることしかできなかった。ふと、屋上を吹き抜ける冷たい風の音が、どこか遠くへ遠ざかっていくように感じられる。
……自分の夫は今この瞬間も、別の女のために命を懸けているのだ。
第3話
博之と綾子は救助用のエアマットに落下したおかげで、かすり傷ひとつ負わなかった。
博之の情報が一切表に出ないことに気づいたマスコミは、代わりに綾子への取材に殺到した。
自宅に押しかけた取材陣の前で、綾子は目に涙を浮かべていた。
壁には、殉職した夫に贈られた顕彰状が、ひときわ目立つ場所に飾られていた。
「晴菜をちゃんと守ってあげられなかった。全部、私のせいです……」
明美がその肩を抱き、涙を拭う。
「あなたのせいじゃないわ。全部麻実が薄情なせいよ。私の躾が悪かったんだわ」
夫を殉職で亡くし、女手ひとつで子どもを育ててきた綾子。その境遇は世間の同情を集め、非難の矛先は一斉に麻実へと向けられた。
【旦那さんは職務中に命を落としたのに、その妹が綾子さんを屋上まで追い詰めたなんて。こんなひどいことをする人、許せない】
【普段からどれだけ綾子さんをいじめてたのかしらね……】
【娘さんが障害を負ったって聞いたけど、自業自得でしょ!】
そうした書き込みを見つめながら、麻実は指の関節が白くなるほどスマホを強く握りしめ、無表情のまま画面を消した。
「ママ、どうしたの?」
ベッドの上で体を丸めていた晴菜が、青白い顔で目を瞬かせながら、心配そうに麻実を見上げる。
麻実は柔らかく微笑み、娘のそばに座って白湯をひと口飲ませ、そっと頭を撫でた。
「ううん、ママは大丈夫だよ」
晴菜は安心したように頷いたものの、しばらく迷った末、また小さな声で尋ねた。
「じゃあ、パパはどうしてまだお見舞いに来てくれないの?もしかして……晴菜がこんな体になったから、パパは晴菜のこと、嫌いになっちゃった?」
麻実は言葉に詰まり、目頭が熱くなった。うつむき、娘をそっと抱きしめる。
「……っ!そんなことないよ。晴菜がどんな姿になっても、パパとママにとって、ずっと一番大切な娘なの。パパはただ、忙しすぎるだけ……」
晴菜は、点滴の針が刺さった無事なほうの小さな手で、麻実の涙をそっと拭った。あまりにも健気だった。
「ママ、泣かないで。晴菜、そんなにパパに会いたいわけじゃないもん。ママがいてくれれば、それでいいから」
麻実の涙は、もう止まらなかった。
晴菜が目を覚ましてからのこの数日間、彼女は一度も痛いと口にしたことはなかった。
毎日ひとりで耐え、唯一願っていたのは、博之に会いに来てほしいということ。ただそれだけだった。
麻実は目を閉じ、廊下へ出て電話をかけた。
博之は仕事柄、勤務中は私用のスマホに出られないことが多く、連絡する時はまず所属先を通し、本人が対応できる時だけ取り次いでもらう必要があった。
しかも、十中八九、取り次ぎを断られた。
綾子だけは博之のスマホに直接電話をかけられると知ってからは、麻実はもう一度も彼に電話をかけたことがなかった。
電話はすぐに繋がり、耳元に博之の素っ気ない声が響いた。
「何の用だ?」
麻実は少し戸惑いながら、唇を強く噛み締めて尋ねた。
「いつ晴菜に会いに来てくれるの?」
博之はその口調に違和感を覚えた。
自分の前では、麻実はいつも語尾を伸ばした甘えた声で、まとわりつくように話しかけてきていた。
今のような、これほど距離を感じさせる冷ややかな声ではなかった。
博之は押し黙った後、答えた。
「……今日、行く」
返事はあっさりとしていた。
麻実はまた少し戸惑い、束の間沈黙してから電話を切った。
振り向くと、晴菜が期待に満ちた瞳でこちらを見つめていた。
麻実がそっと頷くと、晴菜が小さな歓声を上げた。
麻実は鼻の奥がつんとするのを堪えながら、笑みを浮かべた。
だが、ふたりが朝から晩まで待ち続けても、博之は現れなかった。代わりに、ふたりは病院のスタッフによって個室から出されることになった。
「上からの指示です。この病室を空けて清掃するようにと」
この個室は、博之が特別に手配した病室だった。そこで使われる薬も、国内最高水準のものだった。晴菜にはそれが必要だった。
麻実は慌てて博之に電話をかけたが、なかなか繋がらなかった。
病室前の廊下は人の行き来が絶えず、彼女は焦りで指先を小刻みに震わせた。
聞き覚えのある、慌ただしい足音が近づいてきた。悠斗を抱きかかえた博之が、廊下にいる麻実たちには目もくれず、焦った様子で病室へと踏み込んでいった。
綾子がハイヒールを鳴らしながら、その後ろからついてきた。ふたりの脇を通り過ぎる際、軽く眉を上げ、勝ち誇ったように微笑んだ。
麻実はその場に凍りつき、全身の血の気が引いていくのを感じた。
結局、この病室は悠斗のために空けさせられたのだ。
第4話
しばらくして、博之が病室から出てきて、わずかに罪悪感を滲ませながら言った。
「悠斗が熱を出したんだ。まずは悠斗に使わせる」
麻実は拳を強く握りしめた。
「晴菜こそ、あなたの娘でしょう!」
博之は不快そうに眉をひそめた。
「悠斗だって、俺の息子同然だ」
麻実はかつてのように反論することなく、唇の端を歪めると、俯いてタオルで晴菜の顔を拭いた。
博之は麻実が黙り込んでいるのを見て、一瞬ためらった後、無言で歩み寄り、晴菜の顔を拭くのを手伝おうとした。
しかし、その指先が麻実の手の甲に触れた瞬間、彼女はさっと手を引いた。
「私に触らないでッ!」
博之は一瞬、呆気に取られた。
以前のふたりは、喧嘩をするたびにこうして関係を修復してきた。麻実はいつもそこで折れ、目を赤くしながら素直に彼の腕の中に収まったものだった。
博之はふつふつと湧き上がる怒りを抑え込み、冷ややかに警告した。
「綾子に絡むのはやめろ」
言い終えると、彼はそのまま病室へと入っていった。
最初から最後まで、晴菜に一度も目を向けることはなかった。
晴菜は堪えきれず涙をこぼし、しゃくり上げながら言った。
「ママ、晴菜、何か悪いことした?どうしてパパは、晴菜より悠斗くんの方が好きなの?」
麻実の胸が締めつけられた。彼女は身をかがめて、晴菜をきつく抱きしめ、掠れた声で、ひと言ずつ区切るように言った。
「晴菜、あなたは何も悪くない。悪いのは、パパよ。
ママが一番大切に思っているのは晴菜よ。これからはママだけについてきて、いい?」
晴菜は大きく頷いた。
「うん!晴菜、ママさえいればいいの」
それから数日間、晴菜は個室に戻ることができず、病棟内の一時待機用スペースに置かれた簡易ベッドで過ごすことになった。
通りかかる人々は、好奇心と同情の入り混じった目を晴菜に向けた。晴菜はただ、毛布にくるまりながら小さく体を丸めていた。
麻実は胸が張り裂けそうだった。
病室から漏れ聞こえる綾子と悠斗の笑い声に、とうとう我慢の限界に達し、彼女は病室に飛び込んだ。
悠斗はベッドでのんびりとポテトチップスを食べながら、備え付けのテレビを眺めていた。床には空になったお菓子の袋が散らばっていた。
麻実は怒りを堪えながら、力任せに悠斗のベッドを外へ押し出し、代わりに晴菜のベッドを中へ押し入れた。
綾子が悲鳴を上げて、止めようとする。
「何のつもり!?」
麻実は彼女を強く押しのけ、冷ややかに見据えた。
「晴菜は私の命なの。あの子にこれ以上、手を出そうものなら、絶対に許さない」
綾子は一瞬呆然としたが、すぐに顔を歪めて嘲るように笑った。
「あんた、ずいぶん強気になったじゃない……
前は尻尾を振ってすり寄ることしか知らなかったくせに、今度は牙を剥くことを覚えたわけ」
麻実はぐっと拳を握りしめた。
かつての自分は、家族の絆を渇望し、いつも笑顔で姉と母の機嫌を取ろうとしていた。
けれど今の自分には、守らなければならない存在がある。
晴菜のためなら、どんなことでもする覚悟だった。
綾子がベッドのそばに歩み寄る。
「あんたの娘がどれだけ優秀だったとしても、今じゃ一人じゃ何もできない体じゃない」
そう言うなり、彼女は突然、晴菜の傷口に強く手を押し当てた。
晴菜は身動きひとつ取れず、逃げることもできないまま唇を強く噛みしめ、痛みに顔を歪め、涙で頬を濡らした。
麻実の頭の中で何かがプツンと切れた。彼女は綾子に飛びかかり、床に押し倒し、そのまま綾子の首を力いっぱい絞め上げていった。
締めつける手に、ますます力がこもっていった。
綾子の目に、ようやく恐怖の色が浮かんだ。
「マっ、ママ……?」
晴菜の泣き声混じりの声が響いた。
麻実は一瞬、体を強張らせ、次の瞬間、力をふっと抜いた。
その刹那、彼女は強い力で突き飛ばされ、額を金属製のベッドの脚に強打した。目の前が真っ暗になるほどの痛みが走った。
博之は綾子を腕の中に抱き込みながら、麻実に氷のように冷たい眼差しを向けた。
「……お前、よくも綾子に手を上げたな!」
駆けつけた明美は、綾子の首の傷を見るなり、床に倒れる麻実を憎々しげに睨みつけた。
「悠斗が私に連絡して、私が博之を呼んだからよかったものの、あんた、本当に綾子を殺すところだったんじゃない!?」
怒りで顔を引きつらせながら、麻実の髪を掴んでベッドの角に何度も打ちつけた。
晴菜が泣き叫んだ。
「うわぁん!ママを叩かないで……」
もがくうちに、ベッドから転げ落ちてしまった。
それを見た麻実は、渾身の力で振りほどき、晴菜を抱きしめた。
明美は鼻を鳴らすと、ふたりをまとめて外へ追い出し、部屋にあった荷物も一緒に放り出した。
「もう、出てけ!疫病神がふたりも!」
麻実はドアに寄りかかりながら、腕の中の晴菜をそっと抱え、絶望のあまり目を閉じた。
彼女はスマホを取り出し、ある番号にかけた。掠れた、疲れきった声で言った。
「……お願い、助けて……
もう……他に頼れる人がいないの」
電話の向こうで、男は一瞬黙り込んだ。
「俺が助ける!何だってするぞ」
第5話
麻実はほどなく、新しい病院の設備の整った個室へと移った。
晴菜を寝かしつけた後、男から再び電話がかかってきた。
「他に、俺にできることはあるか?」
麻実は笑った。
「離婚したいの」
彼はすぐに答えた。
「今すぐ手配する」
麻実は一瞬呆気に取られ、それから思わず笑ってしまった。
「ふふ……博之に目をつけられるのが怖くないの?」
彼は真剣な声で言った。
「知ってるだろ。お前を好きになった時から、覚悟はできている」
麻実は唇を噛んだ。
「……私、どうしたらいい?どうすればこの恩を返せる?」
電話の向こうで、彼は一瞬黙り込んだ。何かを考えているようだった。
「うちの会社で働けよ。働いて、借りを返せばいい」
麻実は驚きの声を上げた。
「それだけ?」
彼は真剣な声で言った。
「お前ほど仕事ができる人材が来てくれるなら、得をするのは俺の方だ」
彼女の懸念を察したように、彼は続けた。
「うちの会社には、医療・リハビリ分野で最先端の義肢技術がある。それに週休2日で、残業は一切ない」
麻実は迷わず答えた。
「わかった。行くわ」
男は笑った。声にはどこか気だるげな甘さが滲んでいた。
「3日後、晴菜を連れて来てくれ。航空券はもう手配してある」
麻実は承諾した。
電話を切った後、彼女は小さく息を吐いた。
晴菜をヘルパーに預け、麻実は荷物をまとめに家へ戻った。
家の中はがらんとしていた。博之のものは、もうほとんど残っていなかった。
彼のものは、少しずつ綾子の家へと運ばれていたからだ。
服も、靴も、寝具も、歯ブラシまで、すべて持ち出されていた。
綾子が暗闇を怖がるからという理由だけで、博之はもうこの家に泊まることさえなくなっていた。
麻実はふと、家の中の空気が息苦しいほど冷たく感じられた。
彼女は取り乱しそうになる心を慌てて抑え、自分と晴菜の荷物を簡単にまとめ始めた。
その時、畳んでいた肌着の間から、1枚の小さな写真が滑り落ちた。
博之と自分の写真だった。
仕事の性質上、ふたりには一緒に写った写真がほとんどなかった。
麻実は自分が持っている唯一の博之の写真に自分の姿を合成して、まるで本物のようなふたりの写真を作っていた。
写真の中の彼女は満面の笑みを浮かべ、博之の頬にぴったりと寄り添っている。
まるで、この世で一番仲睦まじい恋人同士のように。
麻実の脳裏に、博之と初めて出会った日のことが不意によみがえった。
異国のテロ事件に巻き込まれ、銃を構えた博之は身を挺して彼女を庇い、飛んでくる銃弾から守ってくれた。
彼は自分のヘルメットを彼女の頭に被せると、鋭く冷たかった目元をふっと和らげた。
漆黒の瞳に彼女の顔を映しながら、指先でそっと涙を拭ってくれた。
「怖がるな。俺が無事に家まで送り届ける」
涙がふいにこぼれ落ち、床に当たって小さな音を立てた。
麻実は涙を拭うと、すっと立ち上がり、キャリーケースを引いてその家を後にした。
第6話
道中、母から突然電話がかかってきた。
「悠斗のお迎え、行ってあげて」
電話の向こうからは、パチンコ店の騒がしい音が聞こえていた。
麻実はきっぱりと答えた。
「行かない」
母は声を荒げた。
「この恩知らずが!あんたの旦那のせいで、綾子は今頃こんな苦労してるのよ……」
そんな言葉は、これまで数えきれないほど聞かされてきた。耐えて、譲って、それでも返ってきたのは、ますますエスカレートしていく理不尽な仕打ちだけだった。
もう聞きたくない。電話を切ろうとした瞬間、母の声が続いた。
「行かないなら、明日そっちに乗り込んで話をつけるから!」
晴菜が煩わされるのは嫌だった。麻実は深い溜め息を吐き出した。
「……行くわ」
もういい。どうせ、これが最後だから。
麻実は学校の門の前で悠斗を待った。
チャイムが鳴り、悠斗が友達と一緒に校門から出てくる。麻実を見つけると目を輝かせ、すぐに手を差し出した。
「ねえ、5万円ちょうだい。帰りにコンビニ寄りたい。
あと、新しいゲーム機も欲しいんだけど」
以前の麻実なら、いつも言いなりになっていた。だが今は、淡々と答えた。
「帰るわよ」
悠斗はすぐさま顔を歪めて泣き出そうとした。その時、背後から誰かの手が彼の口を塞いだ。
腰の曲がった老人が、鋭い刃物を悠斗の首筋に押し当てていた。濁った両目が麻実に向けられる。
「動くな。動けば、この子を殺す!」
周囲の人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。老人を中心に、人のいない空間が広がっていく。
間もなく警察が駆けつけ、ふたりを包囲した。
麻実は必死に気持ちを落ち着かせた。
「何が目的なんですか……!私はこの子の保護者です。できることなら何でもします。
だから、ちゃんと話してください」
老人は突然、感情を爆発させた。
「こいつが毎日毎日俺の孫娘をいじめて、うつ病に追い込み……飛び降りさせたんだ!」
刃物が首筋に食い込むにつれ、悠斗が痛みに泣き叫んだ。
麻実のポケットでスマホが不意に震えた。彼女は音を立てずに応答した。左耳のイヤホンから、博之の落ち着いた声が流れてきた。
「気をつけろ。刺激するな」
博之の声が、さらに低くなった。
「怖がるな。俺がついてる」
麻実の指先がかすかに震えた。彼女は深く息を吸い、老人と向き合った。
「人を殺せば、何もかも失うだけです。ご家族のことを考えて……」
老人は首を振った。
「家族なんかいない。孫が死んだんだ。俺も、もう生きてる意味なんかねぇ……」
皺だらけの顔が、涙でぐしゃぐしゃになる。
「お前は子供の躾もできてねぇ。お前も死んで償え。こいつを殺したら、次はお前だ……」
言い終えると同時に、老人が動こうとした。
麻実は考えるより先に飛びかかり、刃物を奪い取ろうとした。
その耳元を、鋭い風切り音がかすめた。
麻実は動きを止めた。老人のこめかみから血しぶきが上がり、そのまま地面に崩れ落ちていった。
彼女はその場に凍りつき、指先を耳元へと伸ばす。
生温かい血が、耳の輪郭を伝って流れ落ちていた。
あと少しでも狙いがずれていたら、弾は自分の頭を撃ち抜いていた。
博之は綾子のために、娘を不自由な体にした。
そして今度は、綾子の息子のために、自分まで殺しかけた。
その時、綾子が突然飛びかかってきて、麻実を地面に押さえつけ、爪を立てて顔に掴みかかってきた。
「あんた、わざと犯人を刺激するようなこと言ったんじゃない!?私の息子を刃物で殺させたかったんでしょ!?」
しばらくして、ようやく警察に引き離される。
麻実は髪を振り乱し、顔中に爪の傷を負っていた。
現場を取り囲んでいた人々の中には、彼女が例の麻実だと気づく者も少なくなかった。
「なんてこと。絶対、お姉さんに仕返ししようとしたのよ」
「子供にまで手をかけるなんて、どれだけ性根が腐ってるの……」
「今回の事件も、あの女が仕組んだんじゃないかしら」
人々は口々に彼女を罵り、中には石を投げつける者までいた。体に当たるたび、鋭い痛みが走った。
距離があったため、彼女と犯人のやり取りを聞いていたのは博之だけだった。
麻実は、パトカーの後ろに立つ、沈黙した人影に目を向けた。
警察官たちが、賞賛と畏敬の眼差しで博之を取り囲んでいる。
博之は無表情のまま、彼女の姿を冷たい視線で一瞥した。まるで、見知らぬ他人でも見るかのように。
麻実は自嘲するように笑った。
彼が真実を口にするはずがない。綾子の息子に、傷がつくようなことはさせるわけにはいかないのだから。
守ってくれるなんて、悪い冗談にもならない。
第7話
翌日、博之から電話がかかってきた。
麻実は一瞬迷ったが、結局出た。
博之の声は、相変わらず素っ気ない。
「晴菜を連れて、どこに行ってた?」
麻実は静かに答えた。
「あなたには関係ない」
彼は少し間を置き、わずかに声を和らげた。
「明日、晴菜が好きな射撃場に行こう。喜ぶだろう」
麻実は最初、行くつもりはなかった。
けれど晴菜は病室にこもりきりで気分も沈んでいて、射撃場に行きたそうにしていた。
その気持ちを踏みにじる気にはなれず、結局連れていくことにした。
道中、晴菜はずっと興奮した様子で、車窓を流れる景色を眺めては嬉しそうに笑っていた。
怪我をしてから、これほど心からの笑顔を見せるのは初めてだった。
怪我をする前の晴菜は射撃の才能に恵まれていて、いつか父のような凄腕の狙撃手になりたいと夢見ていた。
けれどあの事件が、その夢を打ち砕いた。
麻実は娘の笑顔を見つめながら、こみ上げる涙を押し殺した。
これから先、二度とこの子を傷つけさせはしない。
博之は射撃場のオーナーと知り合いで、この日も貸し切りにしていた。
麻実が車椅子を押して晴菜を場内へと連れていくと、見覚えのある人影が目に入った。
博之が、綾子に射撃を教えていたのだ。
彼女の手を包み込むように握り、立て続けに5発撃ち、そのすべてが的の中心を撃ち抜いていく。
悠斗が歓声を上げた。
「パパ、すごーい!」
博之は満足げに笑って彼の頭を撫でた。
「お前もすごいぞ」
晴菜の顔から、笑みが消えていく。
以前、どれほど良い成績を収めても、博之が褒めてくれたことは一度もなかった。
麻実の表情が一瞬で冷え切り、車椅子の向きを変えてその場を去ろうとした。
だが博之が駆け寄ってきて、その行く手に立ちはだかり、冷たく硬い口調で言った。
「病院での件、綾子に謝れ。そうすれば、今回の件は不問に付してやると言っている」
綾子は彼の後ろに立ち、勝ち誇ったような挑発的な笑みを向けてくる。
麻実は氷のように冷え切った表情で言った。
「謝る気はない」
博之は強く眉をひそめた。
「……意地を張るな」
麻実は彼を無視して立ち去ろうとしたが、場内のスタッフに引き止められた。
晴菜は車椅子から力ずくで抱え上げられ、射線上に連れ出された。
麻実は必死に止めようとしたが、がっちりと押さえ込まれてしまう。
綾子が射撃位置に立ち、銃口を無防備な晴菜へと向けた。
悠斗も銃を手に、笑いながら晴菜に向けて撃ち始めた。
ゴム弾が次々と晴菜の体や傷口に当たり、彼女は激痛に悲鳴を上げ続けた。
「ママ……!ママ、助けてぇ!」
麻実は半狂乱になって泣き叫んだ。
「博之!晴菜は、あなたの娘なのよ!」
博之は表情を変えず、動じなかった。
「謝れ」
麻実は顔中を涙で濡らしながら、繰り返した。
「ごめんなさい……私が悪かった……ごめんなさい……」
麻実が折れたのを見届けても、なぜか博之の胸の苛立ちはさらに募った。彼が合図を出すと、ようやく麻実は解放された。
麻実は転がるように射撃ブースの中央へ駆け込み、晴菜を抱きしめた。
ゴム弾が体に当たるたび、鈍い痛みが走る。
それでも、綾子はまだ笑っていた。
「博之、私の腕前、どう?」
博之は答えた。
「悪くない」
麻実は晴菜の耳を両手で塞ぎながら、涙をこらえきれずにこぼした。
博之……絶対に、許さない……!
第8話
ようやく銃声が止んだ。
晴菜の体は青紫の痣だらけになり、麻実の腕の中で小さくすすり泣いていた。
麻実の心臓が痛み、全身が震えた。
「ごめんね、晴菜……ママが連れてきたりしなければ……」
博之が近づいてきて、見下ろすように言った。
「ゴム弾だ。この距離なら大して痛くもない。大げさに騒ぐな」
麻実は晴菜を抱いたまま、無言で背を向けて歩き出した。
博之は眉をひそめた。
「送っていく」
麻実は無表情のまま、彼の脇を通り過ぎた。
博之が一歩踏み出し、彼女の手首を掴んだ。
「ここ、かなり不便な場所なんだ。車がないと動けない」
麻実は足を止め、彼を見据えた。
「今すぐ帰るわ」
博之は彼女の生気を失ったような目を見つめ、胸の奥の苛立ちがますます膨れ上がるのを感じた。だが、その理由は自分でも分からなかった。
彼は頷き、振り返って声をかけた。
「今から帰るぞ」
悠斗が不満げに叫んだ。
「なんでだよ!まだ遊び足りないのに!」
博之が冷ややかな一瞥を向けると、悠斗はびくりと身をすくめ、二度と声を上げなかった。
すると、綾子が笑って言った。
「まあ、ちょうど撃ち疲れたところだし、帰りましょう、博之」
まるで家族3人のように片手で博之の腕に絡みつき、もう片方の手で悠斗の手を引く。
腕を絡められた博之は、どこか居心地の悪さを感じたようだった。顔を上げ、麻実の表情を目にすると、その顔つきがさっと冷たくなる。それでも、綾子に腕を組まれるままにしていた。
帰りの車は四輪駆動車だった。
悠斗が我先にと乗り込み、いつも博之が座る助手席を占領した。
博之は気にする様子もなく、2列目の席に座り、綾子がぴったりと身を寄せるように隣に座った。
麻実は晴菜を抱いたまま、一番後ろの席に座った。
自分の隣に座らなかったことに、博之はますます表情を険しくした。
車は順調に走り続け、ある橋に差し掛かった時、助手席の悠斗が突然声を上げた。
「あれ、これ何?」
その言葉とほぼ同時に、カチカチという時限装置のカウントダウン音が響き渡った。
博之の顔色が一変した。身を乗り出して足元を確認すると、助手席の座席の下に爆弾が仕掛けられており、カウントダウンはすでに5分を切っていた。
「動くな。重量感知式の爆弾だ。少しでも荷重が軽くなれば、即座に起爆する」
綾子が悲鳴を上げた。
「じゃあ悠斗はどうなるの!?」
悠斗が慌てて立ち上がろうとする。
博之が鋭く一喝した。
「動くな!」
悠斗がパニックを起こして泣き叫んだ。
「ママ、僕、死にたくないよぉ……」
綾子も涙をこぼした。
「この子は、亡くなった夫との大切なひとり息子なの。お願い、絶対に助けて!」
博之は手の甲に青筋を立て、後ろを振り返った。その視線が、麻実の腕の中の晴菜へと落ちる。
麻実は晴菜をきつく抱きしめ、信じられないという顔をした。
「何をするつもり!?」
博之は束の間沈黙し、掠れた声で言った。
「晴菜と悠斗の体重が、一番近い……」
麻実は半狂乱になって首を横に振った。
「駄目、晴菜は悠斗よりずっと体重が軽いのに……!」
博之は後部の荷室にある重り袋を指差した。
「これを足せば、足りる」
麻実は顔面蒼白になった。
「晴菜に、他の子の身代わりで死ねって言うの?」
博之は彼女の目を見ようとせず、ただ力ずくで彼女を押さえつけた。
麻実は必死に抵抗したが、博之の力にはまるで敵わない。ただ、綾子がひったくるように晴菜を腕から奪い取っていくのを、なす術もなく見ていることしかできなかった。
博之は彼女を腕の中に閉じ込め、強く抱きすくめた。
麻実は彼の肩に力任せに噛みついた。血の味が口の中いっぱいに広がる。
博之は低く呻き、掠れた声で言った。
「これで最後にする。約束する」
彼はベルトで彼女の手足を縛り、座席に固定すると、素早く身を翻し、晴菜に重り袋を抱かせて悠斗の代わりに助手席に座らせた。
晴菜は涙を必死にこらえながら、素直に袋を抱きしめた。
「晴菜が死んだら、ママは助かるんだよね?」
博之の動きが、一瞬止まった。
「晴菜は死なない。パパが、必ず助けを呼んでくる」
晴菜は何も言わず、ただまっすぐに母を見つめた。
「ママ……来世でも、また晴菜のママになってくれる?」
麻実は息もできないほど泣きじゃくった。
綾子は早々に悠斗を連れて車を降り、一目散に遠くまで逃げていった。
博之は麻実のシートベルトを外し、彼女を抱き上げると、強引に車の外へ連れ出そうとした。
麻実はいつの間にか手を縛っていたベルトを自力で解いており、博之の腕を振りほどくと、弾かれたように車へと駆け戻った。
背後で、博之の抑えきれない叫び声が聞こえた。
「麻実、戻ってこい!」
彼女は車の中に飛び込み、晴菜を胸に抱き込むと、開け放たれた反対側のドアから、体を投げ出すようにして転がり落ちた。そのまま、暗い川面へと落下していった。
巨大な火柱が、彼女たちの背後で噴き上がった。
麻実は、自分がどれほどの時間、冷たい水の中を泳いでいたのか分からなかった。ようやく岸にたどり着き、力を振り絞って立ち上がる。誰かに助けを求めようとしたその時——
1台の車が猛スピードで走り抜け、すぐに引き返してきて、彼女の前で止まった。
端整な顔立ちをした男が車を降りてくる。その表情には、隠しきれない焦りと深い心配が滲んでいた。
麻実はもう、それ以上立っていられなかった。彼の腕の中に倒れ込みながら、掠れた声で必死に訴えかけた。
「晴菜を……晴菜を、助けて……!」