余命を偽った私と、愛を忘れられなかったあなた

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余命を偽った私と、愛を忘れられなかったあなた

GoodNovel 完結

「羽村さん、ご本人の意思について、改めて確認が取れました。今後は積極的な治療や延命措置は行わず、苦痛を和らげるためのケアに切り替えます」 医師は少し間を置いてから、静かに続けた。 「今の状態では、おそらく残された時間は1か月ほどです。こちらの書類にご署名をお願いします」 羽村優璃(はむら ゆり)の指先がかすかに震えた。 紙の上でペン先を数秒さまよわせてから、ようやくゆっくりと自分の名前を書き込む。 歪んだ頼りない文字からは、残された力のすべてを振り絞ったことが窺えた。 今の優璃はすっかり痩せ細り、肌からも血の気が失われていた。風が吹けば、そのまま消えてしまいそうなほどだった。 癌は少しずつ、確実に、優璃の命を削っていった。 これ以上、苦しい治療を続けながら生き延びることを、優璃は望まなかった。 だから彼女は治療を終えることを決めた。 そして、自分に残された時間があと1か月ほどだと知ったうえで、その最期を受け入れる道を選んだのだ。 建物を出たところで、彼女のスマホが鳴った。 長谷部陽一(はせべ よういち)からだった。 たった1行、短い言葉。 【南雲学院高等学校、避妊具届けろ】

チャプター (1)

第1章

「羽村さん、ご本人の意思について、改めて確認が取れました。今後は積極的な治療や延命措置は行わず、苦痛を和らげるためのケアに切り替えます」 医師は少し間を置いてから、静かに続けた。 「今の状態では、おそらく残された時間は1か月ほどです。こちらの書類にご署名をお願いします」 羽村優璃(はむら ゆり)の指先がかすかに震えた。 紙の上でペン先を数秒さまよわせてから、ようやくゆっくりと自分の名前を書き込む。 歪んだ頼りない文字からは、残された力のすべてを振り絞ったことが窺えた。 今の優璃はすっかり痩せ細り、肌からも血の気が失われていた。風が吹けば、そのまま消えてしまいそうなほどだった。 癌は少しずつ、確実に、優璃の命を削っていった。 これ以上、苦しい治療を続けながら生き延びることを、優璃は望まなかった。 だから彼女は治療を終えることを決めた。 そして、自分に残された時間があと1か月ほどだと知ったうえで、その最期を受け入れる道を選んだのだ。 建物を出たところで、彼女のスマホが鳴った。 長谷部陽一(はせべ よういち)からだった。 たった1行、短い言葉。 【南雲学院高等学校、避妊具届けろ】 第1話 優璃が陽一に言われたものを買って、南雲学院高等学校に駆けつけると、校門の外に場違いなロールスロイスが停まっているのが目に入った。 車体がかすかに揺れている。中から女の甘い喘ぎ声と、男の低く押し殺した呻き声がかすかに漏れてくる。 その声の一つ一つが鋭い刃のように、優璃の胸をえぐった。爪が掌に深く食い込んでいるのに痛みは少しも感じない。 強く握りしめてひしゃげてしまった箱を指で撫でながら、少しずつ元の形に整える。車のそばまで行き、後部座席の窓から伸びてきた、すらりと長い指に箱を渡した。 これもいつものことで、彼女は立ち去らず、助手席に乗り込んだ。 ルームミラー越しに、後部座席での情事が優璃の目に飛び込んできた。 陽一は前席の優璃に背を向けるようにしていた。スーツをきっちりと着込んだまま、一糸纏わぬ女に覆いかぶさっている。表情は冷え切っているのに動きだけが狂おしく激しい。 組み敷かれた女は悦びと苦しさの入り混じった声で手加減を乞い、全身を情欲の色に染めていた。 「あっ……社長……もう少し、優しく……っ」 陽一は冷たく笑った。低く凍えるような声だった。 「手加減したら、お前は満足できないだろう?」 そう言うなり、動きはいっそう激しくなる。 車の揺れが前の席にまで伝わり、優璃の身体もそれに合わせて震えた。それでも目を逸らさない。まるで自分を痛めつけるようにすべてを見つめ続けた。 やがて女が甲高い声を上げ、ようやく陽一は身を離して座席に座り直すと、無造作に窓を下ろした。 冷たい風が吹き込み、車内にこもっていた濃密な情事の気配を吹き飛ばしていく。 陽一は煙草に火をつけた。立ちのぼる紫煙に霞んで、優璃には陽一の顔がよく見えない。 先に優璃に気づいたのは、女のほうだった。 「きゃっ!」 女は小さく悲鳴を上げると、陽一の胸元に身を寄せた。 「社長、なんで使用人まで乗ってるんですか?早く降ろしてくださいよ」 陽一は優璃をちらりと見やり、気のない口ぶりで言った。 「使用人なんかじゃない。こいつは俺の初恋の相手だ。愛しても手に入らなかった、忘れられない女だよ」 陽一は煙を深く吸い込むと、煙草を挟んだ右手をゆっくりと持ち上げた。 「この手が見えるか?彼女を庇って事故に遭って、今も重い後遺症が残ってる。もう一生、車は運転できない」 まるで他人の身の上話でもしているかのような、穏やかな口調だった。それなのに優璃の胸は鷲掴みにされたように痛み、息もできない。 女は一瞬きょとんとしたあと、陽一の腕の中でくすくすと笑った。 「もう、社長ったら冗談ばかり。本当に初恋の方なら、私たちのこんなところを見せたりしませんよ。もっと大事にするはずでしょう? それに社長ほどの方が、どんなに好きな女性のためでも、手に一生残る傷を負うなんてあり得ません。そこまで愛するなんて……」 優璃は俯き、爪で抉った掌の血の跡を見つめて口の端に苦い笑みを浮かべた。 ええ、そうね。誰が信じるというの。けれど陽一の言ったことはすべて事実だった。 ――10年前、二人は南雲学院高等学校で出会った。名家の御曹司だった陽一は、何の後ろ盾もない優璃に恋をした。 彼女のために、家を継ぐ権利すら手放したのだ。狭いアパートの一室で身を寄せ合い、1杯のカップ麺をふたりで分け合った。 大学を卒業した後、ふたりの未来のために、陽一は必死で事業を立ち上げようとした。あの事故が起きるまでは。 陽一の父親の平手打ちが、優璃を現実に引き戻した。 「これ以上、陽一をどうするつもりなんだ!陽一は小さい頃から、長谷部家の跡取りとして育ててきた。どれだけ手をかけてきたと思ってる。 それなのに、お前のために何度も人に頭を下げて仕事を取り、指輪を買う金を作るために無理な接待までして、体を壊した。 挙げ句には、お前を庇って事故に遭って、手にまで後遺症が残ったんだ!頼むから、もう陽一を自由にしてやってくれ」 その日、優璃は屋上でひと晩じゅう立ち尽くし、最後には去ることを選んだ。 退院した陽一がプロポーズしてくれたその日、優璃は薔薇の花束を陽一の顔に叩きつけ、冷たく笑った。 「はっ……もう終わりにしようよ。今のあなたは、長谷部家の跡取りでもなければ、仕事だってうまくいってない。 その手だってまともに使えないし、今のあなたには何もない。そんなあなたに付き合って、どうして私まで人生を無駄にしなきゃいけないの?」 優璃は迷いなく背を向けた。陽一が声を振り絞って引き留めても、一度も振り返らなかった。 そうして優璃は、丸3年間姿を消した。陽一の胸に残ったのはもう憎しみだけだった。 ついに2年前、ふたりは再会した。 陽一は再び実権を握り、長谷部グループの社長になっていた。一方の優璃は、夜の店で酒を売り、誰にでも踏みつけにされる女に成り下がっていた。 陽一は権力にものを言わせて優璃を無理やり傍らに縛りつけた。そして次から次へと女を抱く姿を見せつけたのだ。 今日はちょうどその100人目だった。 後部座席では陽一が小切手を1枚切り取り、無造作にゼロを書き連ねた。 「これを持って秘書のところへ行け。二度と俺の前に現れるな」 女はこれが陽一のいつものやり方だと知っていた。どれほど美しい女だろうと、一度寝れば捨てられる。 それでもこんなにいい男を手放したくなくて、赤い唇で陽一の指先を咥え、甘えた声を出した。 「社長……」 陽一の瞳がすっと冷え、声には骨まで凍るような冷たさが宿った。 「金を受け取って消えるか、このまま居座るか。好きなほうを選べ。後悔しても知らないぞ」 その鋭さに、甘えていた女の顔からさっと血の気が引く。慌てて服を身につけ、転げるようにして車を降りていった。 陽一も車を降り、タブレットを優璃の前に差し出した。 「次の女だ。選べ」 優璃を徹底的に苦しめるため、陽一は女を替えるたび、次の相手を優璃自身に選ばせていた。 優璃は胸を刃でかき回されるような思いで、それでも懸命に平静を装った。 「選ばなくても……いい?」 もう選ばせないで、お願いだから。 陽一、私、癌なの。もうすぐ死ぬのよ…… 私が死ぬこと、それがもう、陽一にとっていちばんの仕返しになるはずだから。 陽一は優璃をじっと見据え、口の端をわずかに歪めて嘲笑した。 「選ばないだと? お前はあの時、俺に選ぶ機会をくれたか?」 優璃は唇を震わせたが、声にはならなかった。 陽一はタブレットを優璃の胸元に放り投げた。口元には笑みを浮かべているのに、その目は冷え切っていた。 「お前みたいな女でも苦しいと思うのか? お前は悪女で、俺も悪党だ。だったら一生絡み合ったまま、ふたりで地獄に堕ちようじゃないか」 ロールスロイスはあっという間に走り去った。優璃はその場に立ち尽くしたまま、いつしか降り出した雨が涙と混じり合い、頬を伝っていくのに任せていた。 顔を天に向け、雨に打たれるままにしながら、独り言のようにかすかな声でつぶやいた。 「もういいの、陽一……あなたはちゃんと生きて。長生きして。 今度は私ひとりで、地獄に堕ちれば十分だから……」 第2話 それから数日、陽一は一度も屋敷に帰ってこなかった。 けれどそのことに優璃はほっと胸を撫で下ろしていた。 癌と診断されてからというもの、優璃は毎日病魔と闘い続けている。これまでどれだけ薬を飲み、何度化学療法を受けても病状は良くならず、緩和ケアに切り替えた今も、毎日のように血を吐き、髪はごっそりと抜け落ちていった。 体は無数の槌で打ちつけられているようで、骨が少しずつ砕けていくような痛みが走る。どれだけ睡眠薬を飲んでも眠りは訪れなかった。 その夜も、また激しい痛みに襲われた。優璃はふらつきながら蛇口をひねり、洗面台に残った血を水で流した。 勢いよく流れる水の音に紛れても、苦しそうな息遣いだけは隠しきれなかった。 蛇口を閉め、重い足を引きずるようにして、一歩ずつ寝室へ向かう。 そのとき、リビングのテレビが速報ニュースに切り替わった。 「……長谷部グループ社長の長谷部陽一氏と、夏井家のご令嬢、夏井加莉奈(なつい かりな)が婚約を発表しました。お二人は来月、結婚式を挙げる予定です……」 優璃の足がぴたりと止まった。思わずテレビのほうへ顔を向ける。 画面の中で陽一は仕立てのいい黒いスーツに身を包み、その隣には明るい笑顔の加莉奈が寄り添っている。 優璃の目が大きく見開いた。そして心臓まで、鷲掴みにされたようだった。 画面の向こうでは、記者が遠慮なく質問を投げかけていた。 「長谷部社長はこれまで、女性関係の噂が絶えませんでしたよね。それなのに、なぜ突然、夏井さんとの婚約を決めたんですか?」 普段は冷たい印象の陽一も、その時ばかりは少しだけ表情を和らげた。 「昔、事故で腎臓を損傷して倒れたことがあるんです。その時、腎臓を提供してくれて、命を救ってくれた人がいました。 ずっとその人を探していました。見つけたら、どんな望みでも叶えて、恩を返したいと思っていたんです。 それが加莉奈だったと知ったのは、つい最近です」 優璃は息を呑んだ。胸元をきつく握りしめる。そうすれば引き裂かれるようなこの痛みが少しは和らぐとでもいうように。 違う……そうじゃない…… あの頃、陽一の父に迫られて、陽一と別れた優璃は、海外へ渡った。ところが陽一は諦めきれずに追いかけてきて、そのうえ事故に遭い、腎臓が破裂してしまったのだ。 知らせを聞いて慌てて戻り、名前を伏せて陽一に腎臓を提供した。それなのに今、自分が腎臓を提供したという事実を、加莉奈に横取りされている。 本当のことを伝えたい。けれど喉に何かが詰まったように声は少しも出てこなかった。 優璃にはもう残された時間がほとんどない。たとえ打ち明けたところで何が変わるというのだろう。 ただ陽一の苦しみを増やすだけだ。 そのとき、玄関の扉が突然開いた。 つい先ほどニュースに映っていた二人が、前触れもなく優璃の目の前に現れたのだ。 加莉奈は優璃の姿を見るなり悲鳴を上げて陽一の胸に飛び込んだ。 「きゃあっ!お化け!」 今の優璃の顔は紙のように白く、痩せ細った体は風に吹かれただけで倒れてしまいそうだった。蛍光灯の白い明かりの下では、骨格まで浮き出て見えそうなほど痩せていた。 陽一は眉をひそめ、冷たい視線で優璃をさっと一瞥した。それから加莉奈の背を優しく叩く。 「怖がらなくていい。あれはお化けじゃない」 加莉奈は陽一の胸から顔を上げ、おずおずと尋ねた。 「……じゃあ、誰?」 陽一は淡々と答えた。 「ただの使用人だ」 優璃の胸がずしりと沈んだ。無意識のうちに指が掌に食い込む。 そうだ。陽一は力ずくで自分を連れ戻し、触れもせず立場も与えず、ただ毎日他の女と寝るところを見せつけた。その後始末までさせた。それなら自分は使用人と何が違うだろう。 加莉奈は意味ありげに優璃を見やると、鼻で笑った。 「使用人なんでしょ?だったら、さっさとご飯の支度でもしてきたら?」 優璃は俯き、黙ってキッチンへ向かった。 その背中を陽一の視線がずっと追っていた。瞳の色は深く、何を思っているのかは読み取れない。 キッチンで、優璃は震える腕で必死に鍋を持ち上げ、中の味噌汁を器に注いだ。 指が震えて取っ手をほとんど握っていられない。額にはうっすらと冷や汗がにじんでいた。 そのとき、キッチンのドアが開いた。 加莉奈が入ってきた。背筋がぞっとするほど優しい声で言う。 「手伝ってあげるわ」 優璃は慌ててその手を避け、低い声で答えた。 「いえ、結構です、夏井さん。キッチンは油煙がひどいので、どうぞ外でお待ちください」 けれど加莉奈は出ていくどころか優璃に数歩近づいた。 「本当はね、あんたのこと知っているのよ。羽村優璃。昔、陽一がずっと想い続けていた初恋の人でしょう? ま、あんたも本当に不思議な人ね。あの頃、陽一が一文無しになったからって、見限って出ていったくせに、こっそり戻ってきて腎臓を提供するなんて。 私があんたの手柄を横取りしたって分かっているのに、さっきも暴こうとしなかった。ねえ、一体どんな秘密があるの?」 優璃はその問いには答えず、淡々と言った。 「夏井さん、お食事はもうすぐできますので、どうかお戻りください」 そう言ってキッチンの外へ促そうとした。ところが、すでにドアのところまで歩み寄っていた加莉奈が、ふいに振り返った。 次の瞬間、その手がアイランドカウンターの上に置かれた味噌汁の器を払いのけた。 ガシャン! 器は床に落ちて砕け、破片が飛び散る。熱々の味噌汁が加莉奈の脚に跳ねた。 「きゃあっ!」 悲鳴を上げて加莉奈はその場にへたり込んだ。 第3話 キッチンでの物音は、すぐさま外にいた陽一の耳に届いた。 ドアを押し開けた陽一の目に飛び込んできたのは、床に倒れて火傷で脚を赤く腫らした加莉奈と、その傍らで青ざめて立ち尽くす優璃の姿だった。 陽一の顔がたちまち険しくなる。大股で歩み寄ると、加莉奈を抱き起こした。 「どうした!」 加莉奈は目尻を赤くし、うるんだ瞳で陽一を見上げた。 「陽一、さっきあなたのところの使用人が、あなたの物を盗んでたのよ。止めようとしたら、その人が……」 言葉は語尾を濁して消えたが、何が言いたいかは明らかだった。 優璃が弁解しようとした矢先、陽一に突き飛ばされ、床へ倒れ込んだ。 割れた器の破片の上に手を突いてしまい、血がどっとあふれ出した。頭も戸棚の角に強く打ちつけている。 「羽村優璃、お前はそんなに金が好きなのか!昔は金のために俺を捨てて、今度は盗みまで働くというのか!」 骨まで凍りつくほど冷たい声。その目には、嫌悪の色しかない。 優璃は喉が詰まり、長いあいだひと言も絞り出せなかった。 陽一は加莉奈を抱き上げ、振り返りもせずキッチンを出ていく。 優璃は床に丸まり、声もなく涙をこぼした。 昔の陽一なら、人混みの中でもひと目で自分を見つけ出してくれた。ほんの小さな怪我でも大慌てで心配してくれたのだ。 けれど今、陽一の目に映っているのは、あの加莉奈だけだ。 でも、それでいい……そのほうが自分が死ぬとき、陽一はそれほど悲しまずに済むから。 味をしめたのか、それからの数日、加莉奈は長谷部家の屋敷に居座り、ひっきりなしに優璃をこき使うようになった。 お茶を運ばせ、水を持ってこさせる。挙げ句には下着まで洗わせる。 加莉奈が陽一の心の中でどんな存在か、優璃は痛いほど分かっていた。だからただ耐えるしかなかった。 その日、加莉奈は新しい楽しみを思いついたらしく、優璃を無理やりショッピングモールへ連れ出し、下着を選ばせた。 「仕方ないのよー。最近、陽一が激しくて。下着を何着も破られちゃったんだから……」 優璃は胸を刃でえぐられる思いで、それでもじっと耐え、何でもないふりをした。 加莉奈は何着か選んで試着室に入った。優璃がカーテンを閉めようとしたとき、ふいに手首を強くつかまれた。 「どこへ行くのよ。さっきからこの下着ばっかり見ていたじゃない」 加莉奈は冷たく笑った。 「そんなに着てみたいなら、チャンスをあげるわ」 反射的に断ろうとしたが、加莉奈はもう優璃の服を引っ張り始めていた。 「着ないなら人を呼んで、無理やり脱がせるわよ!」 どうすることもできず、優璃は下着に着替えるしかなかった。ところが次の瞬間、カーテンが勢いよく開け放たれる。 店じゅうの視線が一斉に優璃に注がれた。 胸がずしりと沈み、優璃は慌てて上着をつかんで体を隠そうとする。 しかし加莉奈は腕をぐいとつかみ、下着姿の優璃を無理やり通路へ引きずり出した。 「隠してどうすんの?こんなにいいスタイルなんだから、みんなに見てもらわなきゃ!」 優璃は必死にもがいたが、どうしても振りほどけない。 ドンッ。 床に突き飛ばされ、周りの通行人が次々と集まってきた。 男たちの卑猥な視線が、這い回る虫のように体にまとわりつく。吐き気がするほどおぞましいものだった。 「やめて……見ちゃだめ……っ!」 必死に体を隠し、優璃は震える声で訴える。 けれど周りの人々はいっそう調子に乗って、彼女の体をあれこれ品定めし始めた。 「そんな格好で身売りにでも来たのか?」 「うわ。そんな痩せこけた体でよく人前に出られるな」 「まあ、売る気があるならどうせ安いんだろ?」 加莉奈は口の端を持ち上げ、ふわりと軽い声で言った。 「ええ、もちろん。百円払えば、好きなだけ触っていいわよ」 その言葉を合図に、男たちが一斉に優璃を取り囲んだ。 優璃は必死に声を上げたが、周囲のざわめきにかき消されてしまう。逃れようとしても腕を掴まれ、身動きが取れない。 何人もの男に囲まれたまま、優璃はただ必死に抵抗するしかなかった。 そのとき、鋭い怒声が響いた。 「お前たち、何をしている!」 人々はぴたりと静まり返り、道を開ける。 通路の突き当たりに陽一が立っていた。目の前の光景が信じられないというように、その場に立ち尽くしている。 陽一の姿を認めると、加莉奈は悪意に満ちた目つきを引っ込め、慌てて駆け寄った。 「陽一!あなたのところの使用人、本当にお金に困ってるみたいよ。親切で下着を買ってあげたのに、それを着たまま試着室から飛び出してきて、お金さえ払えば誰でも触っていいって言うのよ」 それを聞いた陽一のこめかみに青筋が浮かんだ。怒りの中に苦痛が入り混じったような冷たい光が目の奥に閃く。 その眼差しは鋭い刃となって優璃の心臓を深々と突き刺し、優璃は息もできないほどの痛みに襲われた。 陽一は目の前の優璃を見据え、自分の上着を優璃の体に投げつけた。歯を食いしばるようにして一語ずつ吐き出す。 「……お前は、どこまで、安いんだ!」 第4話 優璃はしばらく呆然としていたが、やがてゆっくりと体にかかった上着を握りしめ、その中に顔をうずめた。 声を殺して流す涙が、上着を濡らしていく。胸が引き裂かれるように痛んだ。 どれほどのあいだ床にうずくまっていたのだろう。ふたりが去ってからずいぶん時間が経って、ようやく優璃は重い体を起こし、上着を羽織って出口へ向かった。 そのとき、モールの火災報知器がけたたましく鳴り響いた。 大勢の人が我先にと非常口へ殺到する。 優璃は焦り、衰弱した体も顧みず必死に人波へ紛れ込んだ。けれど足元はふらつき、後ろの人々は容赦なく優璃を押しのけていく。 「邪魔だ!どけよ!」 弱りきった優璃の体は、軽く押されただけで簡単に床へ崩れ落ちた。数えきれない足が頭上を踏み越えていき、痛みが波のように全身を襲う。 優璃は床に丸まり、両手で必死に頭を庇った。耳に届くのは騒がしい足音と悲鳴ばかり。まぶたはどんどん重くなり、視界がゆっくりとかすんでいく。 目からあふれた涙が、床の埃と混じり合って頬を汚した。 痛みに耐えきれず意識が途切れようとしたそのとき、遠くから聞き慣れた声が響いた。 「……優璃!羽村優璃!」 朦朧とした意識のまま顔を上げると、誰かが我を忘れたようにこちらへ駆けてくるのが見えた。 あまりに必死で、あまりに慌てていて、その目には優璃への思いだけがあふれている。 あれは……陽一。 …… 優璃は言い争う声で目を覚ました。 ゆっくりと目を開けると、自分が病院のベッドに横たわっていることに気づいた。 病室のドアは半開きで、外から陽一と加莉奈の言い合う声が聞こえてくる。 加莉奈は涙の跡だらけの顔で、目の前の陽一を責め立てていた。 「ただの使用人だって言ってたじゃない!火事の中まで飛び込んで助けたりするなんて!あの女、いったい何者なの!?」 陽一は眉間を押さえ、加莉奈を腕の中に抱き寄せた。 「言っただろ。あいつはただの使用人だって。余計なことまで気にするなよ。 な?いい子だから。これからはもう、あいつには関わらない。それでいいだろ?」 加莉奈は明らかに信じていない。泣き声混じりに言った。 「じゃあ、証明してみせてよ!陽一にとって何でもないって!」 陽一はしばし黙り込み、やがて病室のドアを押し開けて入ってきた。視線が優璃に落ちる。冷たく、そして複雑な色をした目だった。 優璃が顔を上げ、ふたりの視線がぶつかった。その瞳は光を失い、底なしの空洞のように虚ろで、陽一は思わず目を逸らした。 けれど外で悔し涙を流している加莉奈のことを思い出し、陽一はようやく優璃に視線を戻す。氷のように冷たい声だった。 「昔から金が好きなんだろう?大金をくれてやる」 次の瞬間、陽一は札束を取り出し優璃の顔に叩きつけた。 「看護師には黙っていてやる。酒を1本飲むごとに10万円やる。全部飲み干したら1000万円だ」 優璃の心臓が激しく波打った。 自分がアルコールアレルギーであることを、陽一だって知っているはずだ。 優璃の体がかすかに震える。口の中に血の味が広がるまで唇を強く噛みしめた。 しばらくして、彼女はようやく顔を上げた。独り言のようなかすかな声だった。 「……飲む」 まもなく陽一の秘書が、酒を山積みにしたワゴンを何台も次々と押してきた。 優璃は感覚が麻痺した操り人形のように瓶を手に取り、1本、また1本と口に流し込んでいく。 刺すような刺激が、火のように喉と胃を焼く。頭の中にあの頃の光景が浮かんだ。 あの年、陽一は酒の飲みすぎで胃から出血した。それで自分は胸が痛んで、酒に強いからと嘘をつき、陽一の代わりに酒を引き受けた。 けれど結局、アルコールアレルギーで病院に運ばれた。 陽一はすっかり取り乱し、自分まで倒れてしまいそうなほど憔悴しながら、3日間ほとんど優璃のそばを離れなかった。 それ以来、優璃には一滴も酒を飲ませなくなった。 それなのに、今は…… 優璃の胸は刃でかき回されるように痛んだ。10本目まで飲んだところで、もう堪えきれず、大量の血と一緒に酒を勢いよく吐き出した。 ちょうど回診に訪れた医師が入ってきて、その光景に青ざめて叫んだ。 「何を考えているんですか!癌で余命いくばくもないのに、お酒なんて!」 陽一ははっと驚き、その声が信じられないという震えを帯びている。 「……今、誰が癌だと言った!?」 第5話 今度は優璃が凍りつく番だった。 ずっと隠し通してきた秘密が、こんな形で暴かれるなんて、思ってもみなかったからだ。 慌てて弁解しようと口を開いた途端、大量の血が彼女の口からあふれ出し、そして目の前が真っ暗になり、意識は完全に途切れた。 「優璃!」 意識を失う最後の瞬間、目に映ったのは、我を失って狼狽する陽一の顔だけだった。 救急救命室の外で、陽一は血に染まった両手を見つめていた。 その目には、恐怖しかない。 人がこれほど大量の血を吐けるなど、今まで知らなかったのだ。 救急救命室に運び込まれてから丸ひと晩が過ぎたが、それでも優璃は出てこなかった。 激しい不安が茨のように心臓に絡みつき、じわじわと締めつけていく。息もできないほどの重苦しさだった。 ついにじっとしていられなくなり、陽一は勢いよく立ち上がって救急救命室へ向かった。 扉に手をかけたとき、頭の中にいくつもの光景が次々と浮かんだ。 医師たちに必死の救命処置を受けている優璃の姿を、直視できる自信がなかった。 扉に添えた手が激しく震え出し、一瞬、押し開ける勇気さえ失った。 石像のようにその場に立ち尽くし、ずいぶん経ってからようやく扉を開けた。しかし思い描いていたような光景は、そこにはなかった。 それどころか、優璃は何事もなかったかのように、主治医の前に座っていたのだ。顔には先ほどまでの衰弱した様子も青白さもなく、血色のいい頬には笑みさえ浮かべている。 その手には分厚い札束が握られていた。昨日、酒を飲ませるために叩きつけたあの金だ。 その光景を見て陽一の胸に安堵が込み上げた。 よかった。無事だった。 様子を尋ねようと歩み出しかけたとき、優璃が札束を医師の前に差し出し、こう言うのが聞こえた。 「先生、先ほどは合わせてくださってありがとうございます。 あの人、まんまと騙されてくれましたね。このあとも私の病状をもう少し重く伝えてもらえませんか。まだ信じてくれるようならもっとお金を出すかもしれません。そのときは山分けにしましょう」 医師は嬉しそうに笑い、金を受け取りながら何度もうなずいた。 「任せてください、お安い御用ですよ」 陽一の足がその場で凍りついた。胸の奥で怒りの炎が燃え上がった。 勢いよく駆け寄ると、机の上の札束をまとめて優璃の顔に叩きつけた。 「羽村優璃、また俺を騙したな!そんなに金に困っているのか!」 陽一の顔に浮かぶ怒りは、優璃を呑み込んでしまいそうなほど激しかった。心臓に鈍く重い痛みが広がる。 けれど最後まで優璃は何も言わなかった。陽一の言葉を黙って認めたかのように。 ドンッ! 凄まじい音を立てて閉まった扉に、心臓がびくりと跳ねた。もう限界だった。優璃は床に崩れ落ち、一口、血を吐いた。 傍らの医師が慌てて優璃を支え、薬を飲ませながら、やるせなさそうな声で言った。 「どうしてこんなことを?本当のことを話せばいいじゃないですか」 優璃は泣きながら首を横に振った。 「私はもうすぐ死ぬ。でも、あの人にはこれからの長い人生があるんです」 優璃は嘘をつくほうを選んだ。 そうすれば、たとえ本当に死んだあとでも陽一は憎しみを抱くだけで、自分のために悲しむことはないから。 もうすぐ死ぬ人間は、どうしたって死ぬ。 でも、生きている人は、この先も生きていかなきゃいけない。 陽一。 あなたには結婚して、子どもを持って、仕事でも成功して――そうやって、穏やかに幸せに暮らしてほしいの。 第6話 あの「茶番」が暴かれて以来、陽一は完全に優璃を遠ざけるようになった。 どこへ行くにも優璃を連れて行こうとはせず、ひと言も口をきかなくなった。 その冷たさは鋭い刃となって、少しずつ優璃の胸をえぐっていく。 そんな態度をすべて見ていた加莉奈はすっかり満足し、それからは優璃への嫌がらせをもう隠そうともしなくなった。 1日目。加莉奈は優璃を炎天下に立たせ、芝生の上にまき散らされた小さな真珠を1粒ずつ拾わせた。 容赦ない日差しの下で腰をかがめ、1粒、また1粒と拾い続ける。汗で服はぐっしょり濡れ、目の前が何度も真っ暗になった。ようやく最後の1粒を拾い上げたところで、熱中症で倒れた。 2日目。今度は屋敷の床をすべて磨き上げるよう命じてきた。隙間のひとつひとつまで丁寧に。 優璃は床に膝をついて拭き続け、水に浸かった手は白くふやけ、膝は擦れて血が滲んだ。 一睡もせず丸ひと晩かけて、ようやく床を磨き終えた。 そして、3日目。加莉奈は突然の思いつきで、街の北端にある店のお菓子が食べたいと言い出した。 優璃は何も言わず、街の南から北まで走って買いに向かった。 ところが買って帰ると、加莉奈は嫌そうに眉をひそめた。 「すっかり冷めているじゃない。買い直してきなさい」 優璃は一言も言い返さず、踵を返してもう一度走り出した。 今度は突然、激しい土砂降りに見舞われた。 お菓子が濡れないよう上着を脱いで箱をきつく包み込み、自分の体は雨に打たれるままにした。 顔の雨を拭う余裕もなく、彼女は長谷部家の屋敷へ向かってひたすら走る。 だが道路を渡ろうとしたそのとき、暴走した車が優璃に突っ込んできた。 ドンッ! 優璃の体は羽の折れた蝶のように宙を舞い、無残にも地面に叩きつけられた。 地面に落ちた瞬間、意識がかすんでいった。ブレーキの音、通行人の悲鳴、サイレン。 すべてが少しずつ遠のいていく。 死ぬのだと思ったそのとき、遠くから切羽詰まった声が聞こえてきた。 「おい、お嬢さん!大丈夫ですか?すぐ病院に連れていきますから!」 運転手が必死に肩を揺さぶり、優璃は少しずつ意識を取り戻した。 優璃が最初に確認したのは、運転手への返答ではなく、腕の中のお菓子の箱だった。 箱が無傷なのを確かめるとよろめきながら立ち上がり、かすれ声で絞り出した。 「いえ……大丈夫です。行かなきゃいけない用事があるので」 そう言って運転手の手を押しのけ、血まみれのまま長谷部家へ向かって走り出した。 痛みを必死に堪え、お菓子を加莉奈に差し出した。 加莉奈は血と泥にまみれた優璃の姿を見て、露骨に顔をしかめた。 箱を受け取ろうともせず、無造作に外のプールを指さした。 「ちょうどよかった。ネックレスをプールに落としちゃったの。潜って探してきてくれない?」 優璃の体がビクッと震えた。 車にはねられたばかりで全身の骨がきしむほど痛む。このうえプールに潜ってネックレスを探せば、水の中で死んでしまうかもしれない。 相手が動かないのを見て、加莉奈の顔がたちまち曇る。隣に立つ陽一の腕にすがりつき、甘ったるい声でねだった。 「陽一……」 陽一は視線を動かさないまま、冷淡にボディガードへ顎をしゃくった。 ボディガードがすぐさま進み出て、優璃を引きずってプールへ向かう。 手から菓子箱が落ち、お菓子が泥水の中に散らばった。 ザバーン! 冷たい水が一瞬で優璃を呑み込み、口、鼻、耳から容赦なく流れ込んで、残っていたわずかな酸素まで奪っていく。 優璃は必死にもがき、水面に浮かび上がろうとした。だが頭が水から出るたび、ボディガードが再び水の底へ押し沈めた。 「長谷部社長のご指示だ。ネックレスを見つけるまで上がってくるな」 その言葉は鈍器のように、優璃の心を強く打ちのめした。 肺が燃えるように痛む。優璃は歯を食いしばり、何度も、何度も水底へ潜っていった。 1分、また1分と、時間だけが過ぎていく。 力が尽きる寸前になって、ようやくネックレスを見つけ出した。 必死に岸へ這い上がり、それをボディガードに渡した途端、糸が切れたように体から力が抜け、優璃は完全に意識を失った。 第7話 優璃は痛みで目を覚ました。 やっとの思いで目を開けると、自分が使用人部屋のベッドに寝かされていることに気づいた。 時間を確かめようとスマホに手を伸ばしたが、腕が鉛のように重くどうしても持ち上がらない。 頭は重くぼんやりしている。喉は火に焼かれたように乾ききって、唾を飲み込むたびに刃物を飲み込むようだった。 事故のせいなのか、癌の痛みなのか、もう分からない。 痛みは鋭い針のように容赦なく優璃の全身を貫き、ベッドの上で丸くなって歯を食いしばった。それでも彼女は、苦しげな呻きを堪えきれなかった。 這うようにしてベッドを降り、引き出しを開けて薬を探そうとする。 けれど薬を取り出す前に、喉の奥に鉄の味がこみ上げ、勢いよく血を吐き出した。 優璃の手の中の錠剤がぱらぱらと床にこぼれ落ち、思わず胸を押さえるほどの激痛が走った。 そのとき、すぐそばに転がっていたスマホが鳴った。 彼女は朦朧としたまま手を伸ばし、電話に出た。 電話の向こうから陽一の息遣いが聞こえてきた。 一瞬、優璃の頭がぼんやりとする。愛し合っていた頃、熱を出したり具合が悪くなったりするたびにそうしていたように、彼女は無意識のうちに、電話の向こうの陽一に甘えるように、泣き声を漏らしていた。 「陽一……痛いの…… 痛い……痛くて、死んじゃいそう……」 電話の向こうの陽一は何も言わなかった。長い沈黙のあと、氷のように冷たい声がスピーカーを通して鼓膜を刺した。 「羽村優璃。そういう芝居はもうたくさんだ」 冷や水を浴びせられたように、優璃は一瞬で我に返った。 通話画面に表示された【長谷部陽一】の文字を見て、自分が何をしたのかようやく気づいた。 彼女は大きく息を吐き、痛みをどうにか抑え込んで必死に笑みを作った。 「もう騙されてくれないのね。陽一、その様子だと、本当にもう私を愛していないんだ」 愛していない。それでいい。 愛されていないほうが、ずっといい。 それから数日、陽一は一度も家に帰ってこなかった。 優璃は冷え切った部屋で丸くなっていた。捨て猫のようにやせ細り、息も弱々しい。 顔色は土気色になり、皮膚は透けそうなほどで、口元にはまだ拭いきれていない血の跡が残っている。瞳は光を失ったガラス玉のように虚ろだった。 優璃が陽一の姿を見られる方法はたったひとつ、加莉奈のSNSだった。 そこに並ぶ写真は、どれも鋭い刃のように優璃の胸を刺す。 陽一は加莉奈を連れて、かつてふたりがいちばん好きだったスイーツの店へ行っていた。 写真の中で陽一は、かつて優璃にしたのと同じように加莉奈へケーキを食べさせている。その眼差しは胸が締めつけられるほど優しかった。 ふたりは流星群も見に行ったらしい。加莉奈は陽一の腕の中に寄り添い、陽一はコートで加莉奈を包み込み、微笑みながら髪を撫でている。 いちばん痛かったのは、ふたりが観覧車の中で撮った写真だった。 陽一はかつて、観覧車のいちばん高いところでキスをした恋人たちは永遠に結ばれると言っていた。 今、陽一は加莉奈と最高点で写真を撮り、その唇に口づけている。目には愛情しかなかった。 優璃は何度も、何度もその写真を見返した。指が震えてスマホをほとんど握っていられない。 涙が止めどなくこぼれ、画面に落ちて陽一の顔をにじませた。 …… そんなある日、加莉奈が帰ってきた。 優璃の部屋のドアを開け、ベッドの上の骨と皮ばかりになった優璃を上から見下ろし、声には嘲りが満ちていた。 「ふふ。私のSNSを見ているんでしょう?だったら、ここ数日、陽一がどれだけ私を愛してくれているか、分かっているわよね?」 優璃は答えなかった。ただ黙って布団の端を握りしめる。 加莉奈は冷たく笑って続けた。 「ここ数日、陽一とはデートもしたし、肌も重ねたわ。恋人同士がするような甘いことは、一通り全部やったの。私たちの絆は十分に深いと思っていたのに、彼は結婚の話だけはどうしても進めようとしないの。 いくら考えても理由が分からなかった。でも今日、やっと答えが見つかったのよ」 最後まで言うと、加莉奈の目に恨みの色がよぎった。優璃が抵抗するのもかまわず腕をつかんでベッドから引きずり下ろし、部屋の外へ引っ張り出した。 優璃の体は弱りきってまともに立つこともできない。けれど加莉奈は容赦なく、壊れた人形のように薄暗い部屋へ優璃を放り込んだ。 パチン! まぶしい明かりがついた瞬間、優璃は反射的に目を覆う。 光に目が慣れゆっくりと手を下ろしたとき、目の前の光景に彼女は言葉を失った。 第8話 四方の壁いっぱいに、かつての優璃と陽一の写真が貼られていた。 とっくに燃やされたと思っていた日記、ラブレター、写真、贈り物。優璃にまつわるものすべてが大切に保管されている。 優璃の心臓が激しく波打った。複雑な感情が怒涛のように押し寄せ、すべてを呑み込んでしまいそうだ。 陽一はあれほど自分を憎んでいたはずなのに、どうしてこんな思い出を残していたのだろう。 深くは考えられなかったし、勝手な想像をする勇気もなかった。 陽一がまだ自分に未練があるなんて、そんな淡い期待を抱く勇気すらなかった。今の自分には、もう陽一の愛を受け止める力がない。 「……それで、私が何をすればいい?」 優璃は顔を上げた。声はかすれて疲れきっていた。 加莉奈は写真の前まで歩き、色褪せた写真の上に指先をそっと滑らせて小さく笑う。 「あんなにひどいことをしてきたのに、陽一は今でもあんたを愛しているわ。でもね、婚約者の心に他の女がいるのを許せる女なんて、どこにもいないのよ」 その声は雑談でもしているかのように軽かった。 「だから、彼があんたを完全に諦めるように、仕向けてくれない?」 優璃は両手で服の裾を強く握りしめた。指の関節が白くなる。顔は紙のように青白く、虚ろな目で壁一面の写真を見つめていた。 長い沈黙のあと、自分の声が響いた。 ずっと遠くから聞こえてくるようだった。 「……分かった。3日後の夜、陽一が屋敷に帰ってくるようにして」 …… 3日後、雨の夜。 黒いマイバッハが屋敷の前に静かに停まった。陽一は傘を差して石段を上がり、玄関の扉を押し開ける。 中は真っ暗で静まり返り、自分の鼓動しか聞こえない。 優璃に騙されて以来、陽一はこの家に帰りたくなくなっていた。優璃の顔も、もう見たくなかった。 あの顔は、かつての自分の深い愛情がいかに滑稽なものだったかを、嫌でも思い知らされるからだ。 けれど今日、加莉奈が突然、話があるから家に帰ってきてと言った。 それで陽一は渋々帰ってきたのだ。 1階には誰もいない。 加莉奈は眠っているのだろうと思い、階段を上がっていく。 そのとき、2階からかすかな声が聞こえてきた。 陽一の足がぴたりと止まる。 その声が何を意味するのか、陽一ほどよく知っている者はいない。 勢いよく顔を上げ、声のするほうへ目をやった。半開きになったドアの奥に、絡み合うふたつの影がぼんやりと見える。 近づくにつれて、情事の声は次第にはっきりしてきた。 「気持ちいい……もっと……もっと強く……あっ」 「この小悪魔め、そんなに欲しがって……」 露骨な言葉のひとつひとつが、平手打ちのように容赦なく陽一を打ちのめす。 彼は大股で進み、半開きのドアを蹴り開けた。 ベッドで絡み合っていたふたりは驚いて離れ、男は慌てて窓を乗り越え逃げていく。 一方、優璃はとっさに布団で体を隠したが、鎖骨に残った鮮やかな赤い口づけの跡は、陽一の目にはっきりと映っていた。 陽一は目を閉じ、怒りを通り越した深い悲しみを必死に抑え込む。 再び口を開いたときには静かな表情を取り戻していた。さっきまで今にも自制を失いそうだったのが、まるで別人のように。 「……どうして」 優璃、お前は一体、どうして…… 優璃は布団の中で縮こまり、指が震えて端さえ握っていられない。 嘲るような笑みを無理やり唇に浮かべる。声は軽く、どこか他人事のようだった。 「ふふふ。どうしてって、決まってるでしょう。あなたが他の人と結婚するっていうのに、私だって早く次のパトロンを見つけなきゃ」 ガシャン! どの言葉が逆鱗に触れたのか、陽一は突然狂ったように部屋のものを叩き壊し始めた。 椅子、花瓶、写真立て。壊せるものはすべて床に叩きつけられる。 優璃が我に返る間もなく、腕をつかまれ引きずり起こされると、そのまま屋敷の外へ引きずり出された。 激しい雷鳴が轟き、大雨が降り注ぐ。 雨に打たれ、無残な姿で地面に倒れ込んだ優璃を、陽一は石段の上から冷たく見下ろし、吐き捨てるように言った。 「羽村優璃。俺の世界から消えろ。二度と顔を見せるな!」 その声は刃のように、深く優璃の胸に突き刺さった。 優璃の心は千々に砕け散った。もう二度と元の形には戻らない。 バタン! 扉が乱暴に閉まり、陽一の冷酷な顔を視界から遮った。 もう、陽一の姿を見ることはできない。 優璃は絶望のなか目を閉じ、こらえきれず声を上げて泣いた。 どれくらい経っただろうか。力の抜けた体で立ち上がり、屋敷の外へ向かって歩き出す。 そこへ突然、スマホの着信音が鳴り、優璃の意識を現実へ引き戻した。 「羽村さん、先ほどの検査結果が出ました。かなり状態が進んでいます。今の様子ですと、残された時間は……おそらく3日ほどです」 優璃は口を開いたものの、しばらく声が出なかった。 やがて、ようやく小さく答える。 「……分かりました」 あと3日。 自分に残された時間は、もうそれしかない。 3日後には、羽村優璃という人間は、この世からいなくなるのだ。 第9話 残された時間があと3日ほどだと告げられたその日、優璃は病院のスタッフに手伝ってもらいながら、身の回りの整理を始めた。 自分名義の契約や連絡先を一つずつ確認し、必要な手続きを済ませていく。 最後の書類を鞄にしまったところで、ふいに涙がこぼれ落ちた。 こうして一つずつ片づけていけば、この世に残してきた自分の痕跡も、少しずつ消えていくのだろう。 翌日、優璃はどうしても行きたい場所があると頼み込み、体調を見ながら短時間だけ外出を許された。 車椅子で向かったのは、陽一と通った高校だった。 注射の跡が残る細い手を伸ばし、並木道の木、バスケットゴールのネット、教室の机と椅子を、一つずつゆっくりと撫でていく。 ふと、17歳だった頃の、まだあどけなさの残る陽一がそこにいるような気がした。 優璃を背負って並木道を駆け抜けてくれたこと。 抱き上げて、バスケットゴールに手が届くようにしてくれたこと。 机の間に閉じ込められるようにして、思うままキスをされたこと。 耳元で何度も「好きだよ」と囁いてくれた、17歳の陽一の声まで聞こえてくるようだった。 そして、残された最後の日。 優璃は病院の付き添いを受けながら、両親が眠る霊園を訪れた。 車椅子を墓前で止めてもらい、墓石に刻まれた二人の名前をじっと見つめる。 震える手で花を供えると、優璃は無理に笑った。 「お父さん、お母さん。もう少しだけ待ってて」 「もうすぐ、そっちに行くから」 夕陽が傾き、優璃の後ろには寂しげな長い影が伸びていた。 帰ろうと車椅子の向きを変えてもらったその時、優璃の視線がある一点でぴたりと止まった。 視線の先には、寄り添うように立つ男女の後ろ姿があった。 別れてまだ3日しか経っていないのに、病に苦しみ続けた優璃は、もう陽一の顔さえうまく思い出せなくなっていた。 優璃は呆然と彼を見つめた。 その姿を、この目に、記憶の奥に、最後まで焼きつけておきたかった。 少し離れた場所で、加莉奈を連れて両親の墓参りに来ていた陽一も、やがて優璃の存在に気づいた。 陽一はまるで見知らぬ他人でも見るように優璃を一瞥しただけで、すぐに視線をそらした。 優璃の胸が、針で何度も刺されるように痛んだ。 もうこれ以上ここにはいられない。 付き添いの人に車椅子を押してもらおうとした、その時だった。 「羽村優璃!」 加莉奈の声に呼び止められ、優璃はわけも分からないまま振り返った。 目の前に差し出されたのは、華やかな結婚式の招待状だった。 そこには、二人の名前が並んでいる。 【夏井加莉奈・長谷部陽一】 お似合いに並んだ二人の名前が、優璃の目に痛いほど突き刺さった。 ずっと昔、陽一に言われたことがある。 いつか結婚する時は、招待状には優璃の名前を俺より先に書く。 優璃がいつだって俺の一番だから――と。 耳元で、加莉奈の得意げな声が響いた。 「陽一は、あんたを長谷部家から追い出して、二度と顔も見たくないって言ってたけど、あれは勢いで言っただけよ。 だって、使用人が勝手に男を家に連れ込んで、家の中であんなことをしてたら、誰だって腹くらい立つでしょう? でも私から言っておいたの。あんたも長谷部家で何年も働いてたんだし、せっかくだから来てもらおうって。 明日、私と陽一、結婚式を挙げるの。ぜひ来てね」 結婚式。 優璃は口元にかすかな笑みを浮かべた。 きっと、行けない。 けれど結局何も言わず、ただ招待状を受け取って黙ってその場を離れた。 病院へ戻る道すがら、ふと昔、陽一と暮らしたアパートの前を通りかかった。 かつてふたりで暮らしたあの部屋にまた暖かな明かりが灯り、カーテンには寄り添うふたつの影が映っている。 ぼんやりと見入っていると、年老いた声が現実に引き戻した。 「あら、優璃ちゃんじゃない。何年ぶりかしら。あの頃の彼氏さんとはどうなったの?結婚した?」 声のほうを見ると、かつての大家さんが目もとに笑みを浮かべてこちらを見ていた。 優璃もつられて笑う。 「はい、うまくいってます。もうすぐ結婚するんです」 ただ、花嫁は自分ではない。 翌日、この街には珍しく、雲ひとつない青空が広がっていた。 優璃は病室のベッドに横たわり、静かに窓の外を眺めていた。 もう起き上がる力もほとんど残っていない。 痛みを和らげるための点滴がゆっくりと落ちる中、意識は少しずつ遠のいていった。 眠りに落ちそうになった、その時だった。枕元に置いていたスマホの画面が、ふいに光る。 久しぶりに、陽一からメッセージが届いていた。 【今日、俺の結婚式だ。いつ来る?】 優璃は震える手を伸ばし、どうにかスマホを手に取り、返事を打とうとする。 けれど指にはもうほとんど力が入らず、視界もぼやけて、文字さえまともに見えなかった。 それでも何度か画面に触れようとしたが、やがて腕から力が抜け、スマホがそっとシーツの上に落ちた。 もう、目を開けていることすらできない。 最後に、優璃の目尻からひと粒の涙がこぼれた。 「行かないよ、陽一…… もう……あなたの前には、現れないから……」 それきり、優璃は二度と目を開けなかった。

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