後悔しないように

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大晦日の夜。人混みに押された私は、あろうことか夫の想い人を突き飛ばしてしまった。 その事故が原因で彼女は流産し、二度と子供を望めない体になった。 夫は冷酷にも手術の同意書にサインし、「命をもって償え」と私に告げた。 兄は病室で、私の額が割れるまで九十九回、床に頭を打ち付けて詫び続けろと命じた。 息子は泣きじゃくりながら言った。「僕が梨乃さんの子供になる。それがママの罪滅ぼしになるんでしょ」と。

Chapters (1)

第1章

大晦日の夜。人混みに押された私は、あろうことか夫の想い人を突き飛ばしてしまった。 その事故が原因で彼女は流産し、二度と子供を望めない体になった。 夫は冷酷にも手術の同意書にサインし、「命をもって償え」と私に告げた。 兄は病室で、私の額が割れるまで九十九回、床に頭を打ち付けて詫び続けろと命じた。 息子は泣きじゃくりながら言った。「僕が梨乃さんの子供になる。それがママの罪滅ぼしになるんでしょ」と。 第1話 大晦日の夜。人混みに押された私は、あろうことか夫の想い人を突き飛ばしてしまった。 その事故が原因で彼女は流産し、二度と子供を望めない体になった。 夫は冷酷にも手術の同意書にサインし、「命をもって償え」と私に告げた。 兄は病室で、私の額が割れるまで九十九回、床に頭を打ち付けて詫び続けろと命じた。 息子は泣きじゃくりながら言った。「僕が梨乃さんの子供になる。それがママの罪滅ぼしになるんでしょ」と。 額から流れた血が、床を赤く染めていく。私は薄れゆく意識の中で夫の足にすがりつき、助けてと乞うた。 だが、彼は私を蹴り飛ばした。 「演技はやめろ。死ぬならよそで勝手に死ね」 私は床に転がったまま、涙交じりに笑い声を上げた。 ああ、私、本当に死ぬんだな。 私が息絶えた後、ようやく真実が白日の下に晒された。 あれほど私の死を望み、私を憎悪していた連中が、今は私の遺体にすがりつき、見るに堪えない醜態をさらして泣き叫んでいた。 * 「申し訳ありません、雪見様。白石様は出血多量で、お腹のお子様は、残念ながら……」 私は後ずさり、恐怖に震えながら必死に弁解した。 「和也、違うの。本当に私じゃない、突き飛ばしたりなんて……信じて、お願い」 言い終わるより早く、頬に焼けるような激痛が走った。強烈な力で床に叩きつけられた。擦りむいた肘から、じわりと血が滲み出した。 結婚して七年になる夫、雪見和也(ゆきみ かずや)の手は、怒りのあまり震えている。 兄である水原悟(みずはら さとる)が、私の胸倉を締め上げんばかりに掴み、怒号を浴びせる。 「お前が!梨乃を流産させて満足か!?」 あろうことか、五歳になる息子までが私の髪をむしり取ろうと暴れた。 「ママの資格なんてない!梨乃さんをいじめるな!」 野次馬の好奇の目。容赦ない囁き声。私は目を閉じた。 体の痛みなど比較にならないほどの激痛が、心を切り裂いていく。 心臓を直接握り潰されているようで、息ができない。 分かっていた。白石梨乃(しらいし りの)こそが、和也の心に住み着く永遠の想い人なのだと。 だがいつの間に、兄や息子まで彼女の虜になってしまったのだろう。 「みんな……詩音を責めないで。私が勝手によろけただけだから」 梨乃が、弱々しく口を開く。その蒼白な顔色は、誰の目にも痛々しく映っただろう。 「ただ……私、もう二度とお母さんにはなれないみたい」 彼女はうなだれ、声を殺して泣き始めた。頬を伝う涙が、その儚さを際立たせる。 「先生が言ってたの。もう、子供が産めない体になっちゃったって」 和也は無言だった。だが、その表情はみるみる曇っていく。 不意に、彼が口元を冷酷に歪めたかと思うと、私の首が強く絞められた。 呼吸が止まる。頭の中が真っ白になる。 私は必死に彼の手を掴み、目で訴えた。離して、と。 「お前、よりによって、梨乃に手を出すとはな。 梨乃の痛みを、その身をもって償え」 彼の視線が、私の腹部に突き刺さる。 そして、氷のような声で医師に命じた。 「こいつの子宮を摘出しろ。梨乃と同じ苦しみを味わわせてやる」 私はカッと目を見開き、渾身の力で彼の手を振りほどいた。 涙ながらに叫ぶ。 「私はあなたの妻よ!そんなこと許されるわけがない。子宮を取られたら、私、死んでしまうかもしれないのよ!?」 けれど、和也の瞳には、梨乃への愛おしさしか映っていなかった。 私に突きつけられたその言葉は、私の心にとどめを刺した。 「お前のようなおぞましい女を妻だと思ったことはない。死にたいならさっさと死ね。被害者ぶるな、その泣き顔を見るだけで吐き気がする」 彼が手を叩くと、医師たちが動き出す。 私は無様に跪き、額を床に押し付けた。 「お願い、許して和也。お願いだから……」 和也は私を蹴り飛ばし、担架に縛り付けられる私を冷ややかに見下ろしていた。 第2話 涙で視界が歪む。私は絶望に溺れそうになりながら、病室にいる一人ひとりの顔を縋るように見渡した。 違う、私、何も間違ったことなんてしていないのに。そもそも、梨乃は妊娠なんてしていなかった。一年前に彼女の健康診断書を見たことがある。彼女は元々、子供ができない体だったはずだ! 「嘘よ!全部演技だわ!同情を買って、私を陥れるための芝居なのよ!」 私は藁にもすがる思いで叫んだ。 だが、誰一人として私を信じようとはしない。 和也は鬼のような形相で私を睨みつけると、再び私に強烈な平手打ちを食らわせた。 「まだ戯言を吐く気か! 麻酔は打つな。痛い目を見れば、少しは懲りるだろう」 低く、冷酷な声で彼が命じる。 絶望の闇が、私を飲み込んでいった。担架の上で、まるで壊れた人形のように、ただ力なく横たわっていた。もう、声を上げて泣く気力さえ残っていなかった。 静寂の中、涙だけが無音で頬を伝い落ちていく。 手術室へ運び込まれる直前、梨乃が私に向けて勝利の笑みを浮かべるのが見えた。 彼女は和也の胸に甘えるように身を寄せ、私の無様な姿をあざけるように見下ろしている。 * 手術室の中、メスが私の皮膚を切り裂き、生身の肉へと食い込む。 全身を貫く激痛に、意識が飛びそうになる。 メリメリと肉が裂ける音が、耳元で嫌というほど鮮明に聞こえていた。 だが不思議なことに、痛みが増すほど思考は冴え渡っていく。 七年前、出会ったばかりの頃の和也はこうではなかった。 あの時、起業したばかりで蓄えも少なかった彼は、それでも私には一番のものを与えようとしてくれた。 私のクローゼットをブランド品で埋め尽くす一方で、自分は安物のTシャツ一枚買うのさえ惜しんでいたのだ。 彼は、私が少しでも傷つくことが耐えられない人だった。 病気になれば、身代わりになれない自分を本気で責めるほど、私を愛してくれていた。 私に苦労をかけているという負い目から、彼はありったけの愛を注ぐことで、それを償おうとしてくれていたのだ。 息子の雪見蓮(ゆきみ れん)が生まれた後、彼は「女にとって、金は決して裏切らない味方だ」と言って、全財産を私の名義にしてくれた。ただ私を安心させるためだけに。 だがそれは、一年前、梨乃が帰国するまでのことだ。 その夜、和也はかつてないほどに酔い潰れ、身体を引きずるようにして帰ってきた。 「全部俺のせいだ。もっと努力していれば、梨乃は海外へ追いやられることもなく、俺たちはこんなに長い時間を無駄にせずに済んだのに……」 その時初めて知った。梨乃こそが、和也の真実の愛だったのだと。 手術が終わると同時に、私の心もえぐり取られたかのように空っぽになった。 和也はまるでゴミでも見るような目で、私を見下ろしている。 「お前のその痛みなど、梨乃に比べれば、取るに足らないものだ」 私は最後の力を振り絞って口元だけで笑い、彼から逃げるように顔を背けた。 やりすぎたと思ったのか、和也は腰をかがめ、私の頭に手を置く。 「まあ、やっと大人しくなったか。体が回復したら、家族みんなで旅行に行こう」 返事をする気力もない。体は弱っていく一方で、全身に鳥肌が立つのがわかった。 それは彼に対する、恐怖だ。 さっきまで悪魔のように私を断罪していた男が、次の瞬間には平然と償いのような言葉を口にする。あまりの異常さに吐き気がした…… 「きゃあああ!!!来ないで! 私がダメだったの、赤ちゃんを守れなかったから…… あそこにいる、あの子が見えるの、血まみれの塊が……」 目を開けると、梨乃がベッドの隅で怯えたように身を縮こまらせ、虚ろな目で虚空を指さしていた。 私と目が合うと、彼女は眉をくいっと上げ、溢れんばかりの嫉妬と悪意を露わにする。 わざとだ。このビッチが…… 案の定、次の瞬間に彼女は涙を拭い、か弱い被害者を演じながら、兄に許しを請い始めた。 「ごめんなさい、驚かせちゃったわよね。でも、お願い……詩音(しおん)のことは責めないであげて?だって……あの子も、きっとわざとじゃなかったと思うの…… ただ、詩音にはもう子供がいるのに、私は……」 その言葉を聞いた瞬間、悟の顔色が変わった。私の方へ振り返り、怒りで拳を固く握りしめる。 第3話 「さっさとこっちに来て梨乃に謝れ! お前のせいで梨乃は人生めちゃくちゃなのに、自分だけのうのうと幸せな家庭に収まってやがるのか? これから梨乃はどうやって生きていけばいいんだ!」 兄が大股で迫ってくる。 私は恐怖で瞳孔が収縮するが、逃げ場などどこにもない。 彼は私の腕を掴むと、乱暴にベッドから引きずり下ろした。 全身が悲鳴を上げている。 「兄さん、離して、痛いよ……」 涙が勝手に溢れ出した。 「兄さんと呼ぶな。お前のような妹を持った覚えはない。梨乃が俺の妹だったらどれほどよかったか」 悟の手の力が強まる。手首の骨が砕けそうだ。 彼は私を梨乃の前まで引きずっていくと、髪を鷲掴みにし、そのまま私の顔を床に押し付けた。 「土下座が好きだったろ?情けない奴だ。なら、梨乃に向かってきっちり九十九回、ゴツンと音が鳴るほど強く頭を打ち付けて詫びろ」 兄の口調はあまりに軽く、まるで些細な雑用でも命じるかのようだった。 息子の蓮が梨乃に寄り添い、真っ赤な目で私を睨む。 「梨乃さん、悲しまないで。僕が梨乃さんの息子になるから。あんなママ、僕もいらないの! 僕がママの代わりに、梨乃さんを幸せにするよ」 蓮は必死に顔を上げ、梨乃に媚びるような表情を向けていた。 私は自嘲気味に笑うしかなかった。これが、私の家族なのか。 「そう、なら彼女を家族にすればいい。私たちはもう赤の他人よ」 和也と離婚したい。もう二度と、彼らとは関わりたくない。 けれど、私にまだその時間は残されているのだろうか…… 「まだ反省しないのか!この恥さらしが!どこまで悪事を働けば気が済むんだ!」 兄の蹴りが脇腹に突き刺さる。 激痛に息を呑み、激しく咳き込むと、口の中に血の味が広がった。 「被害者ぶって逃げられると思うなよ。早く叩け」 悟は私の異変に気づかない。 彼は私を死に物狂いで押さえつけ、床にねじ伏せる。 「いい子にしてろ。謝れば、何もなかったことにしてやる」 本当に? 私は彼の手を振り払い、まるで感情を失くした機械のように、ゴン、ゴンと額を床に打ち付けた。 悟の声が耳元で響く。「二十三、二十四……」 昔のことをふと思い出した。 「詩音、兄さん金これだけしかないけど、全部お前にやるよ」 「お前ら、俺の妹をいじめるな。指一本でも触れてみろ、俺が相手になってやる」 「詩音、両親も早くに逝っちまったけど、俺が親父の代わりだ。俺が絶対にお前を守ってやるからな」 意識は遠のいていくのに、脳裏に浮かぶ悟の姿は鮮明になるばかりだ。 小さな体で、迷うことなく私の前に立ちはだかった彼。チンピラに殴られて肋骨を折ったのに、私を笑わせようと冗談を言っていた彼。 いつからだろう。私を見る彼の瞳から、温もりが消えてしまったのは。 梨乃が私の目の前で階段から落ち、振り返りざまに「詩音を責めないで」と言ったあの時からか。 それとも、私が作ったお菓子を食べて彼女が入院し、「悟さんがいてくれたら、いじめられなかったのに」と泣いた時からか。 ああ、もう……思考が、続かない。 寒い……体の震えが止まらない。 「うわ、なんであんなに血が出てるの?怖いよぉ」 蓮の幼い声が耳に届く。そこでようやく気づいた。私の体から流れ出たものが、床一面を赤黒い海に変えていることに。 悟は動じない。冷酷に数を数え続けている。 ふと、懐かしい香りが鼻を掠めた。私は縋るように、目の前のズボンの裾を掴む。 力を振り絞って顔を上げ、その姿を捉えた。 「和也、助けて……」 彼は一瞬、呆然と私を見つめていた。 「詩音!しっかりしろ、今医者を呼ぶ!」 第4話 「和也、私のせいよ。わがままを言ったから……詩音にあんなふうに謝らせて、私、あんな言葉、頷いて聞いちゃ、いけなかったのに……」 梨乃は唇を尖らせ、甘ったるい声で謝罪を口にする。 和也は鼻で笑った。 「なんだ、謝りたくなくて演技をしていたのか。たかが子宮を取るくらいで、死ぬの生きるのと大袈裟な」 彼は私から足を退けると、冷徹に命じた。 「続けろ」 九十九回。その数を数え終わるまで、彼らが私を許すことはなかった。 私は床に横たわり、痙攣する口元を歪めて、ヒヒ、と震える笑い声を漏らした。 そして、静かに告げた。 「和也、離婚しましょう」 その言葉に、彼はピタリと動きを止めた。信じられないものを見る目だ。 「何を言っている?蓮を捨てる気か?」 私が答えるより早く、蓮が不満げに叫んだ。 「僕がこの人を捨てるんだよ!梨乃さんがいればいい。パパ、こいつと離婚して梨乃さんと結婚してよ!そうすれば、ずっと一緒にいられるじゃないか!」 和也は眉をひそめ、沈黙が場を支配した。 長い静寂の後、彼の瞳に一瞬だけ名残惜しさが過ぎったが、すぐに消えた。 「分かった。悪いようにはしない。慰謝料として600万円振り込んでやる」 600万円。彼が梨乃に買い与えるバッグ一つにも満たない金額だ。 だが、もうどうでもいい。どうせ私には、それを使う未来などないのだから。 梨乃が時計をちらりと見て、申し訳なさそうに言った。 「和也、先に詩音を連れて帰って休ませてあげて。今日は金曜日だし、もう市役所の手続き、間に合わないと思うの。私は平気だから」 次の瞬間、私の体は引きずり起こされた。簡単な止血処置だけを施され、和也は私を市役所へと連行した。 離婚届受理証明書を受け取ると、彼は笑みを浮かべて写真を撮った。 間違いなく、梨乃に送るためだろう。 機嫌を良くした彼は、私たちがかつて「秘密基地」と呼んでいた場所へ行きたいという私の願いを、あっさりと聞いてくれた。 そこは、木々が生い茂る静かな小高い丘だった。 「ここで、死にたいな」 私の呟きに、和也は失笑した。 「お前のそのしぶとい命、そう簡単にくたばるかよ」 三十分ほど過ぎただろうか。私の心は次第に凪いでいき、意識は泥のように重くなっていった。 その時、携帯の着信音が鳴り響き、和也の顔からさっと血の気が引いた。 彼は有無を言わさず私を立たせ、乱暴に助手席へ押し込んだ。 猛スピードで車が走り出す。 山道はただでさえ険しい。私は恐怖でアシストグリップを強く握りしめた。心臓が口から飛び出しそうだった。 「蓮が梨乃に果物を切ってやろうとして、手首を切ったらしい。今、救急搬送された。出血が酷い、お前の輸血が必要だ」 自分でも驚くほど、動揺はなかった。今の私の心は、恐ろしいほど静まり返っている。 かつて、蓮は私の命そのものだった。 けれど、彼が梨乃をこっそり「ママ」と呼び始めたあの日から、私はもう彼の一番ではなくなっていたのだ。 病院に着くと、看護師たちが私を取り囲んだ。 「こんな状態で採血なんて無理です!死んでしまいます!他のドナーを!」 看護師は私の惨状を見て、痛ましさと戸惑いが入り混じった声を上げた。 「どうしてこんな体に……あなた、これは……」 「構うもんか、血を取れ!こいつは母親だぞ、こいつが助けなくて誰が助けるんだ!」 和也が焦燥しきった声で怒鳴る。 私はカサカサに乾いた唇を開き、かすれた声で言った。 「……いいから。私の血を、抜いて」 どれくらいの時間が経っただろう。私の命を限界まで吸い上げた二つの輸血パックが、慌ただしく手術室へと運び込まれていく。 扉が閉まったその瞬間、私は瞼を閉じた。 指一本、動かせない。 だが不思議と、かつてないほどの浮遊感が私を包み込んでいた。 私は糸が切れたように、重く床に崩れ落ちた。 願わくは、来世では二度とあなたたちに出会いませんように。 周囲で悲鳴が上がる。 薄れゆく意識の底で、和也と悟が、ようやく私の方を向いた気配がした。

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