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愛を乞う声は、もう届かない
胃がん末期の診断書を手に、私、伊藤佳奈(いとう かな)は震える手で、結婚7年になる夫、黒澤拓海(くろさわ たくみ)に電話をかけた。 だが、受話器の向こうから聞こえてきたのは、彼と別の女の笑い声、そして「何の用だ?早く言え、こっちは忙しいんだ」という苛立った声だった。 私が抗がん剤治療のため病院に行き、息子の黒澤蓮(くろさわ れん)を一人で留守番させていた時、あの子は私とかくれんぼをするつもりで洗濯機の中に入り込み、窒息して死んでしまった。 それでも拓海は、私が子供の生死をダシにして彼の気を引こうとしているのだと思い込んでいた。 私の子供は、冷たく小さな骨壺に収まる遺骨になってしまった。 後に真実を知った彼は、狂ったように私と蓮の墓前にひざまずいて泣き崩れた。 けれど、私自身とっくに一握りの灰になっていて、吹き抜ける風すら彼の遅すぎた懺悔を私の元へ届けてはくれない。
チャプター (1)
第1章
胃がん末期の診断書を手に、私、伊藤佳奈(いとう かな)は震える手で、結婚7年になる夫、黒澤拓海(くろさわ たくみ)に電話をかけた。
だが、受話器の向こうから聞こえてきたのは、彼と別の女の笑い声、そして「何の用だ?早く言え、こっちは忙しいんだ」という苛立った声だった。
私が抗がん剤治療のため病院に行き、息子の黒澤蓮(くろさわ れん)を一人で留守番させていた時、あの子は私とかくれんぼをするつもりで洗濯機の中に入り込み、窒息して死んでしまった。
それでも拓海は、私が子供の生死をダシにして彼の気を引こうとしているのだと思い込んでいた。
私の子供は、冷たく小さな骨壺に収まる遺骨になってしまった。
後に真実を知った彼は、狂ったように私と蓮の墓前にひざまずいて泣き崩れた。
けれど、私自身とっくに一握りの灰になっていて、吹き抜ける風すら彼の遅すぎた懺悔を私の元へ届けてはくれない。
第1話
私は病院の冷たいベンチに座り、その薄っぺらい検査報告書を握りしめていたが、それは鉛の塊のように重く感じられた。
胃がんの末期……
私は震える手でスマホを取り出し、見慣れているはずなのにどこか他人のように感じる番号へ電話をかけた。
私は拓海に、自分が病気になったこと、それもとても重い病気であることを伝えたかった。
電話は長く鳴り続け、ようやく繋がった。背景には少し騒がしい音が響いており、かすかに女の嬌声が聞こえてきた。
「もしもし?」
拓海の声が受話器越しに聞こえてきた。明らかに苛立っており、興を削がれたような声だった。
その瞬間、私が用意していた言葉はすべて喉の奥につかえ、抑えきれない嗚咽へと変わった。
「何の用だ?早く言え、こっちは忙しいんだ」
彼が苛立たしげに促すと、女の声が少し近づき、「拓海、誰なの?」と甘ったるい声で尋ねるのが聞こえた。
山口悠里(やまぐち ゆうり)だ。
ほんの二言三言で、彼の心を私から閉ざさせ、嫌悪すら抱かせるようにした女。
心臓が見えざる手にぎゅっと鷲掴みにされたかのように、息ができないほど痛んだ。
「あなた……」
やっとの思いで絞り出した一声に、情けなくも涙がこみ上げてくる。
「何なんだよ?用がないなら切るぞ」
彼の口調にはうんざりした響きが満ちており、私の話をこれ以上1秒でも聞くのは苦痛であるかのようだった。
「あなた……今夜は家でご飯、食べる?」私は全身の力を振り絞り、自分でも滑稽に思えるようなその言葉を口にした。
彼はふっと鼻で笑ったようだった。「今夜は付き合いがあるから、帰らない」
そして、電話はあっさりと切られた。
ツーツーという無機質な電子音が耳元で鳴り響き、自ら恥をかきにいった私を嘲笑っているかのようだった。
私はゆっくりとスマホを下ろし、かつて待ち受け画面にしていた私たちの写真を見つめた。写真の中の彼は優しく微笑み、私に向ける眼差しはあんなにも熱を帯びていたのに。
あれは、いったいいつのことだったろうか。
悠里が初めて現れた時のことを思い出した。彼女はあるパーティーの席で、何気ない風を装ってこう言った。
「佳奈さんは本当に家庭的ですね。私なんて不器用で、拓海のシャツにアイロンをかけることすらまともにできないんです」
彼が仕事で行き詰まって焦っている時、彼女は目を赤くしてこう言った。「拓海、佳奈さんを責めないで。彼女はあなたの苦労をあまり分かっていないだけかもしれないわ」
たったそれだけの言葉。しかしそれは的確に、彼の心の中にある私への不満と倦怠感を煽り立てた。
それ以来、彼が私を見る目は変わってしまった。
最初の頃の称賛と愛情は、品定めと粗探しに変わり、最後には今の隠そうともしない嫌悪へと変わった。
7年の絆も、何気ないふりをした数言の唆しには敵わなかったのだ。
私は足が痺れるまでそこに座り続け、ようやくゆっくりと立ち上がった。
外はすでに暗くなり、街のネオンが次々と灯り始めていた。けれど、その色とりどりの明かりのどれ一つとして、私の心に広がる荒涼とした闇を照らしてはくれなかった。
第2話
玄関の扉を開けると、だだっ広い室内には生活の気配が全くなく、冷え切っていた。
リビングの灯りは消えたままで、玄関のセンサーライトが放つ微かな光だけが頼りだった。
「蓮……」と私は小さな声で呼んだ。その声は、がらんとした空間に、ただ虚しく響くだけだった。
リビングのソファでうとうとしていた蓮が頭をもたげ、私をぼんやりと見つめて、小声で言った。
「ママ、おかえり……蓮ね、お腹ペコペコなの。卵うどんが食べたいな……」
「蓮、ごめんね。ママが悪かったわ。今すぐ作ってあげるからね」
キッチンへ向かい、手慣れた手つきで夕食を作ろうと冷蔵庫を開けた私は、そのまま凍りついた。中はすっぽりと空っぽで、キッチンを見渡しても、残っているのは乾麺のうどんがひと束だけだった。
スマホ決済の残高を確認すると、100円しかなかった。胸の奥から、言いようのない切なさと悔しさがこみ上げてくる。
涙を拭って振り返ると、私はやはり階下へ降りて卵を二個買い、蓮のうどんに具を足してあげようと心に決めた。
4歳になる蓮は私を見上げ、こう言った。「ママ、どうして泣いてるの?蓮もうお腹空いてないよ。何も食べなくていいから、ママ泣かないで」
ズキリと胸が痛み、私は慌ててしゃがみ込むと、彼の小さな額を優しくなでながら、声を詰まらせて言った。「蓮、ママは大丈夫よ。今すぐ卵を買ってきて、美味しいうどんを作ってあげるからね」
お腹を空かせてふらふらと頼りなげにしている姿を見て、胸の奥をぎゅっと鷲掴みにされたような痛みが、波のように押し寄せてきた。
拓海は、もうどれくらい蓮の顔をまともに見ていないのだろうか。
あの人はきっと、私たちに目に入れても痛くないほど大切な子供がいることすら、とうに忘れているに違いなかった。
忙しいのだ。自分の仕事に忙しく、悠里に付き合うのに忙しく、そして……この家へ帰ることを忘れるのに忙しい。
蓮をどうにか寝かしつけたあと、私は手早くシャワーを浴び、パジャマに着替えた。
寝室に入ると、そこには広いダブルベッドが置かれている。半分は私の領域、もう半分は、年中空いたままの冷たい空間。
私は自分の側に身を横たえ、体を丸めた。
深更、胃の痛みが突如として激しさを増し、まるで内側から何か鋭いものでかき回されているような錯覚に陥った。
冷や汗が一瞬にしてパジャマを濡らし、私はベッドの上でエビのように丸まりながら、痛みに全身を震わせた。息を吸うことすらままならない。
反射的に手を伸ばし、すぐ隣を探ってみたが、そこにあるのは変わらず冷え切ったシーツの感触だけだった。
拓海は、帰ってこなかった。分かっていたことなのに、それでも胸の奥が冷たく凍りついていくのを止められなかった。
私は痛みに耐えかねて這うように起き上がり、サイドテーブルを探って医者から処方された鎮痛剤をつかみ取り、水なしで無理やり飲み込んだ。
薬が効き始めるまでには時間がかかる。私は膝を抱え、ベッドのヘッドボードに背をもたせかけながら、幾重にも押し寄せる激痛にただ耐えるしかなかった。
やがて鎮痛剤がじんわりと効き始め、痛みはいくらか和らいだものの、体中の気力がすっかり吸い取られたかのように、酷い疲労感だけが残った。
再び横になったものの、一睡もできないまま、空が白み始めるのを迎えた。
数日後、初めての抗がん剤治療を控えた予約の日がやってきた。
看護師から、できれば家族の付き添いがあった方がいいと事前に念を押されていた。
病院の長いベンチに座り、私は長い間迷った末、結局拓海に電話をかけた。
電話がつながると、受話器から返ってきたのは、相変わらず何の感情もこもっていない声だった。「また何の用だ?」
「拓海、あなた……一度でいいから、病院に来てくれない?」私の声には、隠しきれないすがるような響きが混じっていた。
「病院?」
彼は一瞬絶句したようだったが、すぐに苛立ちをさらに深め、あまつさえ嘲るような口調に変わった。
「佳奈、また何の芝居を打つつもりだ?いつまで病気のふりをして同情を買う気だ。こっちは忙しいんだ、お前のくだらない茶番につき合ってる暇はない!」
受付で手続きをしてくれていた看護師が、電話のやり取りを聞きつけて眉をひそめ、何か言いたげな視線を向けてきた。
私は彼女に向かって引きつった笑みを浮かべ、静かに首を横に振った。
もうどうでもよかった。心が死に絶えるとは、きっとこういう感覚のことを言うのだろう。
電話を切り、私は淡々とした声で看護師に告げた。「家族はいません。私一人で大丈夫です」
看護師は私をじっと見つめ、その瞳に深い同情の色をにじませたが、それ以上何も問わず、ただ黙々と手続きを進めてくれた。
初めての抗がん剤治療は、想像を絶する苦しみだった。
強烈な吐き気、繰り返す嘔吐、めまい、そして一歩も動けないほどの脱力感。
たった一人で病室のベッドに横たわり、点滴の薬液が一滴、また一滴と透明なチューブを伝って血管に落ちていくのを見つめる。その冷たい液体とともに、自分の命の火が少しずつ削り取られていくような気がしていた。
第3話
1回目の抗がん剤治療を終え、私は鉛のように重い体を引きずりながら病院を後にしようとしていた。
外来ホールのあたりまで歩いてきたところで、一番顔を合わせたくない人物と正面から鉢合わせてしまった。
拓海だ。彼は焦りを露わにして悠里を支えながら、救急外来の方へ向かって歩いていた。
悠里の腕にはガーゼがぐるりと巻かれており、うっすらと血が滲んでいるのが見える。彼女は拓海の腕にすがりつくように寄りかかり、眉をひそめて、いかにも不憫な悲劇のヒロインといった顔をしていた。
「拓海、すごく痛いよ……」彼女は甘ったるい声で訴えかけた。
「大丈夫だ、ただの擦り傷だから。すぐに医者に処置してもらおう」拓海の声は、私に対しては決して向けられることのない、ひどく優しく甘やかすような響きを帯びていた。
その時、彼の視線がふと私に向けられた。
青白くやつれ果てた私の顔と、明らかに入院病棟から出てきたばかりの姿を目にして、彼は一瞬ハッとして立ち止まった。その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ罪悪感がよぎった。
無理もない。つい数日前、電話越しに私を「病気のふりをしている」と激しく詰ったばかりなのだから。
だが、その微かな動揺も、留まる暇さえなく悠里の言葉にあっさりと掻き消された。
「あら、佳奈さん。奇遇ですね、あなたも病院に?」
悠里は今初めて私に気づいたとでもいうように、わざとらしく口元を押さえた。「私、拓海に送ってもらって来たんですけど、佳奈さんもいらしたんですね。もしかして、また胃の調子でも悪くされたんですか?」
彼女の言葉は私を気遣っているように見せかけて、その実、拓海にあることを暗に仄めかしているのだ。
案の定、拓海の顔つきはスッと険しくなり、私に向ける視線は再び氷のように冷たくなった。そこにはあからさまな軽蔑の色さえ混じっている。
「佳奈!」
彼は嘲りに満ちた声で吐き捨てた。「俺に信じさせるために、ずいぶんと手の込んだ芝居を打つじゃないか。タイミングを見計らって、先回りして病院で待ち伏せしていたというわけか?」
私は口を開いて弁明しようとしたが、喉がカラカラに渇ききっていて、何も言葉が出てこなかった。
いったい何を説明すればいいのだろう。芝居なんかじゃない、本当にがんを宣告されたのだと?
それとも、今しがた抗がん剤治療を終えたばかりで、立っていることすらままならないほど弱り切っているのだと?
「ただ胃の調子が悪いだけだろう?医者に薬でも出してもらえば済むものを、わざわざそんな重病人のふりをして見せる必要があるのか?」
彼は眉根を寄せ、私を頭の先から爪先まで値踏みするように見下ろした。「今のその見え透いた姿を見てみろ。白々しい!」
ただ擦りむいただけの悠里を、壊れ物でも扱うかのように大事に庇う彼を見つめる。そして、紙のように青ざめた自身の顔色と、抗がん剤で抜け落ちて薄くなった髪を思い返した。
胃の奥が激しく波打ち、吐き気がこみ上げてきた。抗がん剤の副作用によるものと、何より彼のそのおぞましい態度にひどく胸糞が悪くなったからだ。
私は一言も発することなく、ただ黙ってうつむき、二人の横を通り抜けた。そして一歩、また一歩と、重い足取りで出口へと向かって歩き出した。
背後からは、まだ拓海をなだめる悠里の猫撫で声が聞こえてくるような気がした。
「拓海、怒らないであげて。佳奈さんはただ、あなたのことが好きすぎるだけなのよ……」
好きすぎる、か。
かつては間違いなくそうだった。
けれど今となっては、度重なる冷酷な仕打ちの中で、私の心はとうに完全に冷え切ってしまっていた。
第4話
家に帰っても、いつものような蓮の元気な声は聞こえず、出迎えてくれたのは死に絶えたような静寂だけだった。
心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねた。得体の知れない不吉な予感が、一瞬にして私の喉元を締め上げる。
「蓮?」私は焦って呼びかけながら、リビングへ、そして寝室へと駆け込んだ。しかし、どこにもあの子の姿はない。
「蓮!蓮!」
「ママ……ママ」
ベランダの方から聞こえた気がして、私は弾かれたように飛び出した。すると、あの子が洗濯機の中に閉じ込められていた。
手の震えがどうしても止まらず、4回目でようやく電源ボタンを押し込み、扉を開けることができた。
蓮の顔はすでに青紫色に変わっていた。まだ呼吸はある。だが、ひどく微弱だ。
途轍もない恐怖と悲しみが一瞬にして私を飲み込み、涙が堰を切ったようにとめどなく溢れ出した。
「拓海!拓海!」私は半狂乱で絶叫しながらスマホを引っ掴み、狂ったように彼へ電話をかけた。
彼が必要だった。今すぐ帰ってきて、蓮を一緒に病院へ運んでほしかった。
きっと大丈夫だ!絶対に助かる!
私は心の中で、何度も自分にそう言い聞かせた。
呼び出し音ばかりが長く続き、ようやく繋がった向こう側からは、相変わらず騒がしい音が聞こえてきた。
「佳奈、今度は何なんだよ!?」拓海の声には、露骨な苛立ちが満ちていた。
「拓海、蓮が……蓮が……」私はむせび泣き、言葉もまともに紡げないまま叫んだ。「息をしてないの!早く帰ってきて!病院に連れて行って……」
電話の向こうは数秒間の沈黙のあと、拓海の冷ややかな鼻で笑う声が聞こえてきた。「佳奈、お前もいよいよ際限なく落ちぶれたな!俺の気を引くために、そんなことまで口走るのかよ!?お前のそんなくっだらない狂言に付き合ってる暇はないんだよ!」
電話はふたたび、無情にも一方的に切られた。
スマホを握りしめたまま床にへたり込み、蓮の静かな寝顔を見つめていると、底知れぬ絶望が私をじわじわと飲み込んでいった。
私は大きく息を吸い込み、乱暴に涙を拭うと、蓮の体をそっと抱き上げた。
4歳の子供の体はとても軽かったが、抗がん剤治療を終えたばかりの私の体で彼を抱き上げるには、全身の力を振り絞る必要があった。
私は蓮を抱きかかえ、一歩、また一歩とおぼつかない足取りで家を出ると、通りでタクシーを拾い、一番近い病院へと急いだ。
駆け込んだ病院で診てくれた担当医の白石蒼真(しらいし そうま)は、とても穏やかで優しい若い男性だった。
彼は蓮を注意深く診察した後、私の肩をポンポンと軽く叩き、沈痛な面持ちで告げた。「伊藤さん……申し訳ありません。ご愁傷様です」
とうに最悪の覚悟はしていたはずなのに、確実な死の宣告を聞いた瞬間、せき止めていた涙がふたたびとめどなく溢れ出した。
「この子、逝く時は……苦しかったでしょうか」私は声を震わせて尋ねた。
白石先生は痛ましげに私を見つめたまま、それ以上は何も言わず、ただ静かに口を噤んだ。
私はうつむき、まるでただ眠っているだけのように見える蓮の、すっかり冷え切ってしまった額を、何度も何度も撫で続けた。
その後、白石先生は蓮の葬儀の手配まで親身になって手伝ってくれた。
私は蓮を、陽光が降り注ぐ明るい霊園に埋葬した。蓮は生前、ぽかぽかとした太陽の下を走り回るのが何よりも好きだったから。
私はよくそこへ足を運んでは腰を下ろし、蓮の墓標に向かって語りかけた。
白石先生も時折私の様子を見にやってきては、話し相手になり、少しでも私の心を和らげようと心を配ってくれた。
彼のご厚意は痛いほど分かっていたが、私の心にぽっかりと開いた深い穴は、もうどうやっても埋まることはなかった。
蓮を失ったことで、拓海に対して残っていたわずかな情の欠片すら、完全に消え失せてしまった。