第1章
私――河野咲(こうの さき)。
夫の有馬隼也(ありま しゅんや)は、私が嫉妬する姿を見るのが大好きだ。
親友が自分に近づくのを私が気にすればするほど、それだけ自分を愛している証拠だと言う。
だから毎年、結婚記念日になると、隼也は幼なじみの小林夏美(こばやし なつみ)に私の代わりをさせ、数日間だけ「有馬家の奥さん」を演じさせる。
そのうえ友人たちと賭けまでして、私が何日まで耐えられるかを楽しんでいる。
1周年のときは、夏美が私のパジャマを着て、隼也の腕の中に寄り添った写真を撮った。
私は腹を立てて服を取り返すけれど、隼也はそんな私にキスをして、やっぱり俺なしじゃいられないな、と笑った。
2周年のときは、隼也が主寝室を夏美に譲り、私には客室で寝ろと言った。
私は部屋の前で目を赤くした。するとようやく隼也がドアを開けて、「一晩だけ泊めるだけだ」と言った。
去年は、隼也が夏美を連れて実家の食事会に行き、私の席に彼女を座らせた。そのうえ両親が彼女を「お嫁さん」と呼ぶのも、止めようとしなかった。
私がその場を離れようと振り返ったところで、ようやく隼也が私の腕をつかんだ。
「ただの呼び方だろ。そんなことまで気にするのか?」
そして今年は、二人の悪ふざけがさらに度を越している。
夏美はスーツケースを引いて、私たちの家へそのまま乗り込んでくる。そして新しいスペアキーを取り出すと、友人たちが見ている前で私に尋ねる。
「隼也が、7日間だけ私にこの家の奥さんを体験してみろって。咲さん、怒らないよね?」
隼也は夏美の肩を抱き寄せ、期待に満ちた目で私を見ている。
「本当に俺のことを愛してるなら、絶対に嫉妬するはずだ」
みんな、私がこれまでと同じように泣いて騒ぎ出すのを待っている。
そして最後には、隼也が笑いながら「ゲームはここまで」と宣言する――そんな結末を、誰もが疑っていない。
けれど今回は、私は何も言わない。ただ自分の部屋へ戻り、自分の荷物をきれいにまとめる。
出ていく前に、私は結婚指輪と家の鍵を一緒に隼也の手のひらへ置く。
「7日間じゃ短すぎるよ。
この場所は、これからずっと彼女にあげる」
第1話
私が家を出ても、隼也は追いかけてこない。
背後では、友人たちがまだ面白がって騒いでいる。
「今年、咲さんは作戦を変えてきたな」
「隼也、あんまり早く降参するなよ」
隼也は低く笑う。
「こいつが俺を手放せるわけないだろ。
せいぜい3日だ。自分から戻ってくるさ」
その日の夜、隼也は友人たちのグループトークで、また賭けを始める。
隼也は百万円を賭け、私が72時間も耐えられないほうに張った。
私から先に折れさせるため、隼也は正式に夏美の指紋を玄関のスマートロックに登録する。
さらに、「妻のためのスペアキー」として用意していた鍵まで、彼女に渡す。
夏美は私のスリッパを履き、グループトークに鍵と朝食の写真を投稿する。
添えられた言葉は――【隼也の妻・体験日記、1日目】
友人たちは一斉に盛り上がる。
【今夜は主寝室に挑戦だな】
【奥さん体験なら、奥さんのパジャマも着なきゃだろ?】
隼也は止めるどころか、夏美に返信する。
【パジャマならクローゼットの二段目】
その投稿を見たとき、私は両親が残してくれた小さな家で、荷物を整理している。
何年も誰も住んでいなかった家だ。
窓辺には埃が積もり、水道の蛇口も少し錆びついている。
それでも、ここなら少なくとも、私の居場所をゲームの景品にする人はいない。
1年目。夏美が私のパジャマを着て出てきたとき、私はみんなの前で泣いた。
隼也は私を抱きしめ、長いこと宥めてくれた。
自分のことで私が嫉妬するか、ただ確かめたかっただけだと言った。
そして、こう約束した。「これが最初で最後だ」
けれど今、クローゼットにある私の服は、一着ずつ夏美に試着されている。
しかも彼女はライブ配信まで始めて、友人たちに隼也の妻らしいコーディネートを選ばせている。
私のシルクのナイトドレスを身につけると、カメラの前でくるりと一周する。
「これなんてどう?」
隼也は隣に座ったまま、顔を上げて一目見る。
「こっちのほうが、あいつが着るより可愛いな」
配信の向こうから笑い声が上がる。
誰かが、どうして私は姿を見せないのかと尋ねる。
すると夏美は、すぐに目を潤ませた。
「咲さんって、ほんと冗談が通じないんだから。ちょっとしたゲームなのに。
私はただ、隼也に頼まれて協力してるだけ。まさか本当に怒って出ていくなんて思わなかった。
でも、みんなだって分かってるでしょ。どうせそのうち戻ってくるって」
隼也はティッシュを一枚取って、夏美に差し出す。
そのあと、私にメッセージを送ってくる。
【夫婦生活にも、少しくらい新鮮さは必要だろ。こんな冗談で怒る必要なんてない】
【それでも家出ごっこを続けるつもりなら、自分の荷物も全部持っていけ】
私が戻ると、玄関のスマートロックはもう私の指紋を認識しない。
結局、ドアを開けてくれたのは夏美だった。
私のパジャマを着て、私のスリッパを履いている。
主寝室のベッドも、夏美の好みに合わせてピンクの寝具に変えられている。
私のスキンケア用品は段ボール箱に放り込まれている。
ベッド脇に飾っていたウェディングフォトも外され、壁際に立てかけられている。
写真の中の私は、箱に遮られて顔の半分しか見えない。
隼也はその段ボール箱を私の前へ押し出す。
「咲、そういう焦らして俺の気を引くような真似は、一度しか使えないぞ」
夏美は唇を噛み、小さな声で言う。
「だったら……私、やっぱり客室で寝ようかな」
口ではそう言いながら、本人は主寝室から一歩も動こうとしない。
案の定、隼也は彼女を引き止める。
「妻なら、主寝室で寝るのが普通だろ」
そう言ってから、隼也は私を見る。
その目には、見慣れた笑みが浮かんでいる。
まるで私がベッドを取り返そうと飛びつくのを、あるいは泣きながら「結局、誰を愛してるの?」と問い詰めるのを待っているみたいに。
けれど私は、ただ段ボール箱を抱え上げる。
「ほかに忘れ物はある?」
隼也の口元から、初めて笑みが消える。
数秒、私をじっと見つめてから、冷たい声で言った。
「お前、今回はずいぶん上手に演じるじゃないか。
どこまで我慢できるのか、俺も見ものだな」
私は答えない。
ただ振り返り、静かにドアを閉める。
第2話
体験3日目。有馬家で、家族の食事会が開かれる。
義母から私に住所が送られてきて、有馬家に代々伝わる真珠のブレスレットを持ってくるように言われる。
そのブレスレットは、私が結婚したとき、義母が自分の手で私の腕につけてくれたものだ。
でも私は知っている。義母は昔から、私のことを快く思っていない。
あのとき隼也がどうしても私と結婚すると譲らなかったからこそ、代々嫁に受け継がれてきたこのブレスレットが、私の手に渡っただけだ。
私は、初めて隼也の両親に挨拶した日のことを思い出す。
あの日、有馬家で親族が集まる席の前、義母は私の生まれ育った環境が平凡で、有馬家には釣り合わないと言い放った。
それでも隼也は私の手を握り、静かでありながら一歩も引かない口調で言った。
「咲は俺の大切な人だ。誰と結婚するかは、他の誰かに決めてもらうことじゃない」
けれど今、その場面を思い返すと、ただ皮肉にしか思えない。
私はブレスレットの入った箱を強く握りしめる。
今日、有馬家へ行くついでに、これも返してしまおう。
私が屋敷に着いたときには、すでに夏美が、かつて私が座っていた席に腰を下ろしている。
食卓に、私の席は用意されていない。
使用人は仕方なく椅子を一脚持ってきて、いちばん端に置く。
義母は笑いながら説明する。
「夏美ちゃんがこの数日は隼也のお嫁さんなんだから、家族の食事会だってゲームに合わせないとね。
咲ちゃんも若いんだから、そんなに細かいことを気にしなくてもいいでしょう」
隼也も、夏美の好みに合わせて、料理をすべて作り直すよう厨房に頼んでいる。
私はピーナッツに重いアレルギーがある。
結婚して7年になるのに、隼也の実家の食卓には今でもピーナッツのお菓子が並ぶ。
結婚したばかりの頃は、隼也も「これには気をつけろ」と注意してくれていた。でもいつの頃からか、食事のたびに「自分で避けろ」と言うだけになった。
それなのに、夏美がパクチーを食べられないと知れば、隼也の実家の食卓からは一度もパクチーが出てこない。
スープにほんの少し刻んだパクチーが浮いているだけで、隼也はすぐに使用人を呼び、作り直させる。
「この匂いを嗅ぐと、気持ち悪くなるんだ」
去年の家族の食事会で、初めて夏美が私の席に座った。
私が席を立ってその場を離れると、隼也は追いかけてきて、私を抱きしめた。
席なんて、たいした意味はない。そう言って、こう約束した。
「この席は、ずっとお前のものだ」
なのに今年、私は隼也の隣に座る資格すらない。
家族写真を撮る直前、義母がふいに私の手首を見る。
「そのブレスレット、外してくれる?
ちょっとだけ夏美ちゃんに貸してあげて。写真もそのほうが華やかになるでしょう」
夏美は慌てて手を振る。
「それはちょっと……」
けれど、その手は空中で止まったまま、本気で引っ込める気配はない。
私が何か言うより先に、隼也が私の手を握り、ブレスレットをゆっくり外し始める。
留め具が骨に引っかかり、皮膚が擦れて痛む。
それでも隼也は、私の手首ではなく、ブレスレットに傷がついていないかだけを確認している。
そして、その手で夏美の腕にブレスレットをつける。
「7日後にはちゃんと返す」
「アクセサリーひとつくらいで、そんなに気にするなよ」
写真撮影が始まる。夏美は隼也の隣に立つ。
義父と義母は前列に座っている。
そして私は、一番端に追いやられ、もう少しで写真の外に出てしまいそうな位置に立たされる。
カメラマンが「もう少し皆さん、中央に寄ってください」と声をかける。
すると隼也はわざと夏美の腰に手を回す。
そして、ちらりと私を振り返る。
私が止めるのを待っている。
けれど私は、義母にただ一言告げる。「そのブレスレット、もう返さなくていいです」
義母の顔色がわずかに変わる。
「せっかくの楽しいゲームなのに、どうしてそんな水を差すようなことを言うの?
年長者を困らせるようなことをして……本当に、あなたは何も分かっていないのね」
事情を知らない親戚の一人が、すぐに家族写真を親族グループへ送る。
【今年はようやく全員そろったね】
ほかの親戚たちも次々に、やっぱり夏美ちゃんと隼也はお似合いだと褒めている。
中には、【二人で改めて結婚式を挙げる予定なの?】と尋ねる人までいる。
義母は何も説明しない。
ただ、そのメッセージの下に、ハートのリアクションが一つ付いただけだ。
私は、7年間ずっと入っていた有馬家のグループトークを見つめた。
そして、静かに画面右上のメニューを開き、「グループ退会」をタップした。
すぐに隼也が気づく。
私に一通のメッセージを送ってくる。
【今回はずいぶん本気っぽいな。あと何日、我慢できるか見ものだ】
隼也は知らない。
私は我慢しているんじゃない。
少しずつ、取り戻しているだけだ。
あの家に残してきた、私の痕跡をすべて。
第3話
有馬家の親族グループトークを退会したその夜、私は隼也の会社に退職届を提出する。
会社を立ち上げたばかりの頃、私は最初のメンバーの一人だった。
隼也と一緒に顧客のもとへ足を運び、企画書を作り、何度も徹夜した。
会社が一番苦しかった時期には、何か月もの間、二人でオフィスに泊まり込んで仕事をした。
会社が初めて黒字になった日、隼也は全社員の前でこう言った。
「咲は、ただの俺の妻じゃない。俺と一緒に、どん底からここまで歩いてきた仲間だ」
なのに今、隼也は私の退職届さえ、まだゲームの一部だと思っている。
承認欄に書かれていたのは、たった一言。
【承認。気が済んだら、また戻ってくればいい】
体験5日目。ちょうど会社の創立記念パーティーの日だ。
そして、私が退職手続きを終える最後の日でもある。
私は会社へ行き、入館カードを返却し、担当していたプロジェクトの引き継ぎを済ませる。
エントランスでは、創立記念の映像が流れている。
けれどそこには、私の姿も名前も一つも残っていない。
会社を立ち上げた頃、倉庫で商品を一つずつ梱包していた私。顧客との打ち合わせで胃を痛めるほど酒を飲み、徹夜で企画書を修正していた私。そんな映像は、すべて消されている。
そして最後に流れたのは、夏美が隼也の腕に寄り添っているツーショットだった。
画面には、こんな字幕が出る。【奥様、これまで支えてくれてありがとう】
隼也は知っている。この記念パーティーに、本来招かれていたのが私だったことを。
それなのに、私のために用意されていたドレスを夏美に着せている。
彼女の腕には、隼也の実家に代々伝わる真珠のブレスレット。そのまま隼也の隣でケーキカットをし、グラスを掲げている。
誰かに奥様と呼ばれるたび、夏美は恥ずかしそうに頬を染めて、隼也を見る。
そして隼也は、一度も訂正しない。
「もう5日目だ。ここでやめたら、面白くないだろ」
私はパーティー会場には入らない。
ただオフィスで、最後の引き継ぎだけを済ませる。
会社を出ようとしたとき、創業当初から私たちと一緒に働いてきた古参社員の一人が、私に気づく。
彼はみんなの前で、思わず声を上げる。「奥様!」
そしてステージの上にいる夏美を見て、不思議そうに尋ねる。
「あの人は……誰ですか?」
その瞬間、会場がしんと静まり返る。
そこで初めて、招待客たちは知る。隼也の妻は別の人だということを。
すぐに、あちこちからざわめきが起こる。
「え、奥さんじゃないのに、あのブレスレットをつけてるの?」
「人の家に住み込んで、そのうえ奥さんとして創立記念パーティーに出てるって……それじゃ、まるで不倫相手じゃないか」
けれど、噂が広がりきる前に、誰かが声を潜めて口を挟む。
「お前、新しい奥さんのSNS見てないの?
この女のほうが、いつまでも有馬社長にしがみついて、席を譲ろうとしないらしいぞ。
社長がもう彼女を表舞台に出してるのに、昔一緒に会社を立ち上げたっていう情だけを頼りに、まだ手放さないんだってさ。さすがに見苦しくない?
結局、奥さんっていう立場を手放したくないだけだろ」
そう言いながら、その人はスマホの画面を周りの数人に見せる。
私の目にも、そのSNSの投稿が入ってくる。
動画に映っているのは、泣きながら自分のパジャマを取り返そうとする私。主寝室の前に立ち、目を赤くして夏美に出ていくよう迫る私。そして、隼也の実家の食事会で感情的になり、その場を立ち去る私。
映っているのは、私が騒ぎを起こしている姿ばかりだ。
隼也が「ただのゲームだ」と言っていた場面は、どこにもない。
そのあと毎回、隼也が私を抱きしめて、「本気にするな」と宥めていたことも、もちろん残されていない。
添えられている言葉は、たった一行。
【期限切れの肩書きにしがみついて、いつまでも退場しようとしない人っているよね】
私はその一文をじっと見つめる。
そしてふいに、この3年間に繰り返されてきた「ゲーム」のことを思い出す。
そのたびに、みんなの囃し立てる声の中で泣き崩れた私は、最後には必ず認めさせられていた。
「私が隼也を好きすぎるから、本気にしちゃっただけ」
隼也のスマホには、毎年の賭けの記録まで残っている。
私がいつ泣くか。物を投げるか。そして、夏美に謝るまで何時間かかるか。そんなことまで、全部賭けの対象にされていた。
そして今、この動画を見て、ようやく分かる。
過去3年間に流した私の涙は、ずっと彼らのスマホに保存され、何度も見返され、笑いの種にされていたのだ。
私が何も言えずにいると、隼也がすでに目の前まで来ている。声を落として、私に言う。
「ここまで芝居をしたなら、最後までやり切れよ。
夏美だって俺を手伝ってくれてるんだ。ここであいつの評判を傷つけるわけにはいかない」
私は隼也を見る。そして、ふっと笑う。
「じゃあ、傷つけられるのは私ってこと?」
隼也の眉間に皺が寄る。
「咲、お前、今回はさすがにやりすぎるぞ。
お前がそんなにムキにならなければ、ここまでにはならなかった」
私はもう隼也の言葉を聞かない。ただ入館カードと退職書類を受付に置く。
「引き継ぎは、すべて終わった」
そう言って、隼也の横を通り過ぎ、エレベーターへ向かう。
その冷たい態度に、ついに隼也の顔から余裕が消える。
彼は招待客全員の前で、弁護士を呼ぶ。
「本物の離婚協議書を作ってくれ。
7日目に、こいつを友人全員の前で選ばせる。
こいつがいつまで演じていられるのか、この俺が見届けてやる」
第4話
体験最終日。隼也から、私に家へ戻ってくるよう連絡が入る。
7日間はもう終わった。
鍵も、ブレスレットも、退職証明書も、直接返す。
そして、二人の間にある問題にも、そろそろ正式に決着をつけるべきだ――そう言ってきた。
私はまだドアを開けていない。
けれど、わずかに開いた隙間から、リビングが見える。
そこは、過去に何度も「ゲーム終了」を宣言したときと同じように飾りつけられている。
シャンパン、ケーキ、紙吹雪。何もかも、昔のままだ。
ただ一つ違うのは、壁一面に、過去3年間の私が泣き崩れ、取り乱している写真が飾られていること。
写真の下には、それぞれ賭けの内容まで書かれている。
今回、私が離婚協議書を見てから何分で降参するか。
そんな賭けだ。
夏美はまだ私のパジャマを着たままソファに座り、隼也はその隣に立っている。
誰かが先に、面白がって声を上げる。
「両想いなんだし、どうせ咲さんはまだ来てないんだから、二人で先に話でもしてれば?」
「そうそう。今までだって、あいつは騒いだって最後には必ず折れてきただろ。今さら二人とも取り繕う必要ないって」
「先月の16日、俺、二人が一緒にホテルから出てくるところをこの目で見たぞ」
「首のあたり、キスマークだらけだったじゃん。それでまだただの親友なんて言うつもりか?」
ドアの外に立つ私の指が、一瞬で凍りつく。
先月16日。
あの日、私は胃が痛くて立っていられないほどだった。隼也に三度電話をかけた。
彼は会議中で抜けられないと言った。薬を飲んで、それでも駄目なら自分で病院へ行け、と。
結局そうじゃなかった。
彼は忙しかったんじゃない。夏美とホテルに泊まっていたのだ。
リビングでは、夏美が隼也を見上げる。まるで許しをもらったかのように、彼のネクタイを指に絡め、背伸びをして唇を重ねる。
隼也は、すぐには彼女を押しのけない。
夏美が離れたあと、ようやく眉をひそめる。何かを思い出したように、その声も少し低くなる。
「今回は、咲がさすがにやりすぎた。こういうゲームは、もうやめよう」
その言葉を聞いて、私はただ笑いたくなる。
――ベッドを共にしても、まだ「ゲーム」と呼べるんだ。
私は大きく息を吸い、ドアを開けて中へ入る。
リビングには、さっきまでの騒がしさはもうない。
囃し立てる声も途絶え、ただ、片づけきれなかった親密な空気だけが部屋に残っている。
そして、ローテーブルの中央には、一通の離婚協議書がきちんと置かれている。
隼也の表情には、隠しきれなかったわずかな不安が浮かんでいる。それでも、それ以上に強いのは確信だった。
私が過去3年間と同じように、最後には頭を下げて降参する。そう信じ切っている。
誰かが笑いながら私に声をかける。
「咲さん、一昨年は偽物の離婚届を見せられただけで、名前すら最後まで書けないくらい泣いてたよな。
今回は紙を涙で濡らすなよ」
夏美も小さな声で私を諭す。
「本気にしないで。隼也はただ、咲さんがまだ自分を愛してるって確かめたいだけだから」
隼也はソファにもたれ、確信に満ちた口調で言う。
「お前が嫉妬したって認めて、夏美に謝って、結婚指輪をもう一度つけてくれればいい。そうしたら、この協議書はその場で破棄する」
私は書類を開く。財産分与、所有する不動産、婚姻に関する情報――そのすべてが正式な内容になっている。
弁護士の印鑑も、はっきり押されている。
私に信じさせるために、隼也は本当に法的に有効な離婚協議書を用意している。
それでも彼は、私が署名する覚悟などあるはずがないと思っている。
友人には、私の顔がよく映るようカメラを向けさせている。
四度目の私の崩れ落ちる姿を、記録するつもりなのだ。
カウントダウンが終わる直前、私はペンを手に取る。
隼也の口元には、すでに笑みが浮かんでいる。
きっと、一昨年と同じだと思っている。
ペンを握りしめ、泣きながら「本当に私と別れたいの?」と尋ねる――そうなると思っている。
けれど私は、言い争わない。涙も流さない。
ただ協議書の最後に、一文字ずつ、ゆっくりと自分の名前を書き記す。
その瞬間、リビングに響いていた笑い声が、ぴたりと止まった。