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花婿は俺なのに、オーダースーツを着るのは親友だった
彼女の柊涼音(ひいらぎ すずね)は数字に弱く、買い物をするたびに数を一つ多く間違える。 2人で出かけるときも、3人分の席を予約する。 「ごめん、間違えちゃった。あなたの親友も呼ぶ?」 俺・瀬名陽色(せな ひいろ)の誕生日にも、プレゼントを二つ買ってくる。 「ごめん、買いすぎちゃった。あなたの親友にも一つあげたら?」 そんなことが続くうちに、俺は感覚が麻痺し、このお決まりのパターンを受け入れるようになっていた。 結婚式の衣装を試着する日までは。 涼音は、ふいに手を伸ばして俺を遮った。 「陽色、あなたの衣装はあっちよ。これはグルームズマン用だから、親友の司に着てもらうの」 顔を上げると、目の前にあるオーダースーツは美しいシルエットに仕立てられており、襟には銀色に輝くダイヤモンドがあしらわれていた。 一方で、新郎である俺に残されたスーツは、どこにでもあるような安っぽい既製品で、シワが寄って薄汚れている。 その瞬間、俺の中で何かがプツリと切れた。 たった1着の高級オーダースーツまで鳴海司(なるみ つかさ)に譲る彼女に、これ以上執着する理由がどこにあるというのだろう。 俺は黙って視線を落とし、E国にいる指導教官へメッセージを送った。 【黒木先生、そちらの研究所はまだ人を募集していますか?】
Chapters (1)
第1章
彼女の柊涼音(ひいらぎ すずね)は数字に弱く、買い物をするたびに数を一つ多く間違える。
2人で出かけるときも、3人分の席を予約する。
「ごめん、間違えちゃった。あなたの親友も呼ぶ?」
俺・瀬名陽色(せな ひいろ)の誕生日にも、プレゼントを二つ買ってくる。
「ごめん、買いすぎちゃった。あなたの親友にも一つあげたら?」
そんなことが続くうちに、俺は感覚が麻痺し、このお決まりのパターンを受け入れるようになっていた。
結婚式の衣装を試着する日までは。
涼音は、ふいに手を伸ばして俺を遮った。
「陽色、あなたの衣装はあっちよ。これはグルームズマン用だから、親友の司に着てもらうの」
顔を上げると、目の前にあるオーダースーツは美しいシルエットに仕立てられており、襟には銀色に輝くダイヤモンドがあしらわれていた。
一方で、新郎である俺に残されたスーツは、どこにでもあるような安っぽい既製品で、シワが寄って薄汚れている。
その瞬間、俺の中で何かがプツリと切れた。
たった1着の高級オーダースーツまで鳴海司(なるみ つかさ)に譲る彼女に、これ以上執着する理由がどこにあるというのだろう。
俺は黙って視線を落とし、E国にいる指導教官へメッセージを送った。
【黒木先生、そちらの研究所はまだ人を募集していますか?】
第1話
俺が怒っていることに気づいた涼音は、顔色を変えた。
「司は10年来の親友でしょ。彼にグルームズマンを頼むくらい、いいじゃない」
「ごめん、陽色。僕の何がお前を怒らせたのかわからないけど。お前が怒ってるなら……」
司は大げさに手を振り、いかにも譲歩してやるといった態度で言った。「この衣装は譲るよ」
そう言うと、彼は高級オーダースーツを放り出し、ソファの隅でひとりいじけ始めた。
涼音は眉をひそめ、俺を冷たい目で一瞥した。
そして迷うことなく小走りで司のもとへ向かい、慰め始めた。
「司、この衣装はあんたの体に合わせて作ったのよ。襟のダイヤだって、私が一つずつ3か月かけて付けたんだから。着ないなんて言わないで」
「そうですよ」
見かねた新人の店員が、2人のそばへ歩み寄った。
「そのスーツは柊社長がご自身でデザインされたんです。型紙を引いてから裁断するまで、半年近くかかっているんですよ。
瀬名様、柊社長がどれほどあなたを大切になさっているか、おわかりでしょう。どうかご機嫌を直してください」
俺は呆気に取られた。
店員は、どうやら俺と司を勘違いしているらしい。
それでも彼女は、涼音の険しい視線に気づかないふりをして、なおも言葉を続けた。
「あちらのお連れ様の衣装をご覧ください。シワだらけの中古品です。タダでも欲しがる人はいないでしょう。それに比べれば、社長が瀬名様に向けるお気持ちこそ本物ですよ」
店員が言い終えた瞬間、店内は水を打ったように静まり返った。
不穏な空気を察した店員は、諭すように俺の肩を軽く叩いた。
「怒らないでくださいね。私、ご友人を慰めるために本当のことを言っただけですから。新郎が不機嫌だと場が重くなりますし、グルームズマンとして少し我慢していただけますよね?」
俺は苦笑した。
「でも、新郎は俺なんですけど」
店員の顔がこわばった。
大変な失言をしてしまったと悟った彼女は、恐る恐る涼音の顔を窺った。
涼音は苛立たしげに手を振り、店員を下がらせた。
「新人の言うことなんて気にしないで。あなたのスーツも私が選んだの。シワじゃなくて、そういうデザインなのよ」
俺は答えず、スマホに目を落とし、先生へ追ってメッセージを送った。
【先生、最短なら明日の夜の便に乗れます。そちらへ行ってもいいですか?】
「私が話してるの、聞こえてる?」
涼音はついに痺れを切らしたらしい。彼女は俺のスマホをひったくり、ソファの隅へ冷たく放り投げた。
「陽色、もう少し大人になれないの?すぐにそうやって無視するんだから。そんなことで、まともな夫になれると思ってるの?」
その冷たい顔を見て、俺は思わず鼻で笑ってしまった。
俺が無視しているだと?
喧嘩をするたびに連絡を絶つのは、俺ではなく涼音のほうじゃないか。
メッセージを送っても返事はなく、電話にも出ない。
何日かして家に戻ってくると、何事もなかったかのように「今日のご飯、何?」と聞いてくるのだ。
「俺が夫として不合格なら、司に代わってもらえばいい」
そう言って背を向けた俺の前に、司が先回りして立ちはだかった。
彼は眉を寄せ、目尻を赤くして、いかにも傷ついたような顔を作っている。
「陽色、本当に誤解してるよ。
僕と涼音は何もない。あの店員が勝手に言っただけだ。オーダースーツは、お前の衣装のほうだよ」
俺は司を頭の先からつま先まで眺めた。
エルメスのネックレス、ルイ・ヴィトンのショルダーバッグ、限定モデルのスニーカー。
手取り15万円のインターンに買えるような代物ではない。
何気なく涼音を見ると、司を庇うような愛おしげな表情で、彼を見つめていた。
その瞬間、心臓を強く鷲掴みにされたような痛みが走った。
7年付き合って、彼女が俺にくれた一番高価なものは、980円の安物のひげそりだった。
第2話
「あんなの勝手に帰らせればいいのよ!
今のうちにあのワガママを直してやらないと、将来痛い目を見るのはあいつよ」
涼音は俺を引き留めようとする司の手を振り払い、司の体に衣装を当てて見栄えを確認し始めた。
まるで、俺こそが彼女の新郎だという事実などすっかり忘れてしまったかのように。
「涼音、陽色を責めないでやってよ。最近、結婚式の準備でずっとピリピリしてるんだ。わざと拗ねてるわけじゃないさ。それに外は土砂降りだ。新郎を雨の中に追い出したら、風邪を引くよ」
司は俺を気遣うような言葉を並べながらも、試着の手を止めることはなかった。
窓の外では、雨脚がさらに強くなっている。
涼音は、俺が彼女の車でこの郊外の店まで来ていて、自力で帰る足がないことを知っていた。それでも平然と言い放った。
「雨に打たれて、少しは身の程を思い知ればいいのよ。私が甘やかしすぎたのね。自分の親友であるあんたにまで嫉妬するなんて、一体何様のつもりかしら」
その言葉を聞いて、俺はもう振り返ることなく雨の中へ飛び出した。
15分後、司がSNSを更新した。
【また涼音のロールスロイス・レイスに乗せてもらった。雨に一滴も濡れずに済んで、なんだか残念だな】
投稿された写真に写る車内は、俺にとっても見慣れたものだった。
これまで涼音の助手席に数え切れないほど座ってきたのは、俺の親友だった。
それでも俺は、ずっと気にしないように努めてきた。
2人の仲がいいことは、俺にとっても喜ばしいことだと思い込んでいたからだ。
だが、俺が折れるたびに、2人の態度はますますエスカレートしていった。
今回は、もう「いいね」もコメントもしなかった。
大雨の中を1時間近く歩き続け、ようやく家に戻った。
ずぶ濡れになった服を着替える間もなく、涼音からメッセージが届いた。
【まだレストランに着かないの?ぐずぐずしないで。私は司と先に行ってるから】
そういえば、試着の後は3人で星付きのレストランへ行く約束をしていたのだった。
【早く来てよ。いつも私たちを待たせるんだから】
こんなことは初めてではなかった。
一緒に食事をすると約束していても、司はいつも涼音の車に同乗してくる。そのため2人は先に着き、俺だけが10キロ以上離れた会社から向かうことになる。ようやく到着した頃には、料理は半分ほどなくなっているのが常だった。
俺が不満を漏らしても、涼音はいつも冷たかった。
【司は胃が弱いから先に食べてるの。まだそんなふてくされた顔をしてるなら、あなたの分も残しておいてあげないわよ】
以前の俺なら、その文面を見るたびに胸が締め付けられていた。
男の意地もあって何も言い返せず、黙って冷めた残り物を食べていた。
でも今回は、静かにスマホの画面を消した。
一言も返さなかった。
俺はもう、あの結婚式には出ない。
花嫁を奪う絶好の機会は、司にくれてやる。
午前0時になっても、涼音は帰ってこなかった。
俺はベッドで身を丸め、毛布を3枚重ねていたが、体の芯から冷え切っていた。
寒気に耐えきれず、かすれた声で涼音に電話をかけ、帰りに風邪薬を買ってきてほしいと頼んだ。
電話の向こうで少しの間沈黙があり、涼音は冷たく言い放った。
「電話をかける元気があるなら、大したことないでしょ?私を帰らせるための嘘じゃないの?」
背後からは、騒がしい音楽とグラスが触れ合う音が聞こえてくる。
やがて司が電話を代わり、酔った声で言った。
「陽色、心配するなよ。涼音は僕と一緒だからさ。僕がしっかり見張っててやる。ほかの男には絶対近づけさせないから」
俺が信じないと思ったのか、司はご丁寧に写真まで送ってきた。
そこには、涼音の首筋につけられたばかりのキスマークが写っていた。
「安心しろよ、陽色。僕がちゃんと『印』をつけておいたから。帰ったら、よく見比べてみろよ。お前のためにやったんだから、まさか怒らないよな?」
俺は自嘲気味に笑って首を振った。
「……怒ってないよ」
電話を切ると、俺は力を振り絞って起き上がり、自分の荷物をまとめ始めた。
最後の服をキャリーケースに詰めたとき、E国からメッセージが届いた。
先生からの返事は、たった一言だった。
【わかった。早く来い】
それを見て、俺はすぐさまE国行きの航空券を予約した。
第3話
頭が重く、浅い眠りを繰り返していた。
ようやくまどろみかけたとき、ヒステリックな声に叩き起こされた。
「陽色、どういうつもり?」
涼音は俺をベッドから引きずり起こし、リビングまで連れていくと、キャリーケースを指差した。
「荷物をまとめて何をする気?どこへ行くの?来週は結婚式なのよ。まだそんな当てつけみたいな真似をするつもり?」
俺はしばらく黙り込み、やがて口を開いた。「当てつけなんかじゃない。涼音、俺たちは別れよう」
彼女はその言葉が聞こえなかったかのように、苛立ちを露わにしてまくしたてた。
「司は、あなたがこの店の料理を食べたがっていたのを覚えていて、来なかったあなたのためにわざわざテイクアウトまで頼んでくれたのよ。なのに仮病を使って荷物までまとめて。今さら結婚の条件をつり上げようっていう魂胆なの?」
俺は眉をひそめた。
「涼音、正気か?」
「そういうところよ」
涼音は冷ややかな顔をした。
「司が言っていたわ。あなたの家は最初、2000万円を要求してきたって。でも彼が間に入って何度も説得してくれて、200万円まで下げさせたそうじゃない。
陽色、私にはお金があるけど、都合のいいカモになるつもりはないの。2000万円も出せば、あなたより顔がよくて優秀な男なんていくらでも見つけられる。わざわざあなたを選ぶ必要なんてないわ」
俺の口元は引きつり、怒りで体が震えた。
「俺が金目当てでお前と一緒にいるとでも言いたいのか?
7年間、お前が俺にくれたものを全部合わせても、司が履いているスニーカー1足分にも満たない。それでも俺はお前のそばにいた。俺が金を狙っていると、本気で思っていたのか?」
彼女は顔をそむけ、冷たく言い放った。「ほら、またそうやって細かく勘定して。お金なんて気にしていないと言いながら、結局は誰がいくら使ったか計算してるじゃない」
その瞬間、俺は呆れて笑うしかなかった。
涼音をあまりにも愛してしまった俺が、馬鹿だったのだ。
だからこそ、彼女に何度も俺を傷つけることを許してしまった。
「もういい。涼音、俺たちはこれで終わりだ」
そう告げると、俺はキャリーケースを引いて振り返ることなく家を出た。
彼女が俺の「別れよう」という言葉を聞き逃したのか、それともいつものように、ただ俺が拗ねて無視を決め込んでいるだけだと思ったのかはわからない。
だが、もうどうでもよかった。
この女を、俺はもう必要としていない。
その日の午後、E国へ持っていく日用品を買いにショッピングモールへ行くと、角を曲がったところで涼音と司に鉢合わせた。
司がショッピングカートを押し、涼音は彼の腕を親しげに組んで歩いていた。
動揺のあまり、俺は山積みにされていた石けんの陳列棚にぶつかってしまった。
石けんが大きな音を立てて床に散らばる。
2人は俺の姿を見た途端、弾かれたようにサッと身を離した。
「陽色、誤解しないでくれ。涼音に頼まれて、結婚式の買い出しに付き合ってるだけなんだ」
司は慌てて弁解しながら、カートに入った結婚式用の小物や新居用の寝具を見せてきた。
「何を言い訳してるの?いちいち面倒くさい。
たかがスーツ1着のことで、いつまで拗ねてるつもり?」
涼音は俺に見せつけるように再び司の手を取り、レジへと歩き出した。
その背中を見つめていると、胸にぽっかりと大きな穴が開いたようだった。
以前、俺が結婚式の準備のために一緒に買い物へ行ってほしいと頼んだとき、彼女はすべて拒否した。
そのうえ、こう吐き捨てたのだ。
「私は1時間で数十万円稼ぐのよ。あなたの買い物のために時間を空けろって?頭おかしいんじゃないの?」
それなのに今、彼女は司のためにわざわざ時間を空け、本来なら俺たち2人で選ぶはずの結婚用品を一緒に選んでいる。
モールを出ると、司はすでに購入した荷物をすべて車のトランクに積み終えていた。
彼は当然のような顔で運転席に乗り込み、窓を下ろして俺に手を振った。
「陽色、早く乗れよ。行きたいところまで送ってやるからさ」
俺が動かずにいると、司はわざとらしく声を上げた。
「あれ、ひょっとしてこの車、涼音が僕に買ってくれた新車だって知らなかった?」
すると、司が得意げに口を開いた。
「涼音の送り迎えをすることが多いから、そのお礼に買ってもらったんだ。嫉妬するなよ」
涼音も冷たく言い放つ。「乗りたくないなら、無理に乗せたりしないわ。甘やかすつもりもないし。男のくせに、いつまでもネチネチと。本当にみっともないわね」
言い終わるか終わらないかのうちに車は発進し、俺の目の前を走り去っていった。
排気ガスを顔に浴びながら、俺はその場にただ立ち尽くしていた。
第4話
2時間後、俺は国際空港に到着した。
搭乗口へ向かう前に待合スペースで時間を潰していると、柊美智子(ひいらぎ みちこ)からメッセージが届いた。
【陽色くん、今どこにいるの?一緒に食事でもどう?】
文字を入力しては消し、さんざん迷った末に、俺はその誘いを受けることにした。
婚約を解消すると決めた以上、双方の親には俺の口から直接説明するべきだ。
7年付き合ってきた間、涼音の母親である美智子は、俺によくしてくれていた。
だが、レストランの個室に入った瞬間、これが穏やかな話し合いなどではなく、俺をなだめすかすための席だと悟った。
涼音は司の腕を親しげに組んで上座に座っており、俺には向かい側の末席しか残されていなかった。
「陽色くん、よく来てくれたわね」
美智子が立ち上がって迎えてくれた。一方、涼音はあからさまに嘲笑うように口元を歪めた。
「お母さん、だから心配しすぎだって言ったでしょ。陽色が私から離れられるわけないのよ。あんなに私に執着してるんだから、わざわざ仲直りの場なんて用意しなくてよかったのに」
美智子は気まずそうに咳払いをした。
涼音はそれには構わず、メニューを俺の前へと放り投げた。
「ほら、注文して。お坊ちゃん。先に言っておくけど、お母さんに頼まれたから来てあげただけよ。私が来たかったわけじゃないんだからね」
俺は唇を噛み締め、かつて心から愛した彼女の目を見つめた。だが今はもう、何の感情も湧いてこなかった。
昔の彼女なら、俺の腕に甘えるように絡みつき、「何が食べたい?」と優しく聞いてくれたはずだ。
俺が少し眉をひそめただけで、料理が口に合わないのか、それとも部屋の温度が合わないのかと、いつも心配そうに顔を覗き込んできたものだ。
しかし今、そのすべての優しさは司に向けられている。
「お気遣いありがとうございます、おばさん。でも、結構です。
俺と涼音は……もう別れました」
声に力を込め、はっきりと告げた。
その場にいた全員の顔色が変わった。
涼音の顔には一瞬動揺が走ったが、すぐに軽蔑の色へと変わった。
「やっぱり司が言っていた通りね。土壇場になって、より多くの金を引き出そうっていう魂胆でしょ。ネットのくだらない昼ドラにでも影響されて、拗ねてみせれば私がお金を積むとでも思った?寝言は寝て言いなさいよ」
司はわざとらしく困ったような顔で俺を見て、首を振った。
「陽色、僕はそんなこと言ってないよ……」
そう言いながら、司は立ち上がって俺の前へ来た。
彼は俺の手をつかむと、その拳を自分自身の頭へ打ち付けようとした。
「僕を殴り殺せばいい!だから婚約を破棄するなんて言わないでくれ。ごめん、僕が涼音と買い物なんかしなければ……」
俺は眉をひそめ、必死に手を振りほどいた。
それなのに次の瞬間、なぜか司の額が大きく腫れ上がり、目を疑うほどの血が流れ出した。
「痛い――!」
悲鳴が個室の空気を切り裂いた。
「どうして頭から血が出てるの!」
涼音は狂ったように俺を押しのけ、司の怪我を確かめた。
俺を置いて病院へ向かう前、彼女は振り返り、吐き捨てるように言った。
「陽色、最低ね。私が結婚式をボイコットしたらどうするつもり?」
俺は力なく首を振った。
自分の荷物を手に取り、美智子へ深く頭を下げる。
「おばさん、7年間お世話になりました。さようなら」
美智子は何か言いかけたが、結局、口を閉ざした。
司の怪我を心配した涼音は、5日間ずっと病院に付き添っていたらしい。
6日目になって、ようやく親友の佐藤結葉(さとう ゆいは)が声をかけた。
「涼音、そろそろウェディングドレスに着替えなくていいの?控室の外で待たせてる瀬名さん、焦れてるんじゃない?」
涼音はそこで初めて、今日が結婚式当日であることを思い出したようだ。
彼女は急ぐ様子もなく、スマホでメッセージを打った。
【少し待たせておけばいいわ。司を怪我させた罰よ】
1時間後。
身支度を整え、俺がデザインした金色のブーケを手にした涼音は、高慢な顔で言った。
「よし、陽色を入れて」
そのとき、結葉がドアの隙間からためらいがちに入ってきた。
「涼音……外に、誰もいないよ。
瀬名さん、結婚式を逃げちゃったみたい」