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彼に依存するのをやめた日
私、結城凛(ゆうき りん)が黒崎尊(くろさき たける)にすべてを報告しなくなったことに、彼はようやく気づき始めたようだった。 新しいジュエリーを買う時も、彼に意見を求めない。 黒崎グループの創立記念パーティーにも、私一人で足を運んだ。 系列の総合病院で手術を受ける時でさえ、彼に頼ることなく、すべて自分で手配を済ませた。 電話も、メッセージも、メモすら残さない。 事後報告を受けた尊は、不機嫌そうに眉をひそめた。 「なぜ黙っていた?予定表をよこせ。手配は俺の部下にやり直させる」 考えるよりも先に、私の口から答えが出ていた。 「ううん、大丈夫。手を煩わせたくないの。ありがとう」 その言葉が、二人の間に重く落ちた。 しばらくの間、私たちはどちらも口を開かなかった。 無理もない。つい2週間前まで、私は一族の行事につけていくネックレスひとつ、彼のお伺いを立てなければ決められなかったのだから。 ランチタイムにはメッセージを送り、いつ帰宅するのかを聞くためだけに電話をかけていた。 私の人生のどんな些細な決断も、すべて尊を中心に回っていたのだ。 でも今は違う。私が体調を崩して助けを求めていたのに、彼が結城咲良(ゆうき さくら)の機嫌をとるのに夢中で私を完全に無視した時の悲しみを、もう伝えるつもりはなかった。 私が彼の子を身ごもっていることも、教えない。 そしてもうすぐ、彼のもとから永遠に去ることも。
チャプター (1)
第1章
私、結城凛(ゆうき りん)が黒崎尊(くろさき たける)にすべてを報告しなくなったことに、彼はようやく気づき始めたようだった。
新しいジュエリーを買う時も、彼に意見を求めない。
黒崎グループの創立記念パーティーにも、私一人で足を運んだ。
系列の総合病院で手術を受ける時でさえ、彼に頼ることなく、すべて自分で手配を済ませた。
電話も、メッセージも、メモすら残さない。
事後報告を受けた尊は、不機嫌そうに眉をひそめた。
「なぜ黙っていた?予定表をよこせ。手配は俺の部下にやり直させる」
考えるよりも先に、私の口から答えが出ていた。
「ううん、大丈夫。手を煩わせたくないの。ありがとう」
その言葉が、二人の間に重く落ちた。
しばらくの間、私たちはどちらも口を開かなかった。
無理もない。つい2週間前まで、私は一族の行事につけていくネックレスひとつ、彼のお伺いを立てなければ決められなかったのだから。
ランチタイムにはメッセージを送り、いつ帰宅するのかを聞くためだけに電話をかけていた。
私の人生のどんな些細な決断も、すべて尊を中心に回っていたのだ。
でも今は違う。私が体調を崩して助けを求めていたのに、彼が結城咲良(ゆうき さくら)の機嫌をとるのに夢中で私を完全に無視した時の悲しみを、もう伝えるつもりはなかった。
私が彼の子を身ごもっていることも、教えない。
そしてもうすぐ、彼のもとから永遠に去ることも。
第1話
「明日ですか?」
主治医はカルテから顔を上げ、驚いたように私を見た。
「いくらなんでも急すぎませんか?もう数日待たなくて本当によろしいので?」
少し言いよどんでから、彼は付け加えた。
「明日は黒崎社長が出張からお戻りになる日です。きっと、結城さんのそばにいたいとおっしゃるはずですよ」
私は静かにファイルを閉じた。
「私が決めたことです。ただの膝の手術ですから、一人で十分対処できます」
主治医は目を丸くした。
黒崎グループの人間なら誰でも、以前の私がどれほど尊に依存していたかを知っている。
風邪を引けば尊にそばにいてほしがり、彼の書類を開けようとして指を切っただけで泣きついたこともあった。私はいつも、彼に頼りきっていたのだ。
だからこそ、「一人でできる」という私の言葉が信じられないのだろう。
診察室を出た瞬間、私は立ちすくんだ。
病院のエントランスを、片手にスーツケースを持った尊が歩いてくるのが見えたからだ。
彼のもう一方の手は、大理石の階段を上がる咲良を無意識にかばうように添えられていた。
彼女が羽織っている黒のカシミヤコートは、私からの贈り物だ。交際3周年の記念日に、私が何ヶ月も探して彼にプレゼントしたものだった。
私を捉えた彼の眉が、険しく寄せられた。
「ここで何をしている?」
少しの間を置いて、彼は言った。
「また体調を崩したのか?」
またその態度、その不機嫌な口調は、まるで私が、彼のデスクに積まれた厄介な案件の一つであるかのようだった。
私が止める間もなく、彼は私の手からファイルを奪い取った。
報告書にざっと目を通すと、一方的に告げる。
「明日は忙しい。予約を取り直せ。来週にしよう」
考えるより先に、言葉が口をついて出た。
「大丈夫よ。自分でなんとかするから。ありがとう」
沈黙が落ちた。
尊は本気で驚いたような顔をした。
ほんの2週間前まで、着ていく服ひとつ自分で選べないほど何事も彼頼みだった私が、今では相談もなく手術の予定を組んでいるのだ。
もしここで偶然会わなければ、彼は永遠に知ることはなかっただろう。
私がファイルを取り返そうと手を伸ばした時、尊のポケットから何かが滑り落ちた。
ホルモン剤だった。妊娠初期のつわりを抑えるためによく処方される薬。
彼はすぐに身をかがめてそれを拾い上げた。
「誤解するな」
彼の声は淡々としていた。
「咲良の具合が悪くてな。あいつの代わりに受け取ってきただけだ」
咲良は慌ててうつむいた。
「ごめんなさい、お姉ちゃん。本当は尊さん、先に帰るはずだったの。でも私が一人で病院に行ける状態じゃなくて……」
それから彼女は、困ったように微笑んだ。
「私もお姉ちゃんみたいに自立していればよかったな。そうすれば、尊さんにずっとお世話をさせずに済むのに」
自立。その言葉に、私は思わず笑いそうになった。
1ヶ月前、激しい胃の痛みで一睡もできなかった夜、私は尊に電話をかけた。
せめて心配くらいはしてくれると思ったのに、彼の第一声はこうだった。
「本当にそんなにひどいのか?」
分からない、怖い、ただ早く帰ってきてほしいと伝えた。
しかし尊は冷酷に言い放った。
「凛、かかりつけの医者を呼べ。些細なことまで俺に頼るな」
冷たいと責める私に、彼はこう返した。
「お前も大人だろう、凛。自分の体調くらい、自分で判断できないのか?お前は俺に依存しすぎている。俺はお前の恋人であって、保護者じゃないんだ」
滑稽な話だ。財界を牛耳る男は、誰のトラブルでも解決できる。自分の恋人のこと以外は。
それなのに、腹違いの妹が「気分が悪い」と甘えるだけで、冷酷と恐れられる黒崎の若き総帥は、自ら彼女を病院までエスコートするのだ。
事情を知らない人が見れば、彼と付き合っているのは咲良の方だと思うだろう。
数ヶ月前なら、私は彼に掴みかかり、説明を求め、彼が引き留めてくれるまで泣き叫んでいたはずだ。
けれど今は、ただ静かに頷いただけだった。
「そう」
怒りも、嫉妬も、涙もない。ただの、静かな一言。
なぜなら、尊がまだ知らない決定的な事実があるからだ。
私は目を伏せ、無意識にコートの上からお腹に手を当てた。
私の中に芽生えた小さな命が、私からの彼に助けを求める声を聞くことは二度とない。
この子は、私一人で育てていく。
第2話
「薬だけじゃどうにもならないこともあるわ」
私は尊をまっすぐに見つめた。
「今の咲良に必要なのは、気にかけてくれる人。そばにいて、安心させてくれる誰かよ」
咲良の頬がさっと赤く染まった。
「お姉ちゃん、そういう意味じゃ……」
尊の表情が険しくなる。
「俺が月城の本邸に行ってから、お前はずっと突っかかってくるな。仕事だったんだ。いちいち自分の行動をすべてお前に報告しろとでも言うのか?」
2週間前……
その日は私たちの交際記念日だった。
私は何日もかけて彼のために手料理を準備した。彼のお気に入りのワイン。好みのデザート。何ヶ月も前にオーダーメイドで頼んでいたアンティークの腕時計も、ようやく手元に届いていた。
深夜を過ぎるまで待ったが、彼は帰ってこなかった。
代わりに私の目に入ってきたのは、更新された咲良のインスタグラムだった。
彼女は、月城にある黒崎本邸の美しい庭園で、尊の隣にぴったりと寄り添って立っていた。
キャプションにはこう書かれていた。
【あなたがそばにいてくれるだけで、安心できる】
電話をかけた私に、彼の声はひどく冷ややかだった。
「外せない重役会合があったんだ。事情を話している時間はなかった。記念日は来年も来るが、今回の会合は違う。お前なら分かってくれると思っていたんだがな」
そして、彼はこう付け加えた。
「俺の予定を中心に生きるな。お前自身の人生を持て」
その瞬間、私の中の何かが決定的に壊れた。
「そういうことなのね。何があっても、私はいつも一番後回しにされるってこと」
長い沈黙の後、尊は深いため息をついた。
「帰ったら話そう」
電話は一方的に切られた。
その夜、私は西都にある外資系企業との雇用契約書にサインをした。エージェントは驚いた顔で私を見た。
「遠方の都市へ移住されるのですか?彼氏さんはご存じで?かなり大きな決断ですよ」
私は自分の名前を書き終え、ペンを置いた。
「誰の許可も必要ありませんから」
数ヶ月前、黒崎グループの投資部門に入るべきか、それとも今の財団の運営に関わり続けるべきか、尊に相談したことがあった。
彼は手元の書類から顔を上げることすらなく、「お前の人生だ。自分で決めろ」と言い放った。
それなのに彼は、咲良がグループ内でどう立ち回るべきかについては、何時間もかけて自ら指導していたのだ。
役員、顧問、彼女が将来頼るかもしれないあらゆる関係者を、彼自身の手で紹介して回っていた。
彼はいつも、私が彼に依存しすぎていると言った。
嬉しい出来事を報告しようとしても、彼はデスクの書類から目を離そうとしなかった。
どこかへ車で連れて行ってほしいと頼めば、「俺の時間はお前のためにあるわけじゃない」と釘を刺された。
一族の会食に同行したいと言えば、「俺以外の世界を持て」と突き放された。
私はずっと、それが黒崎尊という人間なのだと思っていた。
寡黙で、感情を見せず、愛するのが難しい人。長くそばにいれば、いつか私が彼の特別になれると信じていたのだ。
そんな私の日常に、腹違いの妹の咲良が再び足を踏み入れてきた。
私たちは元々、そこまで親しい姉妹ではなかった。だから母が亡くなり、天涯孤独になった彼女の面倒を見てほしいと尊に頼んだ時は、断られるとばかり思っていた。
けれど、彼はあっさりと頷いたのだ。
そして私が気づいた時には、彼女は私が何年も待ち望んでいた特別な存在になっていた。
彼女が本邸の女性陣と揉めて愚痴をこぼせば、彼は忍耐強く耳を傾けた。
彼女が夜中に甘いものが食べたいと言えば、車で街を横断して自らケーキを買ってきた。
親族の集まりでは、自ら彼女を紹介して回った。
「咲良だ。よくしてやってくれ」と。
私がそれに疑問を呈するたび、尊はいつも顔をしかめた。
「咲良はまだ子供だろう。本気で嫉妬しているのか?些細なことを騒ぎ立てるな」
子供、ね。私とたった3歳しか違わないのに。
彼が感情表現が苦手なだけだ、忙しいだけだ、愛情表現の仕方が分からないだけだ。私が彼のために作り上げてきた言い訳は、一つ、また一つと崩れ去っていった。
なぜなら、ついに真実を見てしまったからだ。
彼にだって、甘く優しい一面はちゃんとあったのだ。それが私に向けられていなかっただけなのだ。
これでよかったのかもしれない。
明日の手術が終わったら、私はこの今まで住んできた街――新京を離れる。
尊は、私が彼の子を宿したまま去っていったことなど、一生知ることはない。
スマホが鳴った。親友の浅倉彩乃(あさくら あやの)からだ。
「凛、今夜そっちに行くからね。手術の後も一緒にいてあげる。お医者さんは大したことないって言ってたけど、あんた妊娠してるんだから。一人で抱え込んじゃダメよ」
私はスマホを握る手に力を込めた。
「それに」
彩乃が声を潜める。
「尊にはいつ言うか決めたの?今度の記念日ディナー?」
私は答えなかった。もう、何も分からなくなっていたから。
「とにかく、ゲストルームを片付けておいてよね。あんたの専属ベビーシッターが、今日からお世話するんだからね」
「うん。2回もハウスクリーニングを入れたわよ。新しいシーツも買って……」
私がそう答えながら、ゲストルームのドアを開けた。
その瞬間、私の言葉は、喉の奥でつかえた。
第3話
私が心を込めて準備したゲストルームは、見る影もなく荒らされていた。
真新しいシーツは剥ぎ取られ、床に無造作に放り投げられている。
ブランド物のスーツケース、化粧品、靴、ジュエリー。部屋の半分が咲良の荷物で埋め尽くされていた。
ベッドの上には巨大なテディベアが堂々と鎮座している。まるで、征服した領土に立てられた旗のように。
玄関のドアが再び開き、咲良の弾んだ笑い声が聞こえてきた。
「尊さん、あのレストランに連れて行ってくれてありがとう。本当に元気が出たわ。今日がどれだけ最悪な一日だったか、忘れちゃうくらい」
尊はネクタイを緩めながら入ってきた。
「咲良がまた本邸で少し揉めてな。空気が良くないから、数日ここに滞在させると言ったんだ」
私は乾いた笑いを漏らした。
「尊、1週間前に言ったはずよ。彩乃がこの部屋に泊まるって」
その瞬間、彼の言葉がぴたりと止まった。
そのわずかな間が、すべてを物語っていた。彼は完全に忘れていたのだ。
あの時、私が尋ねた際も、彼は目の前の書類から目を上げることすらなく、「お前の友人だろう、好きにしろ。些細なことまで俺の許可をとるな」と言っただけだった。
今、彼は気まずそうに唇を引き結んだ。
「すまない」
そう言って、彼は手に持っていたスイーツの箱を持ち上げた。
まるで機嫌を損ねた子供をなだめるような、甘い声だった。
「お前が好きそうな店を見つけたんだ。今週末、連れて行ってやるよ」
私はその店のロゴを見た。私が何ヶ月も前からずっと行きたいとおねだりしていたお店だった。
その度に彼は「忙しい」と断っていた。そして今夜、彼は私ではなく咲良を連れてそこへ行ったのだ。
私は彼から箱を受け取ると、キッチンへ向かい、そのままゴミ箱へ放り捨てた。
尊の顔から血の気が引いた。咲良が慌てて歩み寄ってくる。
「お姉ちゃん、私が悪いの。お友達と部屋をシェアしても構わないわ」
私はふっと笑い出した。そしてゲストルームに入り、彼女のスーツケース、ぬいぐるみ、持ち込まれたすべてのショッピングバッグを一つ、また一つと、廊下へと運び出した。
咲良は凍りつき、すぐにその目を赤くした。
「ひどい……私の荷物を全部外に出すなんて。この部屋がダメなら、私、今夜どこで寝ればいいの?」
私は主寝室のほうへ視線をやった。
「そうね。尊と一緒に寝ればいいわ。私は気にしないから」
彼女の顔が真っ赤に染まった。
「お姉ちゃん!邪魔ならそう言ってくれればよかったのに。わざわざこんな風に私を惨めにするなんて!」
彼女は泣き崩れ、玄関へと走り出した。
今回ばかりは、尊も彼女を追いかけなかった。代わりに、彼は険しい顔で私を睨みつけた。
「咲良には悪気はなかったんだ。あいつも色々あって傷ついている。ここにいてほしくないなら、俺にそう言えばよかっただろう。わざわざあんな風に恥をかかせる必要があったのか?」
私の顔から笑みが消えた。
「ここは私たちの家よ。あなたが別の女をここに連れ込んでおいて、私が事前に相談してほしいと望むのが理不尽だとでも言うの?」
尊はため息をついた。
「咲良には他に頼る人間がいないんだ。お前ならもう少し思いやりを持ってくれると思っていたんだが。たかが数日のことだろう。わざわざ事前に話し合うほどのことでもない」
彼は少し間を置き、さらに付け加えた。
「お前の友人が泊まる件と同じだ。お前だって、俺の許可なんて取らなかっただろう」
1ヶ月前なら、私は「あなたと一緒にしないでほしい、自分の男友達を家に連れ込んだりしない」と反論していただろう。
なぜ私の気持ちより咲良の快適さのほうがいつも優先されるのかと問い詰めて、彼がどれほど私を傷つけているかを分からせるため、必死に戦っただろう。
でも今は、ただ頷くだけだった。
「あなたの言う通りね。誰の許可も必要ない」
もしそれが本当なら、私が新京を離れるのにも、彼の許可は必要ない。
彼と別れるのにも。彼が二度と見つけられない場所で、私たちの子を育てることにも。
私は玄関へ歩いて行き、彼のためにドアを開けた。
「咲良の様子を見てきてあげたら?私は荷造りを済ませるから」
どういうわけか、その態度は彼をひどく苛立たせたらしい。彼は大股で部屋を横切ると、私の手首を強く掴んだ。
「咲良には自分でホテルを取らせる」
彼の視線が、私の足元にある開いたスーツケースに落ちた。ついに、彼の表情が変わった。
「なぜ荷造りをしているんだ?どこへ行くつもりだ?」
第4話
私は尊の手を振り払った。
「あなたにはあなたの責任があるんでしょ?なのにどうして突然、私の行き先なんかに構うの?」
尊は黙り込んだ。
一瞬、彼がハッとしたように顔を歪めるのが見えた。数ヶ月前、彼が私に向かって放ったのと全く同じ言葉だったからだ。
長い沈黙の後、彼はようやく口を開いた。
「月城へ行く前に言うべきだった。あれは俺のミスだ。二度と同じことはしない」
彼は少し躊躇してから言葉を続けた。
「明日はどうしても対応しなければならない事態がある。咲良がまた本邸の親族の女たちと衝突してな。
事態が深刻化している。重役たちが関係者全員を聴取することになっているんだ。俺が彼女をサポートしなければならない」
彼は私をまっすぐに見つめた。
「手術を明後日に変更しろ。俺が立ち会う」
今この瞬間でさえ、私たちを天秤にかけた時、私はやっぱり二番目なのだ。
「いいの。あなたに来てもらう必要はないから」
彼は理解できないというように眉を寄せた。
「最高の手術チームを手配できる。万全の体制を整えさせる。俺がずっとそばにいる」
私が答えるより先に、彼のスマホが鳴った。尊は即座に電話に出た。
スピーカー越しに、怯えたような咲良の声が聞こえてきた。
「尊さん……誰かが私の部屋に入ろうとしてるの。怖い」
彼の表情が一変し、テーブルの車のキーを鷲掴みにした。
私は彼を止めた。
「待って」
彼は苛立ちを隠せない様子で振り返った。
「凛。人の命がかかっている時にまで、お前の顔色を窺えと言うのか?今はそんな暇はない、あいつが危ないんだ」
彼は奥歯を噛み締め、まるで私を安心させるようにこう付け加えた。
「お前の手術には必ず行く。だが今は、何が一番重要か、お前にも理解してほしい」
彼は誤解している。
私は彼に引き留めてほしかったわけじゃない。手術に彼など必要ないと伝えたかっただけなのだ。
だが、彼はすでにドアの外へと飛び出していた。
……
翌朝、病院へ行くと、私の手術は強制的に延期されていた。
尊が直接、病院の理事長に掛け合ったのだ。黒崎グループのトップの要請を断れる者などいるはずがない。
主治医は意味ありげに微笑んだ。
「あまり彼氏さんをいじめちゃダメですよ。黒崎社長から全部伺いました。あなた様が一人で手術を受けると言い張るのは、社長と喧嘩して意地を張っているからだと。
社長は予定を調整してまで、結城さんに付き添おうとしておられます。本当に愛していないと、あんなことはできませんよ」
本来の計画では、今日手術を済ませ、明日西都へ飛び立ち、明後日からは新しい人生を始めるはずだった。
ところが、尊の電話1本で、私が立てた計画はすべて白紙にされてしまった。
私はすぐに彼に電話をかけた。2回目のコールで相手が出た。しかし、電話口の声は尊ではなく、咲良だった。
「尊さんなら、眠ってるわ」
誰かを起こしたくないかのように、彼女は声をひそめた。
「私のことを心配して、一晩中起きていてくれたから。何か用があるなら、私が伝えておくけど」
そして、急に思い出したかのように言った。
「あ、今日って手術の日じゃなかった?ごめんなさいね。残念だけど、尊さんは行けそうにないわ」
彼女は小さく息を呑んだ。
「あっ、誤解しないでね」
彼女が言い終わる前に、私は通話を切った。
その後、彼女のインスタグラムが更新された。
【必ず私を助けに来てくれる人がいる。これ以上安心なことなんてないわ】
添付された写真は、高級ホテルのスイートルームだった。
尊は咲良のベッドの脇の椅子に座っていた。昨日のスーツを着たまま、目を閉じているが、深く眠っているわけではない。目の下のクマが、彼が一晩中彼女を見守っていたことを物語っていた。
私は二人の連絡先をブロックした。そして、西都の病院で手術の予約を取り直した。
これくらいの手術なら、別にここでなくてもいい。
翌朝、私は飛行機に搭乗した。まだ平らな下腹部に、そっと片手を添える。
誰も私を止めには来なかった。
そして尊は、自分の恋人と、まだ見ぬ我が子が永遠に去っていくことなど、知る由もなかった。
……
凛が予定していた手術に現れなかったという報告は、すぐに尊の耳に入った。
午前11時、秘書からの電話だった。
「社長、凛様が今朝の手術にお見えになりませんでした」
尊は眉をひそめ、時計を見た。彼は午前6時まで咲良のスイートルームに滞在し、彼女が眠りに落ちたのを見届けてからようやく部屋を出ていた。
凛が意地を張って一人で受けるつもりなのだろうと思っていた。
「予約を変更したのか?」
「社長……」
秘書は言葉を濁した。
「主治医から、別の報告を受けております。社長はすでにご存知かと思っていたのですが」
「何をだ?」
「凛様はご妊娠されております。およそ8週目とのことです」
一瞬、尊の頭が真っ白になった。やがて、その顔にゆっくりと笑みが広がった。
「妊娠……?」
彼はその言葉を、まるで信じられないものを確かめるように、つぶやいた。
「あいつ……」
彼の瞳に、滅多に見せないような温かい光が宿った。
「こんなに重要なことまで俺に隠していたというのか」
しかし、秘書の次の言葉で、彼の顔が完全にこわばった。
「確認のため凛様にご連絡を差し上げているのですが、何度かけても繋がりません。社長は……凛様と連絡はお取りになれますでしょうか?」