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私の肝臓で生きるあなたへ、さよなら
私は米沢優衣(よねざわ ゆい)。 夫の米沢准(よねざわ じゅん)の初恋の人、神崎明里(かんざき あかり)が帰国したその日、私は息子の米沢翔太(よねざわ しょうた)を連れ、遠く離れた故郷へ向かうことにした。 それを最後に、私は彼の世界から姿を消した。 かつて窮地に陥っていた私を救ってくれた恩に報いるため、私は自分の肝臓の半分を彼に提供した。 けれど彼は感謝するどころか、それすらも私が彼と結婚するために仕組んだことだと思っていた。 私さえいなければ、ずっと忘れられずにいる初恋の人と結婚していたはずだと、彼は何度も口にしていた。 そして今、彼がずっと想い続けてきた明里が帰ってきた。 だから私も、彼のもとを離れることにした。
チャプター (1)
第1章
私は米沢優衣(よねざわ ゆい)。
夫の米沢准(よねざわ じゅん)の初恋の人、神崎明里(かんざき あかり)が帰国したその日、私は息子の米沢翔太(よねざわ しょうた)を連れ、遠く離れた故郷へ向かうことにした。
それを最後に、私は彼の世界から姿を消した。
かつて窮地に陥っていた私を救ってくれた恩に報いるため、私は自分の肝臓の半分を彼に提供した。
けれど彼は感謝するどころか、それすらも私が彼と結婚するために仕組んだことだと思っていた。
私さえいなければ、ずっと忘れられずにいる初恋の人と結婚していたはずだと、彼は何度も口にしていた。
そして今、彼がずっと想い続けてきた明里が帰ってきた。
だから私も、彼のもとを離れることにした。
第1話
今日は私の誕生日だった。
幼稚園に通い始めたばかりの翔太が、うれしそうにプレゼントを差し出してくれた。
幼稚園のお絵描きの時間に、一生懸命描いてくれた1枚の絵だった。
絵には、私と翔太、それから准の3人が描かれていた。
明るい日差しが降り注ぐ芝生の上で、3人は手をつなぎ、花がほころぶような笑顔を浮かべていた。
「ママ、パパ今日いつ帰ってくるの?」
翔太が期待に満ちた顔で私を見上げた。
私は返事ができなかった。
そういえば、准はもう3か月近く家に帰ってきていなかった。
今日が私の誕生日だということも、きっととっくに忘れていたのだろう。
「翔太、パパに会いたい?」
しょんぼりした翔太を抱き上げ、そっと頭を撫でた。
「会いたい!」
まだ幼い翔太は、自分の気持ちを隠すことも知らず、大きな目を輝かせて私を見つめた。
「じゃあ、ママが今から寝かしつけてあげるね。起きたら、パパに会えるよ!」
そう言ってはみたものの、准がいつ帰ってくるのかは、私にもわからなかった。
ただ、今どこにいるのかだけは、だいたい見当がついていた。
「うん!」
翔太はうれしそうにベッドに上がると、枕に頭をのせ、ぎゅっと目を閉じた。
翔太が眠ったのを見届けてから、私は家を出た。
生体肝移植のドナー手術の後遺症で、今も体は思うように動かなかった。
胸の痛みをこらえ、足を引きずるようにして、准がいるはずの場所へ向かった。
案の定、馴染みの店に着くと、個室の中から准の声が聞こえてきた。
「明里が帰ってきた。なら、もう離婚するしかない。一度は自分の気持ちを押し殺したんだ。もうこれ以上、我慢する気はない」
その声に、迷いは少しもなかった。
それを聞いて、私は思わず小さく笑った。
あの夜の過ちで私が准の子を身ごもらなければ、彼が私と結婚することなどなかった。
私との結婚さえなければ、明里も彼のもとを去らず、何年も姿を消すことはなかっただろう。
思えば、私たちの結婚は、最初から冗談みたいなものだった。
結婚して3年になるというのに、私も翔太も、准と顔を合わせたのは数えるほどしかなかった。
家に帰ってこないこと自体が、私に対する彼なりの意思表示だった。
翔太が生まれたときでさえ、准は顔を見せなかった。
准は翔太を憎んでいた。
翔太さえいなければ、明里が怒って自分のもとを去ることもなかった――准はそう思っていたのだ。
そんなことを考えていると、個室の中から別の男の声が聞こえてきた。
「もう結婚して何年も経つんだし、奥さんとの間には翔太だっているんだろ?昔のことは、もう水に流してもいいんじゃないか……」
だが、男が言い終わる前に、准が遮った。
「水に流せるかよ。あの女にまんまと嵌められてできた子なんだぞ。そんな簡単に忘れられるわけないだろ!
肝臓を半分くれて、子供を1人産んだくらいで、何年も米沢家の嫁でいられたんだ。あの女にしちゃ、それだけでも十分すぎるだろ!
明里がまた俺の前に現れたってことは、もう一度やり直す気があるってことだろ。
今度こそ、絶対に後悔はしない」
准はきっぱりと言い切った。
「まあまあ。せっかくみんなで集まったんだし、そんな暗い話はやめようぜ。ほら、飲もう!」
別の男が、場を和ませるように明るい声で割って入った。
ところが、准が酒に手を伸ばしたのを見て、ふと思い出したように尋ねた。
「准、お前、肝移植を受けたんだよな?酒なんか飲んで大丈夫なのか?」
「別にいいだろ。いちいちそんなこと気にしてられるかよ。あの女の肝臓が俺の中にあると思うだけで、吐き気がするんだ」
准は吐き捨てるように言うと、そのままグラスの酒を一口あおった。
「うまいな。やっぱりここの酒はうまい!」
楽しそうな声だったが、私への嫌悪だけは隠しようがなかった。
第2話
振り返れば、私の人生はずっとろくなものじゃなかった。
父は筋金入りのギャンブル狂だった。
子供の頃から、まともに顔を合わせた記憶すらほとんどなかった。
それどころか、借金のかたに私と母を売り飛ばそうとしたことさえあった。
祖母が必死に守ってくれなければ、今頃私は見知らぬ土地で、どんな目に遭っていたか分からない。
そんな父から逃げるため、母は私と祖母を連れて家を出た。
それから母は、たった1人で必死に働き、年老いた祖母と幼い私を養ってくれた。
私が大学1年のとき、ずっと働き詰めだった母はとうとう体を壊し、そのまま亡くなった。
母を亡くした悲しみから立ち直る暇もないうちに、今度は何人もの男たちが家に押しかけてきた。
父がギャンブルで作った借金を取り立てに来たのだ。
大学1年も終わらないうちに、私は2000万円を超える借金まで背負わされることになった。
もう何もかも嫌になって、いっそ死んでしまいたいとさえ思った。
それでも、祖母だけは残していけなかった。
ずっと私を守り、大切にしてくれた祖母を1人きりにするなんて、どうしてもできなかった。
だから私は歯を食いしばって大学に通い続け、授業のない時間はすべてアルバイトにあてた。
そんなある日、バイト先のバーで彼に出会った。
初めて見たときから、ほかの客とはどこか違って見えた。
身なりはきちんとしていて、カウンターに静かに腰を下ろし、私が作ったカクテルをゆっくりと口にしていた。
その落ち着いた仕草に、私は思わず見入ってしまった。
私が見ていることに気づいたのか、彼はふと顔を上げ、カウンター越しにやわらかく笑った。
「ありがとう。このカクテル、すごく気に入ったよ」
その笑顔を向けられた瞬間、胸が高鳴り、ずっと張りつめていた心までふっと軽くなった。
あのとき、私は彼に恋をした。
あとで知ったのだが、准は資産家として知られる米沢家の次男で、しかも同じ大学の先輩だった。
それからというもの、大学ではつい准の姿を探してしまうようになった。
自分が彼に釣り合わないことくらい、よく分かっていた。
それでも、遠くから姿を見られるだけでよかった。
それだけで、疲れ切った心が少しだけ軽くなった。
准も私の視線に気づいていたのか、目が合うと、いつも微笑み返してくれた。
あの頃の私にとって、それが大学での何よりの楽しみだった。
ところが、ある時から、ぱったりと准の姿を見かけなくなった。
何日経っても大学に姿を見せず、私は次第に不安になっていった。
いてもたってもいられなくなり、必死に彼のことを調べた。
そこで初めて、准が生まれつき重い肝臓の病気を抱えていることを知った。
病状はすでにかなり進んでいて、適合するドナーが見つからなければ助からないという。
それを知った私は、その日のバイトを休み、迷わず病院へ向かった。
准のドナーになれないかと申し出て、必要な検査を受けた。
検査の結果、私は准のドナーとして適合していることが分かった。
あのときはただ嬉しかった。けれど、それが本当によかったのかは、自分でも分からなかった。
移植手術は無事に成功した。
あの頃の私は、准を救えたことがただ嬉しくて、自分の肝臓は彼を救うためにあったのかもしれないとさえ思っていた。
米沢家の人たちは、准のドナーになった私に心から感謝してくれた。
どう恩を返せばいいのか考えた末、まず父が作った借金をすべて肩代わりしてくれた。
さらに、私が准に想いを寄せていることを知ると、准に私と結婚するよう迫った。
当時の私は、これでようやく自分も幸せになれるのだと思っていた。
けれど、そのとき初めて知った。
准には、ずっと忘れられない女性がいたのだ。
移植手術からまだ日も浅いある日、准はひどく酒の匂いをさせながら、私の前に現れた。
「米沢さん……まだお酒なんて飲んじゃだめです……」
私が最後まで言い終えるより先に、彼は私を強く押さえつけた。
まるで理性を失った獣のように、准は私の服を乱暴に引き裂いていった。
「俺と結婚して、米沢家の嫁になりたかったんだろ?だったら、望みどおりにしてやるよ」
私は何も言えず、ただ目を閉じた。
頬を伝う涙を感じながら、この結婚を望んだこと自体が間違いだったのだと、ようやく気づいた。
その夜は、果てしなく長く感じられた。
第3話
心も体も疲れ切って、ようやく家に戻ると、翔太はソファに座ったまま私を待っていた。
「ママ、パパ探しに行ってたの?」
私は小さく頷き、翔太の隣に腰を下ろした。
「じゃあ……パパ、もう僕とママ、いらないの……?」
まだ3歳の翔太は、目を真っ赤にしながら必死に涙をこらえていた。
そんな翔太を前に、嘘をつくことも、本当のことを話すこともできなかった。
私はたまらず翔太を強く抱きしめた。こらえていた涙が、一気にあふれた。
「大丈夫。パパがどう思っていても、ママはずっと翔太のそばにいるからね」
健気に涙をこらえる翔太を見ていると、幼い頃の自分を見ているようだった。
「うん。僕、知ってるよ。ママ、僕のこといちばん好きだもん!」
翔太は涙をこぼしながら、それでも一生懸命笑ってみせた。
私は翔太の頬に残った涙をそっと拭い、笑いかけた。
「翔太、ママと一緒に来てくれる?」
母がたった1人で祖母と私を養ってくれたのだから、私にだって翔太を大人になるまで育てていける。
「うん!ママが行くなら、僕もどこにでも行く!」
翔太は大きく頷くと、そのまま私の胸に飛び込んできた。
その小さな体を抱きしめた瞬間、これまでの苦労なんて、もう大したことじゃないと思えた。
あの夜のあと、私は翔太を身ごもった。
子供ができれば、准も少しは私への態度を変えてくれるかもしれない。
あの頃の私は、そんな期待を抱いていた。
けれど、私の妊娠を知った准は、態度を変えるどころか、ほとんど家に帰ってこなくなった。
「これは俺の子じゃない。米沢家に嫁ぐために、お前が仕組んだんだろ!」
そんな言葉を何度も浴びせられながら、私は翔太を産んだ。
翔太は准の実の息子だったのに、「パパ」と呼びたくても、その機会さえほとんどなかった。
そこまで翔太を受け入れられないのなら、私たちはもう離れたほうがいい。
翔太をもう一度寝かしつけたあと、私は結婚したときに持ってきたスーツケースを取り出し、2人分の荷物を詰め始めた。
荷造りをしているうちに、結婚してこの家に来た日のことがふと頭に浮かんだ。
あの日、祖母は私のために選んでくれたスーツケースを軽く叩きながら、笑ってこう言っていた。
「優衣、つらくなったら、いつでも荷物を持って帰っておいで。おばあちゃんはいつでも待ってるからね」
米沢家のような裕福な家に嫁いでも、楽な暮らしにはならないと、祖母はあの頃から分かっていたのかもしれない。
まさか、こんなに早く本当に荷物をまとめて帰ることになるとは思わなかった。
そのとき、玄関のドアが開く音がした。
顔を上げると、険しい表情をした准が入ってきた。
「優衣、お前、さっき俺を探しに店まで来ただろ?」
准は玄関に立ったまま、冷たい目で私を見ていた。
「ええ」
私は隠すことなく頷いた。
「何の用だったんだ?」
そう言いながら、准は荷造りをしていた私の腕をつかんだ。
「翔太があなたに会いたがってたから、時間があるか聞きに行っただけよ」
私は腕をつかんでいた准の手を外し、そのまま荷造りを続けた。
准はスーツケースに目をやり、わずかに眉をひそめた。
「……何で荷物なんかまとめてるんだ?」
「別に。少し整理してるだけよ」
不思議なくらい心は静かで、私はそのまま荷造りを続けた。
准は鼻で笑うと、再び私の腕をつかみ、乱暴に立たせた。
「整理してるだけ?俺がそんな言い訳を信じると思ってるのか?
ちょっと整理するだけで、クローゼットの服を全部スーツケースに詰める奴がいるかよ。
お前……他に男でもできたのか?」