第1章
役所の婚姻届の受付時間終了まで、あと15分。
私、白川茉央(しらかわ まお)と佐伯礼人(さえき あやと)はようやく駆け込んだ。
階段の下に集まっていた友人たちが、急かすように声をかけてくる。
「早く入りなよ!やっとこの日が来たね。8回目の正直でようやく入籍に間に合ったじゃない!」
親友の松本彩音(まつもと あやね)は目を潤ませながら、私のメイクを直してくれた。
入り口に向かおうとした途端、突然、後ろの車の後部座席から礼人の幼馴染である桜井莉乃(さくらい りの)の声が聞こえた。
「ちょっと待って、お守りの組紐ブレスレットが切れちゃったの。編み直さなきゃ」
礼人は立ち止まってこう言った。
「分かった。急がなくていい」
莉乃はうつむいて紐を整えながら、私に向かって笑みを浮かべた。
「茉央、焦らないで。すぐに編み直すから。これ、あなたたちの結婚生活がうまくいくようにって、私が特別に用意した開運のブレスレットなんだよ」
そう言うと、彼女はごく自然な動作でスマートフォンを礼人に差し出した。
「ちょっと持ってて」
礼人はそれを受け取った。
その場が急に静まり返った。
ついさっきまで囃し立てていた友人たちも、皆顔色を変えた。
私は彼を見た。「礼人、役所の窓口は17時で受付終了なの。今入れば、ちょうど間に合うわ」
礼人は眉をひそめた。「俺はもうここに来てるんだ。数分くらい待っても変わらないだろ」
車のそばに立ち、莉乃がブレスレットを編み直すのを待っている彼を見て、私はふと笑みがこぼれた。
うつむいてスマートフォンを取り出し、ある番号にメッセージを送った。
【8回目の入籍もダメなら、自分も候補に入れてって言ってたわよね?17時までに、役所に来て】
第1話
メッセージを送信すると、スマートフォンはすぐに振動した。
相手からの返信は、たった一言だった。
【わかった】
私はその文字をしばし見つめてから、画面をロックした。
役所の入り口にある電光掲示板の時計が、ちょうど16時46分に切り替わった。
業務終了まで、残りわずか14分。
彩音が焦り出した。「茉央、これ以上は引き延ばせないよ。前回のことを忘れたの?あんたが冷たい木枯らしの中で丸1日待たされて、最後はあと5分のところでシステムが締め切られて、入籍できなかったでしょ!
婚姻届の提出って、パッと出して済む話じゃないんだよ?書類の記入にも確認にも、すごく時間がかかるんだから!今入らないと、今日もまた無駄足になっちゃう」
そばにいた友人も一緒に説得し始めた。
「礼人、先に入れって。ブレスレットなんて後回しでいいだろ。入籍より大事なことなんてないはずだぞ」
入り口に立っていた警備員も、親切に注意してくれた。
「婚姻届を出される方は急いでください。窓口は17時きっかりに閉まります。システムが落ちたら、誰が来ても対応できませんよ」
その言葉が響き、周囲はさらに静まり返った。
皆が礼人を見つめていた。
しかし、彼はまだ車のそばに立ち、莉乃のスマートフォンを持ったままだった。
莉乃はうつむき、ほどけた組紐をのんびりと編んでいる。
「礼人、この結び方で合ってる?ちょっと見てくれる?」
礼人はうなずき、ただ一言答えた。「ああ、合ってる」
私は呆れのあまり、思わず声を上げて笑ってしまった。
「礼人、今日が何の日か本当に分かってるの?」
彼の顔に一瞬、罪悪感がよぎった。
「茉央、安心しろ。ちゃんと計算に入ってる、遅らせたりはしないから」
遅らせたりはしない?
しかし今日という日は、すでに彼と約束した8回目の入籍日なのだ。
1回目、私は3日前にメイクさんを予約し、完璧にメイクを済ませて彼を待っていた。
莉乃が突然胃痛を訴えた。彼は「莉乃を病院へ連れて行く」と言い出し、私との約束をあっさりとすっぽかした。
2回目、私が一人で書類を抱えて彼のところまで足を運び、役所で順番待ちの番号札まで取って待っていた。
莉乃は今度、家の電球が切れて暗いのが怖いと言い出した。
礼人は私に、また今度にしようと言った。
……
7回目、私はすべての書類を準備し、彼さえ来れば入籍できる状態だった。
第2話
だが、莉乃の飼い猫がいなくなった。
彼は午後ずっと、彼女に付き添って猫を探し回っていた。
私たちが入籍しようとするたびに、莉乃には決まって何かしらのハプニングが起きた。
そのせいで、私たちの入籍は礼人の手によって幾度となく先延ばしにされてきた。
役所の入り口にある電光時計の数字が、カチリと変わった。
16時48分。
彩音は私の手首をぎゅっと掴んだ。
「茉央、あと12分しかないよ。もう本当に待てないって!」
私はうなずき、礼人へと視線を向けた。「礼人、今すぐ私と一緒に中へ入って」
礼人はようやく顔を上げたが、私を見るその目には明らかな苛立ちが混じっていた。
「茉央、いちいち急かさないでくれないか?間に合わせるって言っただろ。どうしてこの数分が待てないんだ?
莉乃がブレスレットを編み直してくれてるのも、俺たちの結婚生活が順調にいくように願ってのことだろ。お前、少しは物分かりよくできないのか?」
莉乃もそれに同調して口を挟む。
「そうだよ、茉央。このブレスレットはね、私と礼人がわざわざ特別に用意したものなんだよ。あなたたちの結婚生活を守ってくれるんだから。
今日いきなり切れちゃったのに、ちゃんと直さなかったせいで、万が一この先あなたたちの仲がこじれちゃったらどうするの?
私も、あなたたちのために良かれと思ってやってるんだよ」
彼女の口調は悪びれる様子もなく、まるで本気で私のことを思っているかのようだった。
礼人もやれやれとため息をつき、ひどく呆れたような目で私を見た。
「茉央、わがまま言うなよ」
わがまま?
その言葉を聞いて、私は思わず失笑した。
要するに、彼の目には莉乃が全員を待たせてブレスレットを編むことは「わがまま」には映らず、私が入籍を急かすことだけが「わがまま」に映るらしい。
役所の電光時計が再びカチリと変わった。
16時49分。
フロアの奥では、職員たちがすでに書類の整理を始め、退勤の準備に取り掛かっている。
私は目を閉じ、深く息を吸い込んで波打つ感情を鎮めた。そして礼人を真っ直ぐに見据え、はっきりと言い放った。
「礼人、今日の17時までに、私は絶対に入籍するから」
礼人は眉間にしわを寄せ、いらだたしげな表情を浮かべた。
突然、莉乃が「あっ」と小さく声を上げた。
次の瞬間、組紐が再びほどけ、数粒のパワーストーンがバラバラと地面に転がり落ちた。
莉乃は一瞬で目を潤ませ、しゃがみ込むと、慌てた様子で石を拾い集め始めた。
「嘘でしょ……あともう少しで編み終わるところだったのに。礼人、探すの手伝って!一粒でも欠けたらダメなの」
礼人が腰をかがめようとした時、彩音はとうとう我慢の限界を超えて声を荒らげた。
「莉乃、いい加減にしてくれない!?今日は茉央と礼人の入籍日なの!あんたのお守りパフォーマンスを見せつける場合じゃないのよ!」
莉乃の手がピタリと止まった。彼女は顔を上げると、ひどく潤んだ目で彩音を見つめた。
「パフォーマンス?彩音、どうしてそんなひどいこと言うの?これは二人のお守りなのよ。二人の結婚がうまくいくようにって、私が一生懸命準備したものなのに」
彼女は唇を噛みしめ、私へと視線を向けると、ひどく傷ついたような震える声で言った。
「茉央、私は本当にあなたたちのためにやってるんだよ。あなたたちの結婚が順調にいくように願うことの、一体どこがいけないの?」
さすがに周囲の友人たちも見かねたようだ。一人がなだめるように口を開く。
「莉乃、とりあえず探すのは後にしよう。入籍が終わってからでも同じだろ。今は本当に時間がないんだって」
しかし、莉乃は即座に首を横に振った。
「同じなわけないじゃない!このブレスレットは、入籍の時につけてこそ意味があるの。そうやって二人の結婚をお守りするものなんだから。もしつけないで、万が一この先二人の関係がダメになっちゃったらどうするの?」
彼女はそう言いながら、ポロポロと涙をこぼし始めた。
「私はただ、良い縁起を担ぎたかっただけなのに……どうしてみんな、私が邪魔してるみたいに言うの?」
その言葉を聞いた瞬間、礼人の顔色が険しいものへと変わった。
第3話
礼人は莉乃をかばうように前に立ちふさがり、周囲の友人たちを睨みつけた。
「もういいだろ。莉乃だって良かれと思ってやってるんだ。そうやって寄ってたかって責め立てるなよ」
そして、私の方へ視線を向けた。
「茉央、あと2分だけ待ってくれ。莉乃に紐を結び直させたら、すぐに中へ入って婚姻届を出そう」
待つ、ですって?
それを聞いて、私は思わず乾いた笑いを漏らした。
「礼人、前回のことを覚えてる?」
彼は一瞬、言葉に詰まった。
私は構わず言葉を重ねた。
「前回の交際5周年記念日、一緒に役所へ行く約束だったのに、あなたは『莉乃が低血糖で倒れたから、ロビーで10分待っててくれ』って言ったわよね。
結局、私は窓口が閉まる時間まで待たされて、最後にあなたから来たメッセージは『彼女の具合が悪いから先に家まで送る。入籍はまた今度にしよう』だった」
礼人はわずかに顔色を変え、弁解するように言った。
「あの時は特殊な状況だったんだ。莉乃は本当に苦しそうだったから」
私は静かにうなずいた。
「じゃあ、私の誕生日の時は?莉乃が足を捻挫したからって、あなたが彼女を抱えて病院へ行って、私には役所で合流しようって待たせたわよね。
バレンタインデーの時は、莉乃の元カレが騒ぎを起こしたからって、彼女が怯えてるから入籍は数日待ってくれって言った」
私が事実を一つ口にするたびに、礼人の顔色はどんどん険しくなっていった。
だが、莉乃は涙声で口を挟んできた。
「茉央、そうやって昔のことを一つひとつ蒸し返して、私のことを責めてるの?でも、あれは全部ただのハプニングで、私にもどうしようもなかったんだよ……」
私は彼女を見て、静かに首を横に振った。
「あなたのことは責めてないわ」
そう言ってから、うつむいてスマートフォンの画面に目を落とす。
16時51分。
役所の窓口が閉まるまで、残り9分。
私は手元の書類をゆっくりとバッグにしまい、淡々と言った。
「編んでていいわ。もう急かさないから。でも今日、私は絶対に入籍する」
16時53分。両親から電話がかかってきた。
電話口の母の声は、とても弾んでいた。
「茉央、無事に入籍は終わった?お父さんと一緒にご馳走の準備もできたし、あなたのおじさんたちももうすぐ着くわ。二人が帰ってきてお祝いするのを待ってるからね」
その言葉を聞いた瞬間、喉の奥に何かがつかえたように、一文字も言葉が出てこなくなった。
見かねた彩音が、目を赤くして代わりに口を開いた。
「おばさん、まだ終わってないんです。礼人の幼馴染のお守りブレスレットが切れちゃって、礼人は彼女が編み終わるのを待ってから入籍するって言ってるんです」
電話の向こうが、不自然なほど静まり返った。
数秒ほど経ってから、父が怒りを押し殺したような低い声で尋ねた。
「礼人くんは、そばにいるか?」
礼人は眉をひそめたが、それでも電話に向かって返事をした。
「います」
父の声はひどく沈んでいた。
「礼人くん、お前と茉央は7年間も付き合ってきた。女の身で28歳になるまでお前を待ち続けて、 一番大切な時期を全部お前に捧げてくれたんだぞ。
何度も入籍すると言いながら、その度に他人のせいで引き延ばす。これがまともな男のやることか?」
母もたまらず口を挟んだ。
「礼人くん、茉央が今日のために、朝の5時に起きて身支度をしたのを知ってるの?家にはお祝いの飾り付けも済ませて、ご馳走もテーブルに並べて、親戚や友達もみんな、あなたたちが今日入籍することを知っているのよ……」
母は最後まで言うと、その声は微かに震えていた。
「それに、もうこれで8回目じゃないの!とりあえず茉央と先に入籍を済ませられないの?入籍が終わってからでも、お守りくらい編めるでしょう?」
礼人は言葉に詰まった。
しかし、莉乃が泣きながら横から口を出した。
「おばさん、そんな風に言わないでください。このお守りは二人の結婚がうまくいくように守るためのものなんです。切れたままなんて縁起が悪いじゃないですか。
私、もう直しているところで、すぐに編み終わりますから。二人の入籍の邪魔にはなりません。
ごめんなさい、私もただ二人を祝福したかっただけで、こんなハプニングが起きるなんて思わなくて……」
第4話
莉乃の声はか細く、いかにも不憫そうで、まるで全員から寄ってたかって虐げられている被害者のようだった。
礼人は即座に眉をひそめた。
「莉乃、そんなこと言うな」
そしてスマートフォンに向かって、少し冷ややかな口調で言った。
「おじさん、おばさん。お二人が焦る気持ちは分かりますが、莉乃だって悪気はないんです。俺たちのためにわざわざ用意してくれたお守りなのに、石が散らばったまま放っておかせるなんて、それもあんまりじゃないですか」
父は怒りで声を震わせた。
「じゃあ、茉央はどうなる!あの子はずっとお前を待たされていればいいと言うのか!」
礼人は一瞬言葉に詰まったが、すぐに請け合った。
「茉央とはちゃんと入籍します。もし今回間に合わなくても次回がありますから。安心してください、俺は絶対に彼女と結婚しますから」
また「次回」
この7年間、私は一体何度その言葉を聞かされてきただろうか。
私は深く息を吸い込み、彼の手からスマートフォンを取り上げて言った。
「お父さん、お母さん、心配しないで。今日は絶対に入籍するから」
そう言い残し、私は通話を切った。
礼人は私を睨みつけ、不快そうに眉間を寄せた。
「茉央、お前はそこまでして俺を追い詰めたいのか?」
私は顔を上げて彼を見つめた。心の中は、自分でも恐ろしいほど凪いでいた。
――分かっていたのだ。このまま時間を潰せば、今日は入籍できなくなることを。
両親が待ちわびていることも、友人たちが気を揉んでいることも。
そして、私が幾度となく後回しにされ、どれほど惨めな思いをしてきたかということも。
全部知っていて、それでも彼は、私を待たせることを選んだ。
私は彼を見据えて問い返した。
「追い詰めてる?私と入籍することが、あなたを追い詰めることなの?」
礼人は露骨に不機嫌な顔になり、吐き捨てるように言った。
「茉央、いい加減にしろ!」
私はもう彼を相手にするのをやめ、視線をスマートフォンに落とした。
あの連絡先のトーク画面に、新たなメッセージがポップアップした。
【すぐ着く】
16時56分。警備員が再び入り口から顔を出した。
「あなたたち、結局手続きはするんですか!?残り4分ですよ。今入らないと、今日は本当に対応できませんからね」
彩音は焦りのあまり涙声になっていた。
「礼人、聞こえてる!?あと4分しかないんだよ!」
友人たちも次々と声を荒らげた。
「礼人、先に入れよ!また茉央の苦労を水の泡にする気かよ」
礼人は莉乃に視線を移した。
莉乃は組紐をぎゅっと握りしめ、目を真っ赤に腫らしていた。
「礼人、先に入って。私のことは気にしないで。どうせ私は部外者だもん。私からの祝福なんて、そんなに重要じゃないよね……」
そう言い残すと、彼女は再びうつむいてパワーストーンを探し始め、その華奢な肩を小刻みに震わせた。
礼人はハッとして顔色を変え、慌てて彼女を慰めた。
「馬鹿なこと言うなよ、お前は部外者なんかじゃない」
その言葉が響いた瞬間、周囲は水を打ったように静まり返った。
その場にいる全員が、いたたまれないような痛ましい視線を私に向けている。
しかし、私はひどく落ち着いていた。
淡々とバッグから書類を取り出し、踵を返して役所の入り口へと歩き出した。
背後で、しゃがみ込んでいた礼人が勢いよく立ち上がった。
「茉央、お前何する気だ?」
私は電光時計を見上げた。
「言ったでしょ、今日は絶対に入籍するって。だから、書類を提出しに行くのよ」
礼人の表情が一瞬で険しくなった。
彼は大股で追いつくと、私の手首を乱暴に掴んできた。
「茉央、意地を張るのはやめろ。俺が一緒に入らないのに、お前は誰と入籍するって言うんだよ?」
私は手首を掴む彼の手を見下ろし、ゆっくりと、しかし力強くその腕を引き抜いた。
「だったら、あなたとは入籍しないわ」
その一言が落ちた瞬間、階段の下は不気味なほどの静寂に包まれた。
あちこちから小声で囁き合う声が漏れた。
「茉央、相当頭にきてるんじゃない?」
「礼人を焦らせて、無理にでも中に入らせようとしてるのよ」
「でも茉央のことは責められないわよね。これで8回目の入籍なのよ?誰だって耐えられないわ。私だったらとっくに気が狂ってる」
それらの声は確かに私の耳に届いていたけれど、私の心にはさざ波一つ立たなかった。
第5話
みんな、私が当てつけで怒っているのだと、無理に入籍を迫っているのだと思っていた。
だけど、私自身は分かっていた。ただもう、二度と彼を待ちたくないだけなのだと。
その時、莉乃があの組紐を握りしめて立ち上がり、真っ赤な目で私を見た。
「茉央、そんな風に意地を張らないで……入籍は二人のことなのに、どうしてそんなことで礼人を脅したりするの?
礼人はもう役所に来てくれてるんだよ?ただ私に、あなたたちへの祝福を最後まで届けてほしいだけなのに……こんな風に彼を追い詰めたら、礼人だって辛いはずだよ」
礼人はその言葉でようやく我に返ったように、ひどく失望した目で私を見た。
「茉央、お前いつからそんな風になったんだ?昔はもっと聞き分けが良かったのに」
彼を見つめながら、私はふいに笑いが込み上げてきた。
「聞き分けがいい?それって、7回も入籍をすっぽかされて、それでも笑って『気にしないで』って言うこと?」
礼人はごくりと唾を飲み込んだ。
私はそのまま言葉を続ける。
「私の両親が何度もお祝いのご馳走を準備しては、そのたびに落胆させられること?それとも、今日の17時で窓口が閉まるっていうのに、私がここに立って、あなたの幼馴染がお守りを編み終わるのを待っていること?」
彼の顔色が、少しずつ強張っていった。
私の声はひどく静かだったが、一言一句がはっきりと響いた。
「礼人、私は聞き分けが悪いんじゃないわ。物分かりよく振る舞いすぎただけよ。あまりにも長すぎて、あなたも忘れてしまったんでしょうね。私だって、傷ついて痛みを覚える人間だってことを」
16時58分。
役所のロビーに、職員のアナウンスが響いた。
「最後に手続きされる方は急いでください。今すぐ書類を出していただけないと、システムが終了してしまいます」
私はもう礼人を見ることなく、踵を返して役所のロビーへと足を踏み入れた。
彩音がすぐに駆け寄ってきて、声を震わせた。
「茉央……」
彼女は私を慰めようとしてくれたが、私は首を横に振って見せた。
そして、必要書類を窓口に差し出した。
職員が顔を上げて私を見た。
「婚姻届の提出ですか?」
私はうなずいた。「はい」
彼女は、私の背後をちらりと見た。「お相手の男性は?」
私が口を開く前に、背後から足音が聞こえてきた。
礼人が、友人たちに背中を押されて入ってきた。
「礼人、もう意地を張るなよ!ここまで来たら、先に入籍済ませろって。これ以上引き延ばしたら、本当に茉央に捨てられるぞ」
礼人はひどく不機嫌な顔をしていた。
私の後ろに立った彼の手には、まだ莉乃のスマートフォンが握りしめられていた。
その瞬間、ひどく滑稽で、皮肉なことだと思った。
役所の窓口まで来ているのに、彼の手にあるのは、相変わらず他の女の持ち物なのだ。
私は振り返って彼を見た。
「礼人、今は16時58分。役所の窓口はもうすぐ閉まる。最後に一度だけ聞くわ。私と入籍するの?それとも、しないの?」
ロビーにいる全員の視線が彼に集まった。
窓口の職員も手を止めて彼を見ている。
礼人は手をぎゅっと握りしめ、その瞳の奥に一瞬だけ動揺を走らせた。
だがすぐに、その僅かな動揺は苛立ちへと塗り潰された。
「茉央、もう時間は間に合わないだろ。次にしよう。莉乃がお守りを編み終わってから、それを身につけて手続きに来た方が縁起もいいだろ」
その言葉を聞いて、私はふっと笑みをこぼした。
「やっぱり、いつもと同じね」
礼人が眉をひそめる。
「何が同じなんだよ?」
私は答えなかった。もう、答える必要なんてないからだ。
16時59分。
入り口から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
その場にいた全員が、無意識にそちらへ目を向けた。
黒いスーツに身を包んだ男がロビーに駆け込んできて、一直線に私の前まで進み出ると、私に向かって手を差し出した。
「茉央、行こう。入籍しに」