私が死んだ日、夫は初恋を手にかけた

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私が死んだ日、夫は初恋を手にかけた

GoodNovel 完結

私は、立花和哉(たちばな かずや)を10年間、愛してきた。 彼はいつも私の目元に優しく口づけをして、愛おしそうに私の名前を呼ぶ。 「愛ちゃん、愛ちゃん」と。 彼が描いた絵には、いつも決まって同じ言葉が添えられていた。 ――「最愛の愛ちゃんへ」。 周囲のa人たちは、私たちを仲睦まじい夫婦だと思い、羨んだ。 けれど、私には分かっていた。 和哉が本当に愛しているのは私ではなく、別の女性だということを。 岩崎愛莉(いわさき あいり)。 和哉の幼なじみで、かつて彼を裏切って名声と将来を選んだ、彼の忘れられない女性。 「愛ちゃん」というのは、愛莉が昔から呼ばれていた愛称だった。 和哉が私と結婚したのは、私の目が愛莉に似ていたから。そして、名前に「愛(あい)」という字が入っていたから。 結婚7周年の記念日。 私は、その日に和哉へ伝えるつもりだった。 ――子どもができた、と。 けれど、私が口を開くより先に、和哉は離婚届と離婚協議書をテーブルの上へ置いた。 「離婚しよう……彼女が帰ってきたんだ」

チャプター (1)

第1章

私は、立花和哉(たちばな かずや)を10年間、愛してきた。 彼はいつも私の目元に優しく口づけをして、愛おしそうに私の名前を呼ぶ。 「愛ちゃん、愛ちゃん」と。 彼が描いた絵には、いつも決まって同じ言葉が添えられていた。 ――「最愛の愛ちゃんへ」。 周囲のa人たちは、私たちを仲睦まじい夫婦だと思い、羨んだ。 けれど、私には分かっていた。 和哉が本当に愛しているのは私ではなく、別の女性だということを。 岩崎愛莉(いわさき あいり)。 和哉の幼なじみで、かつて彼を裏切って名声と将来を選んだ、彼の忘れられない女性。 「愛ちゃん」というのは、愛莉が昔から呼ばれていた愛称だった。 和哉が私と結婚したのは、私の目が愛莉に似ていたから。そして、名前に「愛(あい)」という字が入っていたから。 結婚7周年の記念日。 私は、その日に和哉へ伝えるつもりだった。 ――子どもができた、と。 けれど、私が口を開くより先に、和哉は離婚届と離婚協議書をテーブルの上へ置いた。 「離婚しよう……彼女が帰ってきたんだ」 第1話 オークションで、和哉の『最愛』シリーズの最終作――『再会』に、なんと2億4千万という破格の値がついた。 淡い紫を基調にした油彩画だった。 満天の星空の下、白いドレスをまとった少女が静かに佇んでいる。その背後には、夢のようなバイオレットの花畑が広がっている。 少女の瞳は星のように澄み、どこまでも純粋で、見る者の胸を掴むような儚さを湛えていた。 和哉は繊細な筆致とロマンチックな色彩で、夢のような美しい光景を描き出している。 絵の中の少女は、生命力に満ち、息を呑むほど美しく、誰もが心の奥に思い描く「忘れられないあの人」そのもの。 絵を見た人たちは、口々に言った。 ――この絵のモデルは、きっと愛さんだと。 そして、和哉は絵の隅に、愛情のこもった言葉を残していた。 ――「最愛の愛ちゃんへ」。 落札を告げるハンマーが鳴り響く。 『最愛シリーズ・再会』を競り落としたのは、外国人のコレクターだった。 インタビューに応じた彼は、カメラに向かって、祝福の言葉を口にした。 「立花さんと奥さんの愛にとても感動しました。私は『最愛』シリーズが大好きです。2人がいつまでも仲良く、ずっと幸せでありますように!」 会場は、大きな拍手に包まれた。 画面に映る、どこか憂いを帯びた和哉は、真っ白なシャツに身を包み、ほんの少し口元を緩めている。向けられる祝福も、称賛も、素直に受け止めていた。 オークションのライブ配信には、私たちの愛を称えるコメントが次々と流れていく。 【和哉さんが注目されるようになったのって、愛さんに支えてもらえたからなんだって!愛さん、まさに「夫を成功させた妻」って感じ!】 【大学卒業後、和哉さんは就職せずにずっと創作に専念してたんだよね。愛さんが働いて生活を支えてたからこそ、今の和哉さんがあるんだと思う!】 【下手な恋愛小説より感動するんだけど!こんな夫婦、現実にいるんだ】 【和哉さん、人気俳優と並んでも顔が全然負けてない。愛さんも綺麗だし、仕事ができるし、この2人は推すしかない!】 スマホには、途切れることなくメッセージが届いていた。 【愛さん、おめでとう!長年の苦労が報われたね!】 【愛さんのこと、嫉妬しちゃうくらい羨ましいよ!】 【愛、今日は結婚記念日でしょ?和哉さんが絵を出したのって、愛へのサプライズなんじゃないの?ロマンチックすぎる!】 【愛、大学時代に3年も和哉さんを追いかけてたよね?結婚してからもう7年が経ったし、今じゃ2人は、すっかりみんなが憧れる夫婦になったよ。幸せになって本当によかった!】 【愛さん、和哉さんって本当優しい!和哉さんの友達にいい人がいたら、紹介してね!】 私はソファに身を預けたまま、1つ、また1つと届く祝福のメッセージに目を通していた。 そして、そっとお腹に手を添える。口元には、静かな笑みが浮かんでいた。 今日は、私たちの結婚7周年の記念日。 和哉は、私のために描いた『最愛』シリーズの最終作――『再会』を、オークションに出した。 私は手作りのケーキを用意し、テーブルにはキャンドルを灯した。和哉が帰ってきたら、一緒に結婚記念日を祝うつもりだった。 そして今夜こそ、自分の口から伝えたい。 ――子どもができた、と。 けれど、和哉は帰ってこなかった。 オークションが終わってから、まるでこの世から消えてしまったかのようで、電話をしても出なかったし、メッセージを送っても既読がつかなかった。 和哉がどこへ行ったのか、誰も知らない。 壁時計の針だけが、カチ、カチ、と無情に時を刻んでいく。 そして、日付が変わった。深夜零時を過ぎても、和哉は帰って来なかった。 胸の奥に灯っていた期待が、少しずつ冷えていく。 結婚7周年の記念日、和哉は私を置き去りにした。 これまでの7年間、和哉はずっと私に冷たかった。けれど、私をモデルに絵を描いているときだけ、その瞳には、燃えるような熱が宿った。 私の目元に口づけて、何度も何度も名前を呼ぶのだ。 「愛ちゃん、愛ちゃん……」と。 低く、甘く、どこか人を惑わせるような声。 私はずっと、それを愛情の証だと思っていた。 和哉はもともと感情を表に出さない人だから、その想いを、何より大切な絵に託しているのだと、思いたかった。 今日のオークションでも、和哉は展示台の前に立ち、自分の作品に込めた想いを、いつもの涼やかで、どこか情熱を秘めた声で語っていた。 けれど――その話を聞いているうちに、私は気づいてしまった。和哉が語る思い出と、私が覚えている思い出が、まるで噛み合っていない。 それでも私は、ずっと自分に言い聞かせてきた。 和哉は芸術家だ。だから、現実の出来事をそのまま描くのではなく、少し美しく、少しロマンチックに脚色しているだけなのだ、と。 そうやって、私は自分を騙し続けてきた。 結婚して7年。和哉が私を抱いたのは、たった一度だけだった。 その日は珍しく機嫌がよく、酒もかなり飲んでいた。私を抱きしめながら、何度も「愛ちゃん、愛してる」と囁いてくれた。 あの夜だけは、普段の彼からは想像もつかないほどの熱を見せた。 けれど、それ以外の日はいつも、和哉はアトリエに閉じこもっていた。 私は、ただ彼が生まれつき淡白な性格なのだと思っていた。 ――けれど。 今夜だけは、もう自分を騙すことができなかった。 胸の奥に、嫌な予感が芽生えていた。その予感は時間が経つほど強くなっていく。 妊娠初期の体調不良も重なり、身体から力を根こそぎ奪われたように、ひどくつらかった。 午前2時、私は何度も和哉に電話をかけた。けれど、何度かけても出ない。 返ってくるのは、無機質な電子音声だけだった。 「おかけになった電話は、電源が入っていないため――」 もう、何もする気力が残っていなかった。 疲労に押し流されるようにスマホの電源を切り、私はソファの上で身体を丸めた。涙が、止めどなく頬を伝っていった。 妊娠してからというもの、ひどく眠くなることが増えていた。いつ眠りに落ちたのか、自分でも分からない。 ただ、夜は何度も悪夢を見た。 最後に見た夢だけは、今でもはっきり覚えている。 和哉が帰ってきた。 彼はソファのそばに立ち、眠っている私をしばらく見つめていた。そして、そっと手を伸ばす。 頬にかかった乱れた髪を、指先で払ってくれた。そのまま私に、毛布を掛け直す。 次の瞬間、和哉の腕が私の身体を包み込んだ。 「ごめん」と、何度も謝った。 そして、最後に額へそっと口づけると、彼は、振り返ることなく私のもとを去っていった。 「……!」 私は飛び起きた。 目を開けると、静まり返った部屋にいるのは、私一人だけ。 ただ、テーブルの上に数枚の書類が置かれていた。 ――離婚届と離婚協議書。 部屋の中にはまだ、和哉がまとっていたあの松の香りがかすかに残っている。 夢じゃない。和哉は、本当に帰ってきていた。 震える手でスマホの電源を入れ、和哉とのメッセージ画面を確認した。 そこには、確かに彼からのメッセージが届いていた。 【離婚しよう……彼女が帰ってきたんだ】 第2話 メッセージとテーブルにある書類を目にした私は、すべてを悟った。 ――結局、全部、私の独りよがりだったのだ。 和哉が愛していたのは、最初から私ではない。幼い頃から心の奥に住み続けていた、幼なじみであり、忘れられない女性――愛莉だった。 和哉が口にする「愛ちゃん」も、私の名前から取った呼び方ではなく、愛莉の愛称だったのだ。 そういえば和哉は、何度も言っていた。私の目は愛莉に似ていると。 そして、私の目元に何度も口づけては、優しい声で「愛ちゃん」と呼んだ。 あれは私を愛していたからではない。私の中に愛莉の面影を重ねていたにすぎなかった。 私は、ただの身代わりだった。 思えば、初めて彼の絵を見たときから、細かな違和感には気づいていた。 『最愛』シリーズは、私のために描かれたものだと思っていたが、違った。 私は3年も和哉を追いかけ続けて、ようやく彼に受け入れてもらった。それも、私が一方的に想いを注ぎ続けた末のこと。 そんなふうにして手に入れた関係を、和哉にとっての「最愛」だと思うほうが、どうかしていた。 絵の中の少女も、私に似ていたのは目元だけだった。 それ以外は――最初から、愛莉を描いたものだったのだ。 紫色も、愛莉が一番好きな色。 そして、背景に咲き誇っているバイオレット。 花言葉は、「永遠の愛」。 和哉は、絵を通して愛莉に想いを伝えていたのだ。 私のために描いたのだと思っていた『最愛』の絵は、本当はずっと、愛莉だけに捧げられていたものだ。 それなのに私は、恋に目が眩んでいた。絵の隅に「最愛の愛ちゃんへ」と書かれているのを見るたび、そこに込められた想いまで、自分に向けられたものだと信じていた。 10年間、ずっと。 私は、愛してさえいれば、いつか愛されるのだと思っていた。 10年も尽くせば、どんなに冷たい心だって、少しは温まるのかもしれない。 そう思っていたが、違っていた。 不思議なことに、真実を知った瞬間、私は思っていたほど取り乱さなかった。 もしかすると私は、心のどこかでずっと分かっていたのかもしれない。 いつか、こうなる日が来ることを。 私は離婚協議書を手に取り、ざっと目を通した。 和哉は、結婚後に築いた共有財産をすべて放棄するつもりらしい。家も、車も、会社の株も、現金も。 何も持っていかず、絵を売って得たお金と、いくつかの作品だけを手元に残した。 そして、1枚の絵だけは私に残していった。その横には、短いメモが添えられている。 【『最愛』シリーズは、もう描かない。この1枚は君に残す。市場価値は少なくとも6億はある。これは君への償いだ。どうか恨まないでくれ。僕は、どうしても彼女を忘れられないんだ】 私は、思わず笑った。胸の奥から、痛みがじわりと滲み出してくる。気づけば、大粒の涙が次から次へと頬を伝っていた。 絵のタイトルは――『償い』。 和哉は、この1枚の絵で、私を愛さなかったことを「償う」つもりなのだ。 けれど、和哉は知らない。そもそも彼には、画家としての才能なんてなかった。 私が作品を売るための仕組みを作り、宣伝し、世に送り出したからこそ、彼の絵には価値がついた。 私がいなければ――あんなものは、ただの紙切れだ。 私はもう一度、和哉から届いたメッセージを読んだ。 短く、簡潔だった。 そこには、迷いも、ためらいも、別れを惜しむ気配もない。 7年間共に暮らした妻を、和哉は、飲み終えた缶をゴミ箱へ放り込むように、あっさりと手放した。 今まで、和哉は毎日のように、私を「愛ちゃん」と呼んでいた。 本当に愛莉が帰ってきた今、和哉が私に残したのは、離婚を告げる冷たい言葉だけ。 愛莉という「本物」が戻ってきた瞬間、身代わりだった私には、もう何の価値も残っていなかったのだ。 私は離婚協議書を放り出し、一人でダイニングへ向かった。 テーブルの上には、私が手作りしたケーキと、まだ火のついていないキャンドルが並んでいる。 まるで、今の私を笑っているかのようだった。 ふと、自分の手に残る火傷の痕へ目を落とす。私は自嘲するように、かすかに笑った。 お菓子作りを覚えるために、何度も失敗した。熱い天板に触れてしまって、手を火傷したことも一度や二度ではない。 かつては白く滑らかだった手も、今では傷跡が残り、細かな皺が増え、家事に追われて少し荒れている。 和哉は、私の作る料理が好きだった。 だから結婚してから7年間、どれだけ会社の仕事が忙しくても、私は決まって家に帰り、彼のために夕食を作った。 雨の日も、雪の日も。 けれど、和哉は知らない。彼と出会う前の私は、京山市の名家・石川(いしかわ)家のお嬢様だった。幼い頃から何人もの使用人に囲まれて育ち、自分で家事をすることなどほとんどなかった。 ましてや、こんなふうに料理やお菓子作りのために手を傷つける生活なんて、想像したことさえなかった。 私はケーキを一口食べた。甘いはずのクリームが、なぜかひどく苦く感じられた。 ――そうだったんだ。 最初から最後まで、私は愛されていると思い込んで、彼に尽くしていただけだった。 そのとき、「コンコン」と玄関のドアが叩かれた。 胸が、どくんと跳ねる。 ――和哉が帰ってきたのだろうか。 やっぱり、私を置いていけなかったのだ。 そんな淡い期待が、一瞬だけ胸をよぎった。 けれど、聞こえてきたのは和哉の低く、冷静な声ではない。 苛立ちを隠そうともしない声だった。 「開けてくれ!愛、いるんだろ?」 第3話 幼馴染の竹内透(たけうち とおる)だった。 少し考えてみれば分かることだ。ノックしたのは、和哉のはずがない。 この家で7年も暮らしていたのだ、当然鍵を持っている。 それに――ずっと想い続けていた愛莉が帰国したのだ。そんな和哉が、私に未練を残して帰ってくるわけがない。 また私は、自分に都合のいい夢を見ていただけだった。 私は、ドアの向こうの透を無視した。 すると、スマホが鳴り出す。透からの電話だった。 そういえば、さっきマナーモードにするのを忘れていた。 電話が鳴ったことで、私が中にいると分かったのだろう。 ドンドン―― ドアを叩く音が、さらに激しくなる。 「愛!いい加減開けろ!開けないなら、鍵を壊すぞ!」 私は思わず呆れた。 ――いかにも透がやりそうなことだ。 昔から短気で、考えるより先に身体が動く。 そして、身体だけは無駄に頑丈で、頭の中は単純。 学生の頃から、いわゆる学校の番長みたいな存在だった。 短気で無鉄砲。 そんな幼なじみなのだ。 ドアが丈夫じゃなければ、とっくに蹴破っているかもしれない。 仕方なく、私は重い身体を起こして玄関へ向かった。 鍵を開けた途端、透が勢いよく中へ飛び込んできた。その大きな手が私の肩を掴み、目には、怒りの炎が燃えている。 「和哉がSNSに載せてた写真だけど、あれはどういうことだ?」 私は力なく笑った。 「……写真って?」 「は?」透が目を見開く。「和哉と岩崎愛莉が、恋人の聖地って言われてるあの山頂でキスしてる写真だ。見てないのか?」 私は首を横に振った。声が、自分でも驚くほど弱々しかった。 「……見てない。和哉に、とっくにブロックされてると思うから」 透は一瞬、言葉を失った。まるで信じられないという顔で、私のスマホをひったくる。 和哉のプロフィールを開くと、そこに「投稿がありません」とだけ表示された。 透の顔が、一気に険しくなる。 怒りに任せて、私のスマホを床へ叩きつけた。 画面が一瞬で蜘蛛の巣のようにひび割れる。 私は、そんな透をぼんやりと見つめていた。もう、怒る気力すら残っていなかった。 透は、呆れ果てたように私を見た。 「この1ヶ月、和哉は毎日SNSに惚気話をのせてたんだぞ。俺はてっきり、お前たちが幸せにやってるんだと思ってた。まさか全部、あの女に見せるためだったとはな!」 透は私を睨みつける。「和哉が浮気してるっていうのに、お前、それでも黙って耐えるのか?」 私は力なく頷いた。「……もう、どうでもいいよ。私たち、離婚するから」 その言葉を聞いて、透はようやくテーブルの上に置かれた離婚協議書に気づいた。 大股で歩み寄り、それを手に取る。 ざっと目を通した途端、透の顔色が変わった。 「愛、お前……本気でどうかしてるぞ!」 離婚協議書を握りしめたまま、透は声を荒らげる。 「和哉のために家族とまで揉めて、勘当同然になって、金も援助も全部なくなっただろ?それでも自分で這い上がって、空海市でも指折りのギャラリーを作った。それだけじゃない。お前は自分の人脈を全部使って、あいつを今の地位まで押し上げたんだぞ!お前がいなかったら、あんなやつが何をもって『注目の若手画家』なんて呼ばれてたんだよ! それなのに、あいつはよくもまあ、絵を1枚だけ残して『償い』だなんて言えたな。お前の力がなきゃ、あいつの絵なんて金になるどころか、ただの紙切れになってたんだぞ!」 そう言って、和哉が残していった『償い』を手に取ると、床へ放り投げ、そのまま靴で踏みつけた。 「透、やめて!」私は思わず声を上げた。 透は信じられないという顔で私を見る。「何を言ってるんだ?あいつが何をしたのか、まだ分からないのか?浮気して、お前を傷つけたんだぞ!俺はお前のために怒ってるのに、『やめろ』って言うのか? 愛、お前、昔から何をやらせても一番だった。なのに……和哉と付き合い始めてから、誇りも、尊厳も全部捨てたのか?」 私は、もう言い返す気力もなかった。「……透。もう帰って。今は、一人にしてほしい」 透はそれでも納得できないのか、やがて吐き捨てるように言う。 「あいつ、お前を利用するだけ利用して、金も名声も手に入れたと思えば、何食わぬ顔で出ていったんだぞ。それでも……何もしないのか?」 私は答えなかった。 和哉の冷たい態度と、愛莉に向ける惜しみない優しさ。その差を思い浮かべた瞬間、耳の奥で何かがざわざわと鳴った。 自分の声さえ、どこか遠くから聞こえてくるようだ。 「……和哉が好きなのは、最初から私じゃなかった。そんな彼を無理やり引き止めても、意味がない。もう、好きにすればいい」 透は複雑そうな目で、しばらく私を見つめていた。そして、諦めたように肩を落とす。 「……恋愛体質の人って、ほんとどうしようもないな。もういい。俺は知らん」 そう言い残して、透は部屋を出ていった。 透が帰ったあと、私は床に落ちた『償い』を拾い上げた。 ティッシュを手に取り、絵についてしまった靴跡を、丁寧に拭っていく。 画面に描かれているのは、湖畔に立つ1人の少女。 白いワンピースを着ている彼女は、どこか冷たく、孤独な雰囲気をまといながら、それでも決して折れない芯の強さが滲んでいる。 ――これが、本当の私だ。 男の庇護欲を掻き立てるような、儚い存在などではない。 目を閉じる。部屋の中に残る、和哉の気配を探す。 けれど、感じれば感じるほど、胸が締めつけられた。まるで巨大な岩に心臓ごと押し潰されるようで、息ができない。 10年かけて愛してきた人が、結局は別の女性を選んで、私のもとを去っていった。 腹の奥が、突然きりきりと痛み始めた。けれど、スマホを手に取る力さえ残っておらず、救急車を呼ぶことすらできなかった。 視界がゆっくりと暗くなっていく。 そのまま、私は意識を失った。 …… 次に目を開けたとき、私は病院のベッドにいた。傍らにいたのは、入社してまだ1年あまりの新人アシスタント――田中沙耶香(たなか さやか)だった。 彼女の目は真っ赤に腫れている。泣いていたのだろう。 私が目を覚ましたことに気づくと、沙耶香は慌てて水を口元へ運んでくれた。 「……どうして、ここにいるの?」 私は掠れた声で尋ねた。 私は自宅で一人、倒れたはずだった。誰かに助けを求めた覚えもない。 今日は休みを取ってある。それなのに、どうして沙耶香が私の倒れたことを知っているのだろう。 「私……その、ネットでいろいろ噂になってるのを見て、心配になって……それで、マンションまで様子を見に行ったんです。でも、何度ノックしても愛さんが出てこないから……それで、警察に連絡しました」 「……そうだったの」 ようやく事情が分かった。 たった1年ほどしか一緒に働いていない沙耶香でさえ、私のことを心配してくれた。 それなのに―― 10年間、愛し続けた和哉は、私が生きているかどうかさえ気に留めず、少しの迷いもなく私を捨てていった。 私は、力なく笑った。 ……本当に、馬鹿だった。 沙耶香から事情を聞くまで、私はまだどこかで、子どもじみた期待を捨てきれずにいた。 もしかしたら――和哉が沙耶香に連絡して、私の様子を見に行くよう頼んだのではないか。 けれど、それはただの思い込みだった。 水を飲み終えると、沙耶香はコップを置き、頬を膨らませた。 「愛さん、和哉さん、本当にひどすぎます!あんな人、絶対に許しちゃ駄目です!」 私は、沙耶香が何を言いたいのか分かっていた。 和哉が今の地位を築けたのは、私が持っていた人脈や仕事上の繋がりがあったからだ。この業界での私の立場は、若手画家として注目され始めたばかりの和哉より、ずっと安定している。 和哉が愛莉との写真をSNSにあげたのは、私に離婚を切り出した後だった。 妻と円満に別れ、その後、かつての恋人と再会し、再び結ばれた――そんな筋書きにしたかったのだろう。 けれど、もし私が和哉の浮気を公にすれば、話が変わる。 既婚者でありながら愛莉と関係を持っていた事実を明かせば、彼の評判は一気に地に落ちる。これまで築いてきた名声だって、失うことになるだろう。 それでも、私は首を横に振った。 10年間、好きだった人だ。こんな醜い終わり方にはしたくない。 それに―― 和哉は、愛莉を愛しているということを、隠したわけではない。 ただ、私が勝手に期待していただけ。 私が報復するつもりがないと分かると、沙耶香は悔しそうに唇を噛んだ。 けれど、すぐに気持ちを切り替えるように言った。 「先生は、もう大丈夫だって。ちょっと強いショックを受けただけだから、しばらく休めば回復するって言ってました。 それから、ずっと何も食べてなかったから低血糖もあったみたいです。私、何か食べるもの買ってきますね」 そう言って、沙耶香は立ち上がった。 一人になると、どうにも落ち着かなかった。ベッドに横になっているのも嫌になり、私は少し歩こうと病室を出た。 そして―― 廊下へ出たところで、思いがけない人の姿が目に入った。 和哉と、彼に身体を支えられながら歩く愛莉。 2人は連れ立って、診察室へ向かっていた。 第4話 7年ぶりに会う愛莉は、昔と何ひとつ変わっていなかった。 黒く長いストレートの髪をさらりと下ろし、白いワンピースを身にまとっている。細い腰は、両手で包めそうなほどだった。 手のひらに収まるような小さな顔は、紙のように白い。大きな瞳にはうっすらと涙が滲み、今にも泣き出しそうな、儚げな表情を浮かべている。 昔も、今も変わらない。愛莉はいつだって、人の保護欲を掻き立てるような女の子だった。 その隣で、和哉が彼女の身体を支えている。まるで壊れ物でも扱うように、そっと、慎重に。 いつも冷たく、何を考えているのか分からないほど黒々とした瞳には、今まで私に向けられたことのないほどの優しさが浮かんでいた。 彼はただ、ひたむきに愛莉を見つめている。ほんの一瞬でも目を離したら、またどこかへ消えてしまうのではないか――そんなふうに思っているようだった。 整った唇の端には、かすかな笑みが浮かんでいる。その顔にあるのは、安堵と幸福。 まるで、失ったものをようやく取り戻したかのような顔だった。 そして、二度と手に入らないと思っていた宝物を、今度こそ失わないように、大切に、大切に抱えている。 和哉を3年追いかけて、7年も一緒に暮らした私を見る時、和哉の目に、こんな光が宿ったことは一度もなかった。 ――そういうことだったんだ。 本当に誰かを愛しているなら、何も言わなくても、想いは目に出る。 「愛ちゃん、足元に気をつけてね」 和哉が低い声でそう言った。 聞いたこともないほど、優しい声だった。 その呼び方を聞いた瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。 ……そうだ。 「愛ちゃん」という愛称は、もともと愛莉のものだった。 あんなふうに愛らしく、儚げな女の子だからこそ、この愛称がついたのだ。 私は昔から気が強くて、友人たちもほとんどが私を名前で呼んだ。家族からもそうだった。 「愛ちゃん」と呼ぶ人なんて、誰もいなかった。 ……ただ和哉を除いては。 いや、違う。 和哉が呼んでいたのは、私ではなかった。7年もの間、彼がずっと忘れられなかった人――愛莉を、呼んでいたんだ。 そのとき、和哉が壁際に立つ私に気づいた。整った顔に、はっきりと驚きが浮かぶ。 「……どうしてここに?」 やっぱり。 彼の大切な人が戻ってきた今、身代わりだった私には、もう用がないのだ。 私に話しかける声までも、まるで赤の他人に向けるように冷たかった。 胸の奥を、鋭い痛みが貫く。足元がふらつき、立っていることさえ難しくなりそうだった。 ――10年間も和哉を愛したのは、いったい意味があったのだろうか。 目の奥が熱くなる。涙がこぼれそうになった。けれど、泣くわけにはいかない。 負けたくなかった。こんなところで、私の傷ついた顔を和哉に見られるなんて、絶対に嫌だった。 私は顔を上げ、目を大きく見開いた。込み上げてくる涙を、必死に押し戻す。 そして、何でもないことのように笑った。 「朝、食事を抜いちゃって。低血糖を起こしたみたい。沙耶香が心配して、病院まで連れてきてくれた」 「……そう」 和哉は、それしか言わなかった。 私に対してはいつもそう。必要最低限の言葉しか口にしない。 体調を気遣う言葉ひとつさえ、かけてくれない。 それが、急に悔しくなった。私は笑顔を崩さないまま、尋ねた。 「和哉は?どうして病院に?」 和哉の視線が愛莉へ向く。 さっきまでの冷たさが嘘のように消え、瞳いっぱいに柔らかな光が宿った。 「愛ちゃんの付き添い。体調がよくないから、定期的に診てもらってるんだ」 愛莉が、ふっと身体を揺らした。そして、まるで狙ったように和哉の胸元へ倒れ込む。 「愛ちゃん、大丈夫?どこか具合が悪いのか?」 和哉の顔色が変わった。 「うん……ちょっと、眩暈がして……」愛莉は弱々しく答える。 その声を聞いた途端、和哉は彼女の手を握った。その声音には、隠しきれないほどの心配が滲んでいた。 「もう少し頑張ろう、すぐ順番が来るから。先生にも話を通してある。市内でも一番評判のいい先生に診てもらえるように、予約を取ったから」 私の心が、底の見えない暗い海に、ゆっくりと沈んでいくようだった。 ――和哉。 あなたが今持っている人脈も、仕事のつながりも、全部私が与えたということを、もう忘れたの? その人脈を使って、今度は愛莉のために奔走するの? あなたに渡された離婚届に、私はまだ署名をしていない。 戸籍上では、私たちは今も夫婦なのに。 それなのに―― 私の目の前で、平然と別の女を抱き寄せるの? 私の前では、いつだって孤高で、冷たく、誰にも媚びなかった和哉。 その男が今は、愛莉のためならと、必死に言葉を尽くしている。 まるで女神に仕える、敬虔な信徒のように。 胸の奥で、何かが崩れ落ちた。耳を塞ぎたくなるほどの轟音が、頭の中を揺さぶる。 また頭がずきずきと痛み始めた。 私はまともに立つことさえできず、壁に身体を預ける。込み上げてくる痛みに耐えながら、必死に倒れないよう踏ん張った。 そんな私の異変に、愛莉が気づいたらしい。 「和哉、愛さんの様子を見てあげて。少し具合が悪そうだから」 けれど、和哉は笑みを浮かべたまま、何でもないことのように答えた。「大丈夫だよ。低血糖なんて、いつものことだから。彼女は仕事してると、よくそうなるんだ。糖分を摂ればすぐ治るさ」 ――おかしい。 思わず笑いそうになった。 和哉、あなたも知っていたんだね。私が昔から低血糖を起こしていたことを。 じゃあ、どうして私が倒れるほど働いていたのか――その理由を知ってる? 食事を抜いて、睡眠を削って。自分の身体を後回しにして働き続けたからこそ、今のギャラリーを築けた。 あなたが家で絵を描き続けられるように、私が外を走り回って、仕事を取ってきた。 それなのに――あなたは、「いつものこと」の一言で片づけた。 「和哉、そんなこと言ったら、愛さんが気を悪くするよ」 愛莉が、また心配そうな声を出した。 和哉はようやく私を見る。けれど、その顔には罪悪感がなかった。 「大丈夫。もう彼女にはちゃんと話してあるから。僕のことをわかってくれているし、怒ったりはしないさ」 胸の奥が、また鋭く痛んだ。 ――和哉。あなたは、ただ愛莉のそばに戻るためだけに、私に離婚を切り出しても、私がすんなり受け入ると思っているようだけど…… どうやら、私はあなたを、甘やかしすぎたのかもしれない。 私が何も言わずにいると、和哉はまるで言い訳でもするように、付け足した。 「……愛ちゃんは身体が弱いんだ、もう行っていいか?」 身体が弱い。 ――じゃあ、私は?私の身体は、丈夫だったというの? 和哉が家で絵に集中できるように、私はずっと外を駆け回っていた。仕事から帰れば、疲れ切った身体を引きずって食事を作り、片づけをする。 会社の仕事が立て込めば、夜通しパソコンに向かった。 そうやって何年も無理を重ねてきたせいで、身体には少しずつ不調が積み重なっていた。 和哉の仕事につながる話を得るために、名のある人たちとの席にも何度も顔を出した。 胃が出血するほど酒を飲んだことだってある。 そして、今の私は、和哉の子を身ごもっている。 それでも、和哉は私のことを少しも気にかけてくれなかった。 怒りで、身体が震えた。ぶかぶかの病衣では隠しきれないほどに。 けれど、和哉は気づかなかった。彼の目に映っているのは、少年の頃からずっと心の奥にしまい続けていた、愛莉だけだった。 愛莉が小さく咳き込む。それだけで、和哉はすぐに彼女へ顔を向けた。 「ここで待ってて。温かい飲み物、何かもらってくるから」 そう言うと、和哉は足早にその場を離れていった。 彼の姿が2階の廊下の角に消えると、愛莉は、さっきまで浮かべていた儚げな表情をすっと消した。代わりに、勝ち誇ったような笑みが唇に浮かぶ。 憐れむような目で私を見つめながら、声には隠しきれない蔑みが滲んでいた。 「あなたたち、まだ離婚してないでしょうけど、和哉は私のものよ。あなたなんかに、彼を奪えると思わないで」 私は冷たく彼女を見返した。 身体にはまだ力が入らず、声も弱々しい。それでも、言い返さずにはいられなかった。 「愛莉、勘違いしないで。7年前、和哉を裏切って、別の男と海外へ行ったのはあなたでしょう。私はそのあと和哉と結婚して、7年間夫婦として暮らしてきた。今だって、戸籍上ではまだ夫婦だよ。それなのに、私があなたから和哉を奪うって……どういう理屈なの?」 愛莉は、ふっと唇の端を上げた。その笑顔は、ぞっとするほど美しかった。 「ふふ、理屈なんてどうでもいいよ。私に裏切られたとしても、和哉はずっと私を好きでいてくれた。あなたは10年も彼を追いかけて、何でも言うことを聞いて、彼のために尽くしてきたのに、愛してもらえなかった。そんな自分が、惨めだとは思わないの?」 和哉の心に、私の居場所がなかったことくらい知っている。 それでも―― その言葉を、愛莉の口から聞かされるのだけは耐えられなかった。 「もう和哉と離婚するって決めた。それで十分でしょう?」 愛莉は耳元に落ちた髪を細い指で払い、くすりと笑った。その瞳が、いっそう鮮やかに輝く。 改めて見ると、彼女は本当に綺麗な人だ。 儚げに伏せた睫毛も、かすかに震える唇も、男の庇護欲を掻き立てる術を知り尽くしているようだった。 けれど、よく見れば―― その顔には、精巧な「病人」のメイクが施されていた。肌も唇も、不自然なほど血色が薄い。化粧品で意図的に青白く見せているのだ。 少しでも弱々しく、守ってあげなければならない女に見えるように。 愛莉は私のすぐそばまで歩み寄った。そして、声を潜める。 「私、すごく元気だし、病気にもかかってない。でも和哉には、もう長くないって嘘をついたの。私が余命いくばくもないと聞いたら、彼はすぐあなたを捨てて、私のところへ戻ってきたの」 「……どうして、そんなことをするの?和哉があなたのことがずっと好きだったって、よく分かってるでしょう?あなたが呼べば、和哉はきっとどこにいたって戻ってくる。どうしてわざわざ嘘までつく必要があったの?」 自分でも驚くほど、声には悲しみが滲んでいた。 私は、和哉を心から愛していた。10年間、ずっと。 最後の最後で私を選ばなかったとしても、彼が生涯で一番愛した人に騙されるのだけは、どうしても見過ごせなかった。 愛莉のやり方は、もっと理解できなかった。 彼女が「来て」と言えば、和哉は迷うことなくついていく。 それほどまでに愛されているのなら、どうしてわざわざ手の込んだ嘘までつく必要があるのだろう。 「ふふ」愛莉が笑った。 その瞳は星のようにきらめき、笑顔は朝露をまとったクチナシの花のように、清らかで可憐だった。 彼女は一言ずつ、噛みしめるように言う。 「あなたに仕返しをするためよ。7年も和哉を独り占めして、そのうえ子どもまで使って彼を縛ろうとするなんて。そんなあなたを、私が簡単に許すと思う? お腹の子が生まれたときには、もう父親がそばにいない。そんな子にするか――それとも、その子を諦めて、自分の手で殺すか。どちらを選んでも、あなたは苦しむことになるでしょ?」 「愛莉……私のことを調べたの?嘘をついてまで、和哉に離婚して欲しいって?私は、あなたに恨まれるようなことを何もしてなかったのに、どうしてこんなことができるの……?」 愛莉は笑った。その笑顔は、さっきよりも明るかった。 「どうしても何も、和哉は私のものだから。たとえ私が彼をいらないと思ったとしても、彼の心は私だけのためにあるの。誰にも渡さないわ。 愛さん、あなたには、ちゃんと代償を払ってもらうからね」 「愛莉……本当に、どうかしてる」 私は歯を食いしばった。 こんなにも美しく、弱々しく見える顔の奥に、狡猾で残酷な心が隠れているなんて、信じられなかった。 醜いほどに歪んでいる彼女の顔を見て、私は思わず右手を振り上げた。 頬を叩いてやりたい。 けれど―― その手は、どうしても振り下ろせなかった。 幼い頃から、厳しく教えられてきた。 感情に任せて人を傷つけてはいけない、と。何があっても、自分を律しなさい、と。 もちろん、今だけは思った。 ドラマに出てくる浮気された妻みたいに、愛莉の髪を掴んで、人目のあるところまで引きずっていって、思いきり殴ってやりたい。 けど、身体に染みついた理性が、私を止めた。怒りに任せて喚き散らすような真似だけは、どうしてもできなかった。 ――そのとき。 和哉の姿が、再び角の向こうに現れる。 その瞬間、愛莉が突然、自分の頬を思いきり叩いた。そして、そのまま力が抜けたように床へ倒れ込む。 赤く腫れた頬を押さえながら顔を上げると、涙が溢れた。その瞳には、まるで怯えた子鹿のような無垢な光を宿している。 震える声が、廊下に響いた。 「愛さん、どうして……?そんなに……私のことが嫌いなの?」 第5話 私は、呆然と愛莉を見つめた。 まさか――ここまで露骨に私を陥れたとは。 「愛ちゃん!」 愛莉の涙を見た瞬間、和哉は手にしていた紙コップを放り出した。そして、まるで何かに取り憑かれたように駆け寄り、床に倒れた愛莉を抱き起こす。 荒い息を吐きながら、必死に彼女を胸に抱き込んだ。 「愛ちゃん、大丈夫か?」 愛莉の長い黒髪は乱れ、怯えたように和哉の胸に身を縮めている。 白い頬には何本もの髪が張りつき、その瞳からは涙がぽろぽろと零れ落ちた。 「愛さんが……全部私が悪いって。私、ちゃんと謝ったのに……許してくれなくて。 ごめんなさい。全部、私のせいなの。和哉、愛さんのところに戻ってあげて。私は、和哉が幸せでいてくれれば、それだけでいいから……」 その瞬間、和哉の顔から、最後の理性まで消えた。 右手が上がり、次の瞬間、思いきり頬を打たれた。 私は反射的に顔を背ける。 頬がじんじんと痛む。もともと鈍く疼いていた頭も激しく痛み、今にも割れてしまいそうだった。 けれど――心の痛みに比べれば、そんな身体の痛みなど、どうでもよかった。 私が10年間、すべてを捧げて愛した男。その男が、自分を裏切った女の一言で、私を殴った。 あまりにも馬鹿げていて、現実のこととは思えなかった。 ……いや。 馬鹿げていたのは、和哉じゃない。きっと、私のほうだ。 和哉は怒りに満ちた目で私を睨みつけていた。その目は、生涯の敵とでも見るように冷たかった。 「君が、ここまで話の通じない人間だとは思わなかったよ。愛ちゃんは、がんなんだ。もう長く生きられない。ただ、残された時間を、僕と一緒に過ごしたい。それだけなのに、どうして彼女に手を上げたんだ?」 少し離れたところで、病院のスタッフや患者たちがこちらを振り返っている。 私は、和哉の考えをどうしても理解できなかった。頬を押さえながら、迷わず言い返す。 「和哉……私たち、まだ離婚してないよ。戸籍上は、今も夫婦でしょう?なのに、浮気相手を庇って私に暴力を振るうなんて……私が無実だって信じられないなら、今すぐ防犯カメラを確認してきて」 「そんな必要はない」 和哉の表情は、さらに冷たくなった。 「がんを患っている人間に手を上げた。それが事実だ。今の僕がどれだけ注目されているか、君も知ってるよね。これ以上、愛ちゃんに手を出すなら――君の本性がどれほど腐っているのか、世間に公表してやるよ」 その瞬間、不思議なことに、悲しいとは思わなかった。 ただ、あまりにも可笑しくて、私は、笑ってしまった。 笑いながら、涙が火照る頬を伝って流れ落ちる。 10年―― 10年もあれば、ペットでも、懐いてくれたのだろう。 それなのに、私が10年をかけて支えてきた和哉は、愛莉のたった一言を信じて、私を世間から叩かせようとしている。 私に死んでほしいとでも思っているのだろうか。 泣いているのか笑っているのか分からない私の姿に、和哉もさすがに気味が悪くなったのだろう。それ以上怒鳴りつけることはせず、ただ露骨に嫌そうな顔をして言った。 「愛ちゃん、もう行こう」 和哉は愛莉を支えながら、私の前を通り過ぎていく。 一度も振り返らなかった。 もし、少しでも私を信じてくれていたら。少しでも、私を気にかけてくれていたら。 一度、振り返ってくれさえすれば―― 私の身体が、まるで氷水に浸かったように激しく震えていることに気づいたはずだ。 病衣の裾を伝って、赤い血がぽたぽたと床に落ちていることにも。 けれど、和哉の目には愛莉しか映っていなかった。 やがて、2人の姿が廊下の向こうへ消えた。 その瞬間、私の身体からすべての力が抜けた。 意識が遠のいていく。 視界がぼやける中、最後に見えたのは―― 目を引くような亜麻色の髪。そして、驚きの声。 「愛、どうしたんだ?おい、しっかりしろ!」 身体が、温かくてしっかりした腕に抱き留められる。 その胸元から、懐かしい煙草の匂いがした。 ――透だ。 その匂いに包まれた途端、不思議と身体から力が抜けた。 急に、ひどく疲れた。もう何も考えずに、ゆっくり眠りたい。 そう思ったところで―― 私の意識は、再び闇の中へ沈んでいった。 …… 目を覚ますと、目の前に透の彫りの深い顔があった。 彼は心配そうに私を見つめている。 「起きたか?気分はどうだ?」 私が目を開けたことに気づくと、透はすぐに身を乗り出した。 「透……」私は重い身体を起こし、震える手を伸ばして彼の腕を掴んだ。「……先生は、なんて?」 妊娠していることは、透には言いたくなかった。 昔から、何かと私を妹のように守り、危なっかしいことがあれば真っ先に庇ってくれた幼なじみ。 そんな透は、最初から私と和哉の結婚にいい顔をしていなかった。 和哉が私に離婚届を突きつけ、愛莉との交際を公表したことだけでも、透が怒り狂いそうになったのに、私が和哉の子を身ごもっていること、そのうえ、愛莉の嘘を信じた和哉に殴られたことを知ったら―― 透なら、本当に和哉と愛莉を殺しかねない。 私が何も言わずにいると、透は苛立ったように大きくため息をつき、呆れた顔で目を逸らした。 「隠さなくていい。妊娠してることなら、医者から聞いた。強いショックで感情が激しく揺さぶられたせいで、流産しかけたんだって」 「じゃあ……赤ちゃんは?」私は思わず、透の太い腕を強く掴んだ。 透は苦しそうに息を吐く。その目には、痛いほどの心配が浮かんでいた。 「赤ちゃんは無事だ。ちょうど病院にいて、措置が間に合ったから。じゃないと、赤ちゃんもお前も危なかったんだぞ」 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に重くのしかかっていたものが、ようやく少しだけ軽くなった。 透の腕を握りしめる手を、ゆっくりと解く。 けれど透は、拳を固く握り直した。怒りのあまり、奥歯を噛み締める。 「……あの2人、絶対に許さない」 「透、お願い、変なことしないで……」 まだ身体に力が戻っていない私は、弱々しく制した。 すると透が、怒りを隠そうともせず私を睨んだ。「和哉に裏切られたのに、それでもまだ庇うのか?」 私はゆっくり首を横に振った。「庇ってるんじゃない。和哉がどんな人なのか、もう分かったから。ただ、透まで巻き込まれるのが、嫌なだけ」 私の言葉を聞いて、透の怒りが少しずつ和らいでいく。黒い瞳から荒々しさが消え、代わりに深い悔しさが滲んだ。 透はまた小さく息を吐いた。 「……愛。俺たち、物心つく前からずっと一緒だっただろ。お前は俺にとって妹みたいなものだ。ずっと大事にしてきた。だから……お前がこんな目に遭ってるの、見てられないんだよ」 私は苦笑しながら、そっと目を閉じる。 「透……もう疲れた。少し、休みたい」 透は何も言わなかった。ただしばらく私を見つめてから、静かに病室を出ていった。 扉が閉まる音が響く。 その音を聞いた瞬間、私は涙を流した。 幼い頃から、母に言われていた。 「愛は昔から、気が強くて泣かない子だった」と。 3歳の頃には、7歳の従兄について木に登った。途中で足を滑らせて落ちて、顔中あざだらけになった。手のひらから血が流れていても、私は泣かなかったという。 なのに―― 和哉と出会ってからの私は、どうしてこんなに泣いてばかりなんだろう。 まるで、一生分の涙を全部流してしまったみたいだ。 第6話 お腹の子が無事だと確認してから、私は退院の手続きを済ませた。 沙耶香は唇を噛んだまま、しばらく迷っていたようだが、とうとう意を決したように口を開いた。 「愛さん……和哉さんのこと、もう追及するつもりがないのは分かりました。でも、お腹の子は……産まないほうがいいんじゃないですか?もう離婚するんですよ?一人で自由に生きたっていいじゃないですか。愛さんはこんなに綺麗で、スタイルもよくて、仕事もできるんだから、いくらでもいい人に出会えますよ」 そう言われて、私は小さく笑った。 たしかに、この世の中では、美貌も財力も人脈も、自分の武器になる。武器が揃っている人ほど、相手を選ぶ余裕がある。 私だって、いい武器をいっぱい持っている。それなのに――私が選んだのは、和哉だけだった。 「うん……考えてみるね」 私はそう答えて、沙耶香を安心させるように微笑んだ。 けれど、この子を手放すことは、できそうにない。 和哉との間にできた、最初で最後の子供かもしれないのだ。 昔は、よく夢を見ていた。ギャラリーを軌道に乗せて、和哉を一人前の画家にできたら、少しくらい肩の荷を下ろして、数人子供を産もう。 私たちの子供が少しずつ大きくなっていく姿を眺めて、やがてそれぞれが結婚して、子供を連れて帰ってくる。 そんな未来を、当たり前のように思い描いていた。 けれど――もう、そんな未来は訪れない。 10年も尽くしてきたのに、私に残ったものは、お腹にある小さな命以外、何もなかった。 だから私に、この子を手放せるはずがない。 私はマンションには戻らず、郊外の別荘へ向かった。 静かな場所を好み、創作に没頭する和哉は、市街地の喧騒を嫌っていた。だから私は、彼が絵に集中できるよう、この別荘を買ったのだ。 そのお金は、実家からもらったものではない。自分で投資をして、少しずつ稼いだものだった。 和哉と一緒になると決めたとき、家では大騒ぎになった。石川家の当主である祖父は、庶民の家に生まれた和哉との結婚に激怒した。 「和哉と結婚するなら、石川家の籍から外す」 それが、祖父の出した条件だった。 私はそれでも引かなかった。周囲からどれだけ反対されても、和哉と一緒になることを選び、覚悟を決めて婚姻届を出した。 結果として、祖父の言葉は本気だった。 私は、本当に家から追い出された。 「愛なら、家族のことを一番に考えてくれると思っていた。なのに……はあ、本当に失望したよ」 それが、父から聞いた最後の言葉だった。 家は私への援助をすべて打ち切った。そうすれば私も素直に家に戻り、政略結婚を受け入れると思っていたのだろう。 けれど私は、人に人生を決められるのが嫌だった。謝って家に戻るくらいなら、自分で稼いで生きていく。そう決めて、意地でも一人で生きる道を選んだ。 母はそんな私を心配してくれて、こっそり一軒のギャラリーと、わずかな開業資金を用意してくれた。仕事につながる人脈も、いくつか紹介してくれた。 その後に手にしたもののほとんどは、自分の目と商才で掴み取ったものだ。 人生で初めて6千万を貯めたとき、私は都心のマンションを買った。そこが、和哉と私の家だった。 そして初めて2億を稼いだときには、郊外の3階建ての別荘を買った。和哉が気に入りそうな家具を選び、部屋を整え、彼専用のアトリエまで作った。 ここなら、誰にも邪魔されず、思う存分絵を描ける。 そう思っていた。 なのに――和哉は、私が買い揃えた画材を使い、私が作ったアトリエで、一枚一枚と、愛莉への想いを描いていた。 目の前にそびえる別荘を見上げながら、私はこれまでの日々を振り返った。 考えれば考えるほど、自分が馬鹿らしくて、笑えてくる。 和哉は、一度でも私を愛してくれたのだろうか。 ――その答え、とっくに分かっていた。 それでも私は、どこかで期待していたのだ。ほんの少しでいいから、私のことを好きだと思ってくれたら。少しでも、私がしてきたことに感謝してくれたら。 愛莉を取り戻せなかったとしても、いつか私と2人で、この先の人生を歩んでくれるんじゃないかと。 結局、それは叶わぬ望みだった。 私は別荘の中へ入り、2階へ上がった。けれど、寝室もアトリエも――そこにあったはずのものは、すべて運び出されていた。 和哉は、いつ荷物を運び出したんだろう。 昨夜? ……分からない。 1ヶ月前の朝、目を覚ますとひどい吐き気がした。妊娠かもしれないと思い、慌てて病院へ行った。 検査の結果、妊娠が分かった。それから私は、会社の仕事を少しずつ部下に引き継ぎ、長期休暇を取る準備を始めた。これからは家でゆっくり過ごして、お腹の子のために、体を整えようと思っていたからだ。 この1ヶ月、私は一度もこの別荘に来ていない。 だから、和哉がいつ荷物を運び出したのかは分からない。もしかしたら、ずっと前から準備していたのかもしれない。 愛莉と残りの人生を過ごすつもりで、迷いなど一つもなかったのだろう。 それなのに私は、馬鹿みたいに、和哉との子供を産み、一緒に育てる未来を夢見ていた。 寝室の床には、結婚写真が入った写真立てが転がっていた。 ガラス板は粉々に割れている。 写真の中で、花嫁は満面の笑みを浮かべていた。けれど隣の新郎は、どこか冷めた顔をしている。 まるで、誰かに無理やり結婚させられたかのように。 なんて皮肉なんだろう。 愛莉の隣にいるときの和哉は、あんなにも優しく笑っていた。その目には、隠しきれないほどの愛情が浮かんでいた。 和哉には、ちゃんと愛することができたんだ。ただ、その相手が私ではなかっただけ。 そのとき、ふと思い出した。この別荘には、地下室がある。 そこは和哉が誰にも見せたがらなかった、完全なプライベートスペースだった。 絵を描いていて行き詰まったとき。気分が落ち込んでいるとき。和哉はよくそこへ閉じこもった。一度入ると、何日も姿を見せないことさえあった。 私は金庫から鍵を取り出し、初めて地下室の扉を開けた。 一歩、中へ足を踏み入れた瞬間――すべてが分かった。 ここは、ただのプライベートスペースなんかじゃない。和哉が、愛莉との思い出をしまい込んでいた場所だった。 四方の壁を埋め尽くしていたのは、すべて愛莉の肖像画だった。 泣いている顔。笑っている顔。怒っている顔。恥ずかしそうに頬を染める顔…… どれも、生き生きとしていた。 絵の中の愛莉は、どこまでも優しい眼差しで私を見つめている。その表情を見ているだけで、分かってしまった。 和哉はきっと、この一枚一枚に愛莉への想いを込めていたのだ。彼女が今も自分の隣にいるかのように。7年もの間、一度も離れていなかったかのように。 部屋の隅には、テーブルが置かれていた。 その上に、小さなジュエリーボックスがある。 近づいてみて、私はすぐに気づいた。私たちの結婚指輪を入れていた、あのベルベット張りの箱だ。 けれど、中に収められていたのは――手作りのキーホルダーだった。 私は知っている。 それは、幼い頃の愛莉が和哉に贈ったものだ。 百均の材料を使って作られたキーホルダー。 そんなものを、和哉は20年以上も大切にしまっていた。 一方で、私が何ヶ月分もの給料を貯めて買った結婚指輪は、まるで価値のないもののように、隅へ放り出されている。 箱を手に取ったとき、私はさらに気づいた。 ジュエリーボックスの下に敷かれていたのは――私が和哉に初めて贈ったラブレターだった。 本当に、皮肉な話だ。 せめてもの救いは、私の手紙を破って捨てなかったことだろうか。 最後に残された私の尊厳くらいは、守ってくれたと感謝するべきなのかもしれない。 「君……どうしてここに?」 そのとき、背後から怒気を含んだ声が響いた。振り返ると、地下室の入口に和哉が立っていた。 こちらを睨みつけ、その顔には隠しきれない怒りが浮かんでいる。 奥歯を噛みしめ、胸を激しく上下させていて、今にも怒鳴り出しそうなほどだった。 私はそんな和哉に、ただ淡く笑いかけた。 「どうしてって……ここ、私が買った別荘でしょう?」 その一言が痛いところを突いたのか、和哉の顔が見る見る赤くなる。「……僕に断りもなく、僕の部屋に入るべきじゃないだろ」 私は手にしていた鍵を、和哉の目の前で軽く揺らした。 「あなたにとって、ここは大切な想いを保管する秘密基地なんでしょうけど、私にとってはただの地下室だよ」 そこでわざと一度言葉を切り、壁一面に並ぶ愛莉の肖像画へ視線を向ける。 「壁を塗り直せば……物置くらいには使えるかな」 和哉の拳が、ぎゅっと握り締められた。 「僕のことを何と言おうが勝手だ。だが、愛莉を侮辱するのだけは許さない。愛莉は、世界で一番優しい女性なんだ!」 私は鼻で笑った。 和哉は、愛莉と20年以上の付き合いだ。それなのに――彼女の本性には、少しも気づいていない。 外面だけは綺麗に取り繕いながら、その中身はとっくに腐り果てている。まるで、見た目だけが艶やかな毒リンゴだ。 そんな相手を宝物のように扱うのだから、和哉も大した見る目を持っていない。 私はそのまま和哉の横を通り過ぎ、階段へ向かう。 「待って!」 次の瞬間、和哉が私の腕を掴んだ。

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