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ガラスの靴を捨てて、走り出す
母の心臓病が再発し、命を救うためのお金が必要だった。 意を決して、10年間ひそかに付き合ってきた、総資産数十億円ともいわれる恋人・清沢研に、お金を貸してほしいと頼みに行くことにした。 しかし、会議室へ足を踏み入れた途端、研は氷のように冷たい視線をこちらへ向け、容赦なく吐き捨てた。 「出ていけ。ここは、お前みたいな平社員が入っていい場所じゃない」 その場で、彼の右腕ともいえる女性秘書・恩田理沙に連れ出され、会議室の外で待つよう告げられた。 待ち続けること、8時間。 その重苦しい沈黙を破ったのは、母の死を知らせる病院からの電話だった。 そこでようやく、私の存在を思い出したのか。理沙に案内され、私は社長室へと通される。 「で?俺に何の用だ」 私の口元に乾いた自嘲の笑みが浮かぶ。 「……別に。少しだけ時間をもらって、別れを告げたかっただけ」
チャプター (1)
第1章
母の心臓病が再発し、命を救うためのお金が必要だった。
意を決して、10年間ひそかに付き合ってきた、総資産数十億円ともいわれる恋人・清沢研に、お金を貸してほしいと頼みに行くことにした。
しかし、会議室へ足を踏み入れた途端、研は氷のように冷たい視線をこちらへ向け、容赦なく吐き捨てた。
「出ていけ。ここは、お前みたいな平社員が入っていい場所じゃない」
その場で、彼の右腕ともいえる女性秘書・恩田理沙に連れ出され、会議室の外で待つよう告げられた。
待ち続けること、8時間。
その重苦しい沈黙を破ったのは、母の死を知らせる病院からの電話だった。
そこでようやく、私の存在を思い出したのか。理沙に案内され、私は社長室へと通される。
「で?俺に何の用だ」
私の口元に乾いた自嘲の笑みが浮かぶ。
「……別に。少しだけ時間をもらって、別れを告げたかっただけ」
第1話
「私、10年間付き合ってきた彼と別れたばかりよ。それでも、本当に私と結婚するつもり?」
向かいの席に座る男は一瞬沈黙し、そして私・江崎心(えざき こころ)を真っすぐ見つめ、静かに言う。「心、俺は10年間、君を待ち続けた」
胸がぎゅっと締め付けられる。「分かった……7日後に結婚しよう」
話がまとまると、バッグを手にカフェを出て、新幹線の駅へ向かう。
母・江崎佳代(えざき かよ)が亡くなってから、3日目だ。
この3日間、声が枯れるほど泣き続けた。母が亡くなったことは、私の周りにいる誰もが知っている。
ただ一人、10年間付き合ってきた恋人・清沢研(きよさわ けん)だけが知らない。
私と研は、互いの友人関係にはほとんど踏み込んでこなかった。
研は私を自分の友人たちに紹介したことはなく、私の友人に会おうとしたことも一度もなかった。
おまけに、研は大企業の社長として多忙を極めている。
1分1秒を争うような生活を送っているから、私のSNSを見るために時間を割くことなどあり得なかった。
母が亡くなったことだけではない。手術費を用意できず、それが原因で亡くなったことさえ、研は知らない。
だから、母の遺骨を納めたその日、私は決めた。研との関係を完全に断ち切り、別の男と結婚する。
どんよりとした空から冷たい雨が降り始める。そんなタイミングで、スマホが鳴った。
メッセージを送ってきたのは、研の秘書・恩田理沙(おんだ りさ)だ。
【江崎さん、明日、社長が出張されます。革靴を2足とスーツを3着、用意しておいてください】
まるで命令のようなメッセージを見つめる。
もう研と別れると決めたはずなのに、なぜか胸が苦しい。
研と付き合った10年間、その大半に理沙の影がつきまとっていた。
甘えるつもりで研にメッセージを送っても、返信してくるのは決まって理沙だった。
【申し訳ありません、江崎さん。社長はただいま会議中です。ご用件は私からお伝えします】
それどころか、避妊具から日々の食材、普段着の購入に至るまで、日常生活のあらゆることを理沙が取り仕切っていた。
それが嫌で、何度も研に不満をぶつけた。しかし、彼はいつも冷ややかな目で私を見下ろすだけだった。
「お前にはセンスも、物を見る目もない。だから能力のある理沙に任せているんだ。いったい何が不満なんだよ」
以前の私は、そんなふうに言われると、何も言い返せなかった。でも今はもう、どうでもいい。
確かに、国内の無名大学出身の私が、海外の有名大学院を修了した理沙に敵うはずがない。
理沙は経験も豊富で、取引先との交渉をこなし、研の身の回りまで抜かりなく管理している。
それに比べて私は、研の会社で10年働いているというのに、いまだに目立たない営業企画部の一社員にすぎない。
思わず鼻で笑ってしまう。研がそこまで理沙を重宝しているのなら、いっそ研を理沙に譲ってしまえばいい。
私はすぐに理沙へ返信した。
【研の荷物をまとめる暇はない。恩田さんが直接うちへ行って、準備してあげたら?】
第2話
理沙からすぐに返信が届いた。【承知しました、江崎さん。社長に伝えておきます】
胸を針で刺されたような痛みが走る。
配車アプリで呼んだタクシーがすぐに来なければ、冷たい雨の中で泣き崩れていたかもしれない。
何を言っても、まるで暖簾に腕押しだ。そんなやりきれない感覚には、とっくにうんざりしていた。
それでも、3時間に及ぶ列車の旅を終え、研の別荘に戻るころには、気持ちも少し落ち着いていた。
玄関を入った瞬間、ソファに座る研の姿が目に入る。
髪は濡れている。胸元の開いたバスローブからは、肌を伝う水滴がいくつも見える。
それは、かつて私が一番好きだった研の姿だった。
無意識に唇を結び、歩み寄ろうとした。
そのとき、バスルームから、甘く艶のある声が聞こえてきた。
「社長、今から髪を乾かしましょうか?」
声とともに、赤いネグリジェ姿の理沙がバスルームから出てくる。
振り向いた私は、理沙と目が合った。
そして、彼女が身に纏っている真紅のネグリジェに気づいた瞬間、皮肉な笑みを抑えきれなくなる。
そのネグリジェは、研が私のために自分で選んでくれた、たった一つのプレゼントだ。
もったいなくて、買ってから1度しか着ていない。
まさか今、それを理沙が着ているとは。
深く息を吸い込む。
「お二人の邪魔をしてごめんなさいね。どうやら、帰るタイミングを間違えたみたい」
そう言って、スーツケースを引き、背を向けて出ていこうとする。
すると、研が突然近づき、怒ったように私の腕をつかんだ。
「また何を騒いでるんだ。俺と理沙は視察の帰りに土砂降りに遭って、ずぶ濡れになったから、ここに戻って着替えただけだ」
本当は、何も言わずに耐えるつもりだった。なにしろ、あと4日もすれば、私は別の男と結婚するからだ。
今回ここへ戻ってきたのも、退職の手続きと、研に別れを告げるためだけだった。
研と理沙が外で何をしていようと、もう私には関係ない。
けれど、まだ別れてもいないのに、かつて自分の居場所だと思っていたこの家で、私のネグリジェを着た女と親密に過ごしていることだけは、どうしても許せなかった。
「じゃあ、彼女の胸元にあるキスマークも、雨のせいだとでも言うの?」
そのネグリジェは肌が透けるほど薄く、胸元や裾も大胆に開いたデザインだ。
だからこそ、薄いレース越しに刻まれたキスマークが、嫌でも目に入ってしまったのだ。
研の表情が、一瞬だけ強張った。
しかし、すかさず理沙が横から口を挟んだ。
「たとえ私の体にキスマークがあったとしても、それは私のプライベートなことです。江崎さんには関係ありませんし、口出しされる筋合いもありません。
もし私のことが目障りなら、もうこの別荘には来ません。ですが、何かあるたびに、すぐに家出をするのはやめてください。
社長はとても忙しいんです。毎日のようにこんなふうに振り回されては、社長だって疲れてしまいます」
さすがは有名大学を出ているだけある。たった数言で、私を理不尽に騒ぎ立てる厄介な女に仕立て上げた。
胸を締め付けるような痛みに耐え、理沙に言い返そうとした。
そのとき、研が氷のように冷たい声で言い放つ。
「今すぐ理沙に謝れ。理沙は俺の秘書だ。お前が八つ当たりするためのサンドバッグじゃないぞ。
これ以上、俺の忍耐を試すような真似はするな」
顔から血の気が引いていく。怒りを通り越して乾いた笑いを漏らし、研を見据える。
「私に謝れって?寝言は寝てから言って」
第3話
そう言い捨てると、私はスーツケースを引きずり、怒りのまま自分の部屋へ戻った。
その夜、研は私への罰とでも思っているのか、私の部屋には来なかった。
そのことを思い返し、思わず苦笑した。
私は研の恋人であるはずなのに、今はまるで愛人のようだ。
私の部屋には、彼がいつでも自由に入ってくる。
けれど、私が彼の部屋へ行くときは、ドアをノックし、許可を得なければ入れない。
機嫌が悪ければ、「今忙しい」の一言すら返してくれない。
でも、今の私にとっては、それでよかった。結婚まで、あと4日。これ以上、彼とは関わりたくない。
翌朝、目を覚ましてダイニングへ向かうと、すでに研がテーブルについていた。
研はテーブルに置かれたグラスを指差す。
「胃が弱いだろ?佐藤さんに牛乳を温めてもらった」
それが、研なりの仲直りの仕方だ。
以前の私は、研と仲直りするため、いつもその牛乳を受け取り、一気に飲み干していた。
たとえ、牛乳が大嫌いでも……
いつものように研からグラスを受け取ることはせず、代わりに家政婦・佐藤桂子(さとう けいこ)を呼んだ。
「悪いけど、雑炊を作ってくれる?」
すると、研は強引にグラスを私の手に押しつけてきた。
「昨日、理沙に謝れって言っただけだろ。それくらいで、なんでそんなに意地を張るんだよ。
理沙は俺にとって右腕みたいな存在だ。お前だって分かってるだろ。理沙を失ったら、俺は仕事が回らなくなる」
優しさを湛えた研の瞳を見つめていると、胸が締め付けられる。
……
研と出会ったのは、私が彼の会社でインターンをしていた頃だった。
入社したばかりで、社長の顔も知らなかった私は、ある日、部署のコーヒーを買いに行った帰り、たまたま一緒になった彼にエレベーターの行き先階ボタンを押してほしいと頼んだ。
それからというもの、数日おきに花が届くようになり、1ヶ月後、研からディナーに誘われた。
5つ星ホテルのレストランで初めて二人きりで会ったとき、研は紳士的で、教養がありながらもユーモアに溢れていた。私はそのとき、すっかり彼に心を奪われていた。
半年後には、研の別荘で暮らすようになった。
付き合い始めた最初の1年は、本当に幸せだった。
研は私のために、いろいろなお菓子を手作りしてくれたし、私が風邪を引けば、重要な会議を放り出してでも看病に駆けつけてくれた。
関係を公にしたくなかったから、私が残業する日は研も会社に残って仕事をしていた。そして二人きりになると、まるで人目を盗むように、彼の社長室で夜食を食べたり、キスをしたりした。
あの頃の研が、私を心から愛していたことだけは確かだった。
しかし、理沙が彼の秘書になってからは、優しい眼差しを向けてもらうことさえ、贅沢に思える。
口の端を吊り上げ、淡々と言う。
「恩田さんがいないと何もできないなら、いっそ彼女と結婚すれば?妻にしてしまえば、ずっとそばに置いておけるじゃない」
研の顔に、あからさまな苛立ちが浮かぶ。彼が次に何を言うかなんて、聞かなくてもわかる。また「理不尽に騒ぎ立てるな」などと、説教を始めるに決まっている。
だから、彼が口を開くより先に言おうとした。
「研、私たち、別れ……」
しかし、言い終わる前に、理沙が入ってきた。
「社長、もう8時です。そろそろ会社に向かわないと」
研はすぐに冷たい顔で立ち上がり、スーツの上着を手に取ると、そのまま理沙のあとを追うように出ていった。
まただ。何を言っても、まるで暖簾に腕押しだ。
痛みはない。けれど、息が詰まるほど苦しかった。
第4話
研と理沙が出ていってからしばらくして、私もバッグを手に会社へ向かった。
出社するなり、部長・山本敦彦(やまもと あつひこ)に呼び出された。
山本部長は申し訳なさそうな顔で、人事評価シートを私の前に差し出す。
「江崎、本当にすまない。できる限りのことはしたんだ。俺がこのポジションを退いたあとは、当然君が引き継ぐものだと思っていた。まさか、上層部が俺の推薦を却下するとは思わなかった」
山本部長を見つめながら、私はただ静かに、あらかじめ用意していた退職願を取り出す。
「部長、お気になさらないでください。実は私、もう退職を決めているんです」
山本部長は驚いたように私を見る。
「本当に辞めるつもりなのか?君はこの会社で10年間、ずっと真面目に働いてきたじゃないか。会社のためにたくさんの問題を解決してくれた……それなのに、今になって辞めるのか?」
私は苦笑を浮かべた。
10年間、誰よりも真面目に働いてきたのに、欲しいものは何一つ手に入らなかった。だからこそ、辞めるのだ。
研はかつて、私が営業企画部の部長になったら、家族に紹介して、結婚すると約束してくれた。
私はその言葉を信じていた。
必死に残業し、誰よりも成果を上げようと努力した。
けれど、どれだけ頑張っても、会社でトップの成績を残し、人事評価で1位を取っても、営業企画部の部長は何度も入れ替わるのに、そこに座るのはいつも私ではなかった。
何度も研に訴えたことがあるが、そのたびに彼は冷ややかな目で私を見るだけだった。
「心がそのポジションに就けないのは、まだ実力が足りないからだろ。恋人という立場を利用して俺に口利きを頼む前に、自分に何が足りないのか考えて、もっと努力しろよ」
あのとき、冷や水を浴びせられたような絶望に襲われた。
研と結婚したかったのはもちろんだが、それと同じくらい、一生懸命働いた自分を認めてもらいたかった。
胸の痛みがあまりにも激しく、こらえていた涙まであふれそうになる。
部長の前で弱さを見せるわけにはいかない。私は慌てて立ち上がった。
「すみません、部長。少しお手洗いへ行ってきます」
第5話
嗚咽がトイレの水を流す音に混じり、静かな空間に響き渡る。
そのときになって初めて気づいた。研と一緒にいたこの10年間、私はどれほど我慢して、どれほど悔しい思いをしてきたのか。
トイレに閉じこもって泣き崩れていると、外から話し声が聞こえてきた。
「営業企画部の山本部長が辞めるらしいですね。しかも、江崎さんを後任の部長に推薦したんですよ。
恩田さん、他の人は知らなくても、私たち秘書室の人間はみんな知ってますよ。江崎さんが部長になったら結婚するって、社長が約束していました」
理沙が鼻で笑う音が聞こえた。
「あの馬鹿な女が、社長と結婚できるわけないじゃない。安心して。今までだって私が邪魔して部長になれなかったんだから、今回も同じよ。
それにしても、あいつも本当にしぶといよね。年末賞与の査定で何度も評価を下げて、会社を辞めるよう仕向けたのに、よく耐えたわ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥から激しい憎しみが込み上げてきた。
会社では、成果を出した社員にはそれ相応の賞与が支給されるはずだ。
長く勤めている社員なら、勤続年数に応じて給与も上がっていく。それなのに、私だけはいつまでも入社したばかりの社員と変わらない低い給与のままだ。
だからこそ、母の治療費を払うことができず、泣きながら研にお金を借りるしかなかった。
まさか、そのすべてが理沙の仕業だったなんて。
怒りに任せてトイレのドアを開け、外へ飛び出した。
「あんたの仕業だったのね!あんたが私の給料を不当に下げていたのね!
そんなに研が好きなら、最初からそう言えばよかったじゃない。譲ってあげるわ。どうして陰でこんな卑怯なことをするの!」
言い放つと同時に、理沙に向かって突進し、その頬を思い切り平手打ちした。
理沙の顔から笑みが消え、怒りを露わにしている。
殴り返してくると思ったが、理沙は突然、私の前にひざまずいた。
「江崎さんが社長の恋人だからって、こんなのあんまりですよ!逆らえない私をいじめて楽しいですか?私が辞めればいいんでしょ?
だから、もう私をいじめたり、叩いたりしないでください。私が悪かったです。どうか、お許しください!」
あまりにも予想外の行動に、私は思わず固まった。
次の瞬間、トイレの入り口から凍りつくような低い声が響いた。
「心、何をしてるんだ!ここは会社だぞ。人目もはばからず騒ぎ立てる場所じゃない。今すぐ理沙に謝れ」
そう言いながら足早に近づいてきた研は、痛ましそうな顔をして理沙を抱き起こす。
「大丈夫?どこか痛いか?今すぐ病院へ連れていく」
理沙は、泣きながら研の胸に飛び込む。
「社長、私は……大丈夫です。全部、私が悪いんです。江崎さんの昇進申請を却下したから、恨まれるのも無理はありません。
ただ、どうしても納得できなかったんです。古株だからって会社で好き勝手していて、山本部長でさえ江崎さんの顔色をうかがって仕事をしていました。
今回だって、山本部長は江崎さんに追い詰められて辞めることになったんですよ。それなのに江崎さんは、自分を後任に推薦するように山本部長を脅したんです。
これ以上、会社をめちゃくちゃにされるわけにはいかないと思って、仕方なく申請を却下しました。
でも、まさか江崎さんがそれを知って、トイレまで来て私を殴るなんて……」
研の表情が、みるみるうちに曇る。理沙の背中を優しく撫でてから、怒りに満ちた目で私を睨みつける。
「部長になれば、俺がお前と結婚するとでも思ってたのか?身の程をわきまえろ。お前が俺に釣り合うと思うか?
この10年、俺がお前に食わせてやって、服も買ってやったからって、すっかり社長夫人にでもなったつもりか?
今すぐ人事に行って退職の手続きをしろ。この会社から出ていけ!」
思わず、鼻で笑ってしまった。
これが、研の本音だったのか。
結局のところ、彼は私を、最初から最後まで都合のいい愛人としてしか見ていなかった。恋人ではなかったのだ。
本当は、ずっと前からその答えには気づいていた。ただ、未練を断ち切れず、認めたくなかっただけだ。
涙が頬を伝う。静かにそれを拭うと、用意していた退職願を取り出す。
「社長に言われなくても、辞めるつもりよ。これ、私の退職願」