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毒家族を捨てた専業主婦、最高の幸せを掴む
義母の還暦祝いのパーティー当日。 朝、私、堀内雨音(ほりうち あまね)が目を覚ますと、髪は無残にバリカンで刈り上げられ、顔には油性ペンで大きな豚の落書きがされていた。 私が眠っている間にこんな酷いことをしたのは――私が手塩にかけて育てた最愛の息子、翔太(しょうた)だった。 ショックで震えながら理由を問いただす私に、翔太は悪びれる様子もなく、大人びた口調で言い放つ。 「ママ、今日のパーティーには来ないでよ。みんなママより、澄香お姉ちゃんの方が好きなの、分かんない? パパに無理やりくっついて行こうとするから、僕が欠席する理由を作ってあげたんだよ。 あとさ、もうすぐパパの誕生日でしょ?ママが離婚に同意するのが、一番のプレゼントだと思うな。 安心してよ、澄香お姉ちゃんが新しいママになっても、将来面倒くらいは見てあげるからさ」 赤ん坊の頃から体が弱く、自分のすべてを犠牲にして看病してきた息子。 そんな彼から突きつけられた残酷な言葉に、私の中で何かが冷たく弾け飛んだ。 「……そう。あなたたちの望み通りにするわ」 私を疎んじる夫と、浮気相手を慕う息子。 ええ、喜んで捨ててあげる。 これは、すべてを失った専業主婦が、真実の愛と最高の幸せを手に入れるまでの逆転劇。
チャプター (1)
第1章
義母の還暦祝いのパーティー当日。
朝、私、堀内雨音(ほりうち あまね)が目を覚ますと、髪は無残にバリカンで刈り上げられ、顔には油性ペンで大きな豚の落書きがされていた。
私が眠っている間にこんな酷いことをしたのは――私が手塩にかけて育てた最愛の息子、翔太(しょうた)だった。
ショックで震えながら理由を問いただす私に、翔太は悪びれる様子もなく、大人びた口調で言い放つ。
「ママ、今日のパーティーには来ないでよ。みんなママより、澄香お姉ちゃんの方が好きなの、分かんない?
パパに無理やりくっついて行こうとするから、僕が欠席する理由を作ってあげたんだよ。
あとさ、もうすぐパパの誕生日でしょ?ママが離婚に同意するのが、一番のプレゼントだと思うな。
安心してよ、澄香お姉ちゃんが新しいママになっても、将来面倒くらいは見てあげるからさ」
赤ん坊の頃から体が弱く、自分のすべてを犠牲にして看病してきた息子。
そんな彼から突きつけられた残酷な言葉に、私の中で何かが冷たく弾け飛んだ。
「……そう。あなたたちの望み通りにするわ」
私を疎んじる夫と、浮気相手を慕う息子。
ええ、喜んで捨ててあげる。
これは、すべてを失った専業主婦が、真実の愛と最高の幸せを手に入れるまでの逆転劇。
第1話
私の言葉を聞いた翔太は、大げさにため息をつき、小馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「出たよ。ママのその『物分かりのいい妻』アピール」
やれやれと肩をすくめるその仕草は、とても子供とは思えないほど冷め切っている。
「前もそうやって僕の前じゃあっさり頷いてたくせにさ。いざパパが離婚届を持ってくると、泣き喚いてゴネたじゃないか。
パパが会社を立ち上げる時にママの貯金と実家からの援助金をつぎ込んだとか、僕が病弱だったから仕事を辞めて付きっきりで看病したとかさ……
そんなカビの生えた昔話を引っ張り出してきて、悲劇のヒロインぶるのはもうやめなよ。正直、痛いよ」
呆れたように言葉をぶつける息子を見つめながら、私は声すら出せなかった。
命を削ってあなたを育てた日々は、あなたにとってただの痛い昔話だったのね。
「まあいいや。今日はおばあちゃんの誕生日パーティーだし、ママの面倒くさい相手をしてる暇はないから。
何か言いたいことがあるなら、僕とパパが帰ってきてからにしてよね」
鬱陶しそうに手をヒラヒラとさせると、翔太はくるりと背を向け、足早に階段を降りていった。
パタン、と一階で扉が閉まる音が響く。
その瞬間、私の中からぷつりと緊張の糸が切れ、立っている気力さえも奪われてしまった。
よろめく足を引きずるように窓際まで歩き、冷たい壁に背中を預けて、ようやく崩れ落ちそうな体を支える。
ふと窓の外へ視線を落とした。
エントランスの前に、見慣れた高級車が音もなく滑り込んでくるのが見えた。
夫である堀内拓海(ほりうち たくみ)のビジネスパートナー――橘澄香(たちばな すみか)の車だ。
運転席から降りてきた彼女は、夜の闇の中でも一際目を引く、大胆に背中が開いたシルバーのスパンコールドレスを身に纏っていた。
街灯の光を反射してキラキラと輝くその姿を見た瞬間。
私の脳裏に、ある映像が残酷なほど鮮明にフラッシュバックした。
先ほどまで翔太が着ていた、少し背伸びをしたようなシルバーグレーのスーツ。
そして、今朝ご機嫌で家を出ていった拓海の首元を飾っていた、艶やかなシルバーのネクタイ。
あはっ……
ひどく乾いて、苦味を帯びた笑いが自然と唇からこぼれ落ちた。
鈍い私でも、さすがに点と点が繋がってしまった。
あの三人は、最初から「シルバー」というテーマカラーで揃えたコーディネートで、義母の還暦祝いに出席するつもりだったのだ。
拓海の戸籍上の妻であり、翔太を身ごもって産んだ、正真正銘の家族である私だけが。
最初から、彼らの言う「家族のイベント」から綺麗に排除されていたのだ。
突然、一階から翔太の甲高く弾んだ声が聞こえてきた。
「澄香ママ!パパと僕を迎えに来てくれたんだね。ずっと会いたかったよ!」
その無邪気な口から飛び出した「ママ」という響きに、私は雷に打たれたように全身を硬直させた。
翔太は、未熟児として生まれた。
彼がまだ私のお腹の中にいた頃、拓海は立ち上げたばかりの会社を軌道に乗せようと、毎日必死に駆け回っていた。
私が妊娠八ヶ月を迎えたある夜のことだ。
接待の席で泥酔した彼を迎えに、私は大きなお腹を抱えたまま車を運転し、指定された会員制ラウンジへと向かった。
しかし、そこで待っていた取引先の社長は、ひどく悪趣味な男だった。
テーブルの上に並べられた度数の高い火のつくような洋酒を指さし、ニヤニヤと笑いながらこう言ったのだ。
「奥さんが代わりにこれを飲み干してくれたら、この契約書にサインしてやるよ。妊婦が身を削るなら、それ以上の誠意はないからな」
悪辣な冗談だと思いたかった。だが、拓海は男を止めるどころか、すがるような目で私を見つめてきたのだ。
私は彼を、彼の夢を救うためだけに頷いた。
お酒なんて一滴も飲めない私が、喉を焼くようなアルコールを涙目で一気に飲み干した。
見事な飲みっぷりに機嫌を良くした社長は、約束通り契約書にサインをした。
「君は俺の勝利の女神だ!これで明日の融資返済もなんとかなる!」
拓海は狂喜乱舞して私を抱きしめたが、その歓喜は長くは続かなかった。
アルコールの刺激と極度のストレスで、私のお腹が引き裂かれるような激痛に襲われたのだ。
どれだけ急いで病院に運ばれても、遅かった。
翔太は予定日よりずっと早く未熟児として引っ張り出され、私は大量出血の末に命を繋ぐ代償として、子宮を全摘出された。
二度と子供が産めない体になってしまったのだ。
麻酔から覚め、その残酷な事実を告げられた時、私は喉が枯れるまで泣き叫んだ。
あんなにも子供が好きで、いつかこの子に兄弟を作ってあげたいと夢見ていたのに。
病室のベッドで絶望する私を見て、拓海は罪悪感に押し潰されそうになりながら「せめてもの償いに、この子には君の実家である柳沢(やなぎさわ)の姓を名乗らせよう」と提案してきた。
けれど私は弱々しく首を振り、小さな小さな我が子の頬にそっと触れて、ずっと前から決めていた名前を口にした。
「……ううん。この子は堀内翔太よ。大空を自由に羽ばたけるようにって、ずっと前から決めていたんだもの」
夫の過ちを許し、あくまで父親としての立場を守ろうとする私の言葉に、拓海は顔をくしゃくしゃにして泣き崩れた。
「もし俺が一生のうちで雨音を裏切るような真似をしたら、絶対に地獄に落ちてやる!
一文無しになって、一生這い上がれないどん底の人生を送ってやる!」
その恐ろしい呪いのような誓いを、私は慌てて彼の口を塞いで止めた。
「もう言わないで。あなたが私をずっと愛してくれるって、信じているから」
第2話
拓海は痛ましいものを見るような目で私を見つめ、ただ黙って私の手を強く握り返した。
退院後、体を壊した私と小さな未熟児の生活が始まった。
拓海は相変わらず会社に泊まり込みで、育児はすべて私の肩にのしかかった。
何度かベビーシッターを雇ってみたものの、目を離した隙に子供を危険な目に遭わせるような外ればかりで、心から信頼できる人はいなかった。
この小さな命を守れるのは私しかいない。
そう覚悟を決めた私は、復職の道を完全に断ち切り、専業主婦として自分のすべてを翔太に捧げた。
その血を吐くような努力が報われたのは、翔太が初めて言葉を発した日だった。
小さな唇を動かして、一生懸命に紡いでくれた「ママ」という二文字。
あの時の胸が震えるような感動と、溢れ出した熱い涙を、私は一生忘れない。
この子のためなら、どんな苦労も耐えられると本気で思っていた。
……それなのに。
あんなにも愛おしく呼んでくれていた「ママ」という特別な称号を。
今、私が命を懸けて産んだその子は、全く別の女に向けて無邪気に放っている。
その事実が、私の心を冷たく、そして確実に殺していった。
頬を伝って落ちる涙が、私の視界をぐしゃぐしゃに滲ませた。
ぼやけた視界の先、エントランスでは、拓海が少し慌てた様子で「子供の言うことだから」と澄香に謝りながら、翔太を軽く睨みつけていた。
しかし澄香は全く気にする素振りも見せず、むしろ愛おしそうにしゃがみ込み、翔太を抱き上げてその鼻先をツンとつついた。
誰が見ても、完璧に幸せそうな家族三人の光景だった。
三階の窓から、髪を刈り上げられ、顔中に油性ペンで落書きをされたピエロのような私が彼らを見下ろしていることなど、誰も気づいていない。
その瞬間。
私の中で渦巻いていた怒りや絶望が、嘘のようにスッと引いていくのを感じた。
ああ、そうか。
私はもう、この結婚も、この家族も……手放すべき時が来たんだ。
胸の奥にこびりついていた重たい泥のようなものが、静かに溶けていくような、不思議な安堵感があった。
私はふらつく足でスマホを取りに行き、離婚弁護士をしている親友の白石結衣(しらいし ゆい)に電話をかけた。
「結衣……お願いがあるの。離婚協議書を作って。私、離婚するわ」
死んだように淡々とした私の声とは対照的に、電話越しの結衣は悲鳴のような声を上げた。
「はあ!?離婚!?あんた、何の悪い冗談よ!」
「冗談じゃないわ。拓海と離婚する。……家も、車も、お金も……それに、翔太の親権も、何もいらない」
その言葉を聞いた瞬間、結衣の声はさらに跳ね上がり、歯がゆさと怒りで爆発した。
「ちょっと待ちなさいよ!あんたが離婚すること自体は別に反対しないわ。でもね、どうして全部向こうに渡して、身一つで追い出されなきゃならないのよ!
そもそも、あいつが起業するって騒いだ時、あんたが自分のために貯めていた結婚資金を全部差し出したんでしょ!?
結婚式だってまともに挙げず、安いチェーンのファミレスで、おもちゃみたいなベールを被って私たちとお祝いしただけじゃない!
一度目の起業に失敗した時だってそう!あいつ、わざとあんたを妊娠させて、正社員だったあんたの信用枠を使って銀行から多額の借金をさせたわよね!?
私があなたの職場へ様子を見に行った時、休憩室で水道水と塩むすび一個だけの昼食を食べてた姿……私、今でも悔しくて忘れられないんだけど!
今になってようやくあいつが成功して、あんたも専業主婦になれたっていうのに。何もかも捨てて出て行くなんて、あんた本気で言ってるの!?」
第3話
結衣の怒涛のまくしたてに、私は何も言い返すことができず、ただ黙り込んだ。
彼女の言う通りだ。
忘れるはずがない。交際して三年、拓海からプロポーズされた日のことを。
私が涙を流して頷いた直後、彼は「起業のためにお金を貸してほしい」と切り出してきたのだ。
当時の私は彼にすっかり依存し、盲目になっていたため、警戒心など微塵もなかった。
他の誰でもなく私を頼ってくれたのだから、それは私が一番愛され、信頼されている証拠に違いない。
そんなふうに、自分にとって都合のいい、愚かで痛々しい勘違いをしていたのだ。
だから、結衣たちにどれだけ止められても、どれだけ「騙されてる」と呆れられても、私は全てのお金を彼に渡した。
ファミレスでの惨めな結婚祝いも、彼が「起業の初期で苦しいから、少しだけ我慢してくれ」と泣きついてきたからだ。
「成功したら、必ずお姫様みたいな最高の結婚式を挙げてやる。世界中のみんなに、俺たちの永遠の愛を証明しよう」
そんな甘い毒のような言葉を、当時の私は疑いもせず、ただただ信じきっていた。
結婚してまだ一ヶ月も経たないうちに、拓海は意気揚々と起業に乗り出した。
素人が急に手を出して成功するほど甘い世界じゃないと、私は必死に止めた。
けれど彼は、「大学の後輩である澄香の実家が手掛けているプロジェクトだから、便乗すれば絶対に儲かる」と言って聞かなかった。
結果は惨憺たるものだった。
わずか三ヶ月で、私たちの結婚資金も貯金も、文字通り一円残らず綺麗に吹き飛んだのだ。
その直後こそ、拓海はひどく落ち込み、私の顔色ばかりを窺って、地べたに這いつくばるように謝罪してきた。
軽率な彼への怒りはもちろんあった。けれど、夫婦になった以上、ここで見捨てるわけにはいかない。
私は結局、ほだされて彼を許してしまった。
お金はなくなったが、生きていくためには生活費が要る。
それでも拓海はプライドが邪魔をするのかバイトすらしようとせず、私たちは私が正社員として稼ぐわずかな手取りだけで食いつなぐ羽目になった。
だから私は、「生活が安定するまでは絶対に子供は作らない」と宣言した。
当然、夜の生活でもきっちりと避妊するように求めた。
拓海は分かったと素直に頷いていた。
……まさかその裏で、彼がコンドームに針で穴を空けるという最低な工作をしていたなんて、当時の私は夢にも思っていなかった。
それから半年後。
体調不良で病院を受診した私が妊娠を告げられた時、真っ先に脳裏をよぎったのは「絶対に産めない」という絶望だった。
私が堕胎を口にすると、拓海は涙ながらに私の手を握りしめ、こう訴えかけた。
「雨音、お金がないのは分かってる。でも、俺はどうしても君との子供が欲しいんだ!
確かに子育てには莫大なお金がかかる。だから……」
そこで突然、拓海は声のトーンを変え、本当の狙いを口にした。
「実は最近、澄香が確実なビジネスの話を持ちかけてくれたんだ。俺も一枚噛みたい。
雨音が正社員の信用枠を使って、三百万円か四百万円ほど銀行から融資を引っ張ってきてくれないか?
俺が責任を持って絶対に返す!もし失敗したら、その時は腹を切って死ぬ!
だからお願いだ、もう一度だけ俺の起業を応援してくれ!
俺だってこんな貧乏生活はうんざりなんだ!生まれてくる俺たちの子に、こんな惨めな思いをさせたくないだろ!?」
あまりにも身勝手な要求に、私は当然、きっぱりと拒絶した。
貯金ゼロ、むしろマイナスになりかけているこの小さな家庭に、これ以上の借金を背負う余裕などあるはずがない。
しかし、拓海は卑怯だった。
「だったらいいよ。裏社会のヤミ金から借りてくる。リスクを背負ってでも、俺は君や子供に貧しい生活をさせたくないんだ!」
そう言って、命を粗末にするような脅し文句で私を追い詰めたのだ。
彼が本当にヤミ金に手を出して破滅するのを恐れた私は、またしても折れてしまった。
結局、自分の信用枠を限度額まで使い切り、三百六十万円という大金を彼に手渡したのだった……
……
私は深く息を吐き出した。
本気で私のことを心配してくれている結衣と、これ以上言い争う気にはなれなかった。
「結衣……私、もう本当に疲れたの。これ以上、あの人たちに関わって心をすり減らしたくない」
絞り出すようにそうこぼすと、電話越しの結衣は痛ましそうに息を呑み、それ以上何も言わなくなった。
第4話
通話を終えた私は、メッセージアプリを開き、拓海とのトーク画面に短い文を打ち込んだ。
【離婚に同意するわ。弁護士に協議書を作成させているから、届いたらサインして】
送信ボタンを押しても、当然のように既読はつかない。
画面の上にずらりと並ぶ、私からの無数の未読メッセージと同じように、今回も無視されるのだろう。
ふと、彼のSNSのタイムラインを開いてみた。
いつの間にか、アカウントのヘッダー画像は私たちの結婚式の写真から、拓海と澄香が祝賀パーティーでシャンパングラスを傾けている写真に変更されていた。
画面をスクロールすると、今日は珍しく大量の投稿がアップされている。
最新の動画をタップすると、高級そうな料亭の個室が映し出された。
澄香が甲斐甲斐しく義母の皿に料理を取り分けている。
義母は顔をほころばせながら、自分の腕からブレスレットを外し、澄香の細い手首に直接着けてあげていた。
――それは、私が以前、自分の生活費を極限まで切り詰めて義母に贈った真珠のブレスレットだった。
動画の中では、隣に座る翔太がその光景を見て無邪気に笑い声を上げている。
「澄香ママって最高!会社でもパパと息ぴったりだし、この前の授業参観に来てくれた時も、僕すっごく鼻が高かったんだ!
クラスのみんなが『お前のお母さん、すっごく綺麗だな』って羨ましがってたんだよ、えへへ。
ねえ、おばあちゃん。あの女じゃなくて、澄香ママが僕の本当のママだったらよかったのにね」
動画越しの幼い声色の中に、私に対する明確な「憎悪」が混じっているのを、確かに感じ取ってしまった。
私の話が出た途端、義母の顔から和やかな笑みがスッと消え去り、冷ややかな声で拓海に尋ねるのが聞こえた。
「そういえば、アレはどうしたの?姑の還暦祝いにも顔を出さないなんて、ずいぶんと偉くなったものね」
そこで動画はプツリと切れていた。
私は唇を強く噛み締め、自嘲気味に笑った。
見ての通りだ。義母にとっても、私がお腹を痛めて産んだ息子にとっても、私はもう名前で呼ばれる価値さえない。
ただの邪魔者、「アレ」や「あの女」という忌まわしい代名詞でしかないのだ。
その夜、拓海も翔太も家に帰ってくることはなかった。
どこに泊まるという連絡もなければ、私が送ったメッセージへの返信もない。
私は、顔中に描かれた油性ペンの落書きを洗い流すことも、無残に刈り上げられた頭を帽子で隠すこともせず。
電気の消えた暗いリビングのソファに座り込んだまま、抜け殻のように、ただぼんやりと朝を迎えた。
翌朝、拓海が一人で帰ってきた。
その顔には徹夜明けのような疲労が色濃く滲んでいた。
リビングに座り込んでいる私を見た瞬間、彼はギョッと息を呑んだが、すぐに心底忌々しそうな顔をして吐き捨てるように言った。
「なんだよ、その頭と顔。頭でもおかしくなったのか?翔太が見たら怯えるだろうが。
お前さ、そういうところが澄香に負けてるんだよ。あいつの方がよっぽどまともな母親に見える。
翔太があいつに懐くのも当然だ。少しは自分の問題点を見つめ直したらどうだ?」
私は何も言い返さなかった。
この惨めな姿が、他でもないあなたの愛する息子の仕業だということも、もう説明する気すら起きなかった。
ただ静かに立ち上がり、テーブルの上に置いてあった書類を彼の前に差し出した。
「離婚しましょう。もう私のサインと捺印は済ませてあるわ。
荷物もまとめてあるから、あなたがサインしてくれたら、すぐに出て行く」
拓海は信じられないものを見るような顔で私と書類を交互に見比べた後、乱暴にその書類をひったくった。
「お前が自分から離婚協議書を用意しただと?」
書類の文面を何度か目で追った後、彼は鼻で笑い、その紙の束を私の顔に向かってバサリと投げつけた。
「どうせまた、俺の気を引くためのただのポーズだろう?悲劇のヒロインぶって、俺が慌てて止めるのを待ってるんだろ。
本当に俺がサインするとでも思ってるのか?
言っておくがな、手切れ金くらいは出してやるが、会社と翔太の親権は絶対に渡さないからな!」
第5話
紙の端が頬をかすめて床に散らばるのを見つめながら、私はゆっくりと首を横に振った。
「駆け引きなんかじゃない。お金も、会社も、翔太も……何もいらない。
私はただ、疲れたの。もう終わりにしたいだけ」
感情の抜け落ちた私の声と、一切の抵抗を見せない態度に、拓海はどうやら私が本気だと悟ったらしい。
彼は怪訝そうに眉をひそめると、ふうっとため息をつき、私の向かいのソファに腰を下ろした。
ここ一年ほど、顔を合わせれば罵り合うか無視するかのどちらかだった彼が、久しぶりに穏やかなトーンで口を開いた。
「……澄香のことが原因か?前にも説明しただろ、俺とあいつはただのビジネスパートナーだ。
お前がそうやって、ありもしない妄想でヒステリーを起こして嫉妬ばかりするから、俺たちの関係がこんなに冷え切っちまったんじゃないか」
私は口角を僅かに上げ、皮肉と自嘲に満ちた笑みを浮かべた。
そして、拓海の目の前に自分の右手をスッと突き出した。
その手の甲には、決して消えることのない醜く引きつった切り傷の痕が、無残に走っている。
これは二年前、拓海から受けた罰の痕だ。
あれは、翔太の8歳の誕生日のことだった。
どうしてもパパと一緒にご飯が食べたいと泣きじゃくる彼をなだめながら、私は拓海の会社を訪ねた。
しかし、そこで私たちが目にしたのは――
社員総出で澄香の誕生日を祝い、拓海が彼女の首に高価なダイヤモンドのネックレスを、いかにも親しげに直接着けてあげている光景だったのだ。
それを見た翔太はパニックを起こし、駆け寄って澄香を力いっぱい突き飛ばしてしまった。
すると拓海は激昂し、なんと実の息子である翔太を容赦なく蹴り飛ばしたのだ。
小さな体が床に転がり、胸を押さえて痛がって泣き叫ぶ。
私は血の気が引き、目を真っ赤にして拓海に掴みかかった。
「拓海!頭おかしいんじゃないの!?こんな女のために、自分の子供に手を上げるなんて!」
私のその言葉に、拓海はさらに火に油を注がれたように激怒した。
「こんな女だと!?」
彼は完全に頭に血が上り、信じられないことに、ケーキを切り分けるために置いてあったペティナイフを掴むと……
結婚指輪が光る私の右手の甲に向かって、力任せに振り下ろしたのだ。
「翔太がこんなに聞き分けのないクソガキなのは、お前の教育がなってないからだ!その上、俺の大切なビジネスパートナーを、『こんな女』呼ばわりするとはな。
雨音、痛い目を見なきゃ分からないのはお前の方だ!妻の座にふんぞり返って、指輪一つで俺を好きに操れるとでも思ってるのか!
これは、調子に乗ったお前へのしつけだ!」
私は激痛で気を失いそうになりながらも、彼の会社を守るため、病院では「料理中に誤って切った」と嘘をついて彼をかばった。
血に染まったあの日の記憶。
あの日以来、拓海と澄香は、翔太の心を私から引き離すために周到な洗脳を始めた。
高級なゲーム機や高価なプレゼントで機嫌を取り、「ママが怒るからパパは家に帰れないんだよ」「澄香お姉ちゃんの方が翔太の味方だよ」と吹き込み続けたのだ。
最初は私を庇って泣いていた翔太も、子供の浅はかさゆえに物質的な誘惑と甘い言葉に屈し……やがて私を見下し、澄香を「新しいママ」として慕うようになってしまった。
拓海も当時のことを思い出したのだろう。
その顔に一瞬だけ罪悪感のようなものが過ぎったが、それはすぐに消え去り、今度は勝ち誇ったような冷笑に変わった。
「やっぱりな。離婚協議書が脅しにならないと分かると、今度はその傷跡を見せつけて同情を引こうって魂胆か。ワンパターンで呆れるよ。
言っておくが、そんな手はもう通用しないからな」
そう言い捨てると、彼は私の目の前で、協議書の署名欄にスラスラと自分の名前を書き殴った。
「ほらよ、サインしてやったぞ。本当に離婚する度胸があるなら、さっさと弁護士のところにでも持って行け。
俺の気を引くための茶番なら、いい加減に諦めろよな」
ペンを乱暴に放り投げると、拓海は立ち上がった。
「じゃあな、俺は会社に行く。翔太は学校にいるから、夕方ちゃんと迎えに行ってやってくれよ」
言い終わるが早いか、拓海はくるりと背を向けた。
玄関にポツンと置かれていた私のキャリーケースには一瞥もくれず、再び家を出て行く。
バタン、と冷たいドアの音が響いた。
私はもう、一言も発しなかった。
ただ静かに立ち上がり、この家の合鍵をテーブルの上にコトリと置く。
履き慣れたスリッパを脱ぎ、キャリーケースのハンドルを力強く握りしめて。
私もまた、二度と後戻りすることのない外の世界へと歩き出した。
空港に到着した途端、結衣から電話がかかってきた。
「ちょっとあんた!離婚協議書、ナイスタイミングだったわよ!
すぐに公証役場に持って行って、爆速で手続き進めてあげるから!
あとね、今さっきものすごい情報が入ってきたんだけど、あのクズ男、もうすぐ終わるわよ!」