元夫の目は節穴?名門令嬢が電撃再婚!

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西尾絃葉(にしお いとは)は名家の令嬢である身分を隠し、澤木凪杜(さわき なぎと)と結婚して5年。 凪杜は彼女をこれでもかというほど溺愛していた。 五周年の節目に、祖父がついに折れ、彼女が夫を伴って帰宅し、家業を継ぐことを認める。 だがその矢先、彼女は衝撃の事実を知る。 凪杜は彼女だけを愛していたわけではなく、彼の秘書である円藤野々花(えんどう ののか)のことも深く愛していたのだ。 彼女が手にしていた肩書きも愛も、秘書の野々花はすべて持っている。 彼女がどうしても得られなかった子どもさえ、野々花はすでに彼のために産んでいた。 残された30日間で、絃葉は彼の裏にある偽りを見抜く。 「3人の世界は、あまりにも窮屈すぎた」 涙を拭い、彼女は言った。 「だから彼女に譲るわ。凪杜、さようなら」 2年後――大雪が街を封じる中。 凪杜は彼女の屋敷の前にひざまずき、雪に打たれながら叫ぶ。 「絃葉、すまなかった!どんな罰でもいいから......どうか俺を見捨てないでくれ!君がいないと俺は......生きていけないんだ!」 絃葉は男の腕を取り、落ち着いた足取りで外へ出る。 男は身をかがめ、軽蔑を帯びた笑みを浮かべて言った。 「彼女の世界に、もうお前の居場所なんてないよ」

Chapters (1)

第1章

西尾絃葉(にしお いとは)は名家の令嬢である身分を隠し、澤木凪杜(さわき なぎと)と結婚して5年。 凪杜は彼女をこれでもかというほど溺愛していた。 五周年の節目に、祖父がついに折れ、彼女が夫を伴って帰宅し、家業を継ぐことを認める。 だがその矢先、彼女は衝撃の事実を知る。 凪杜は彼女だけを愛していたわけではなく、彼の秘書である円藤野々花(えんどう ののか)のことも深く愛していたのだ。 彼女が手にしていた肩書きも愛も、秘書の野々花はすべて持っている。 彼女がどうしても得られなかった子どもさえ、野々花はすでに彼のために産んでいた。 残された30日間で、絃葉は彼の裏にある偽りを見抜く。 「3人の世界は、あまりにも窮屈すぎた」 涙を拭い、彼女は言った。 「だから彼女に譲るわ。凪杜、さようなら」 2年後――大雪が街を封じる中。 凪杜は彼女の屋敷の前にひざまずき、雪に打たれながら叫ぶ。 「絃葉、すまなかった!どんな罰でもいいから......どうか俺を見捨てないでくれ!君がいないと俺は......生きていけないんだ!」 絃葉は男の腕を取り、落ち着いた足取りで外へ出る。 男は身をかがめ、軽蔑を帯びた笑みを浮かべて言った。 「彼女の世界に、もうお前の居場所なんてないよ」 第1話 西尾絃葉(にしお いとは)はスマホを握りしめ、力の入った指先がうっすらと白くなっていた。 ――ついに、5年もの間待ち続けた電話が来た。 祖父が最も信頼する秘書の日野(ひの)からだった。 「お嬢様。澤木様とのご結婚は、会長が定めた5年間の試験期間を無事に通過されました。 会長のご指示により、澤木様とご一緒にご帰宅いただくことを許可いたします。また、全財産を前倒しでお嬢様に名義変更の手続きも進めております。ご都合はいかがでしょうか」 「本当?!」 絃葉は込み上げる歓喜を抑えきれず、声がわずかに震えた。 「やった......!今日でいいから。今すぐ向かうよ!」 電話を切ると、ようやく肩の力が抜けた。 ――よかった。 祖父はついに、かつて自ら結婚を選び、家の政略結婚と後継者としての立場を捨てた自分を許してくれたのだ。 そして彼女は澤木凪杜(さわき なぎと)と結婚したことも。 それはつまり、彼女の選択は間違っていなかったということ。 凪杜は、すべてを捨ててでも選ぶ価値のある男だった。 今日は試験期間の終わりであると同時に、二人の結婚五周年の記念日でもある。 彼に、とびきりのサプライズと、正当な未来を贈るつもりだった。 公証役場のロビーには、紙とインクの匂いが漂っている。 絃葉は胸の高鳴りを抱えながら、5年間大切にしまってきた書類を、そっと職員に差し出した。 真実を知ったときの凪杜の驚きと喜びを思い浮かべ、彼女の唇には自然と柔らかな笑みが浮かぶ。 だが―― 職員はシステムで何度も照合した後、眉を深くひそめ、顔色を曇らせた。 顔を上げ、鋭い視線を絃葉に向けると、疑いようのない厳しい口調で告げた。 「申し訳ありませんが、こちらの書類は偽造したものです。戸籍を確認しましたが、西尾様の現在の婚姻状況は、未婚となっています」 「未婚......?」 絃葉の笑みが凍りつき、目を見開いた。 「そんなはずが......」 職員は彼女の動揺を意に介さず、冷然と言い続ける。 「なお、澤木様は既婚となっており、法的な妻は円藤野々花(えんどう ののか)という方です」 ――頭の中で何かが弾けた。 絃葉の脳裏は一瞬で真っ白になる。 彼女は椅子から勢いよく立ち上がり、鋭い声を上げた。 「嘘よ!そんなはずない!これは夫が自分で渡してくれたものよ、偽物なわけがない!」 「ですが、システムにはそう書いてあります」 職員は無表情のまま続けた。 「さらに、お二人の間には娘が一人。5歳で、母親の姓を名乗り、名前は円藤那乃葉(えんどう なのは)です」 「......え?」 絃葉はよろめき、一歩後ずさる。 娘? 5歳? ――ということは、自分が娘のように可愛がっていた子、那乃葉が......凪杜と野々花の実の娘だというのか? 「システムによれば、澤木様と円藤様は5年前に婚姻届を提出しています。婚姻期間は、西尾様が持っていた書類と完全に一致します」 視界が暗転し、絃葉の身体は力なく後ろへ崩れ落ちそうになった。 その瞬間、背後にいた日野が素早く支える。 「お嬢様!」 怒りを含んだ声が震える。 「なんという裏切りを......!すぐに会長へご報告を――」 「ダメ!」 絃葉は鋭く遮った。 額を押さえ、爪が掌に食い込む。 「お願い、日野さん。おじいちゃんには言わないで......私に、少し時間を。自分で確かめたいの......だからこの件は、どうか内密に」 ふと何かを思い出し、かすれた声で続ける。 「その那乃葉という子の誕生日は、いつですか」 キーボードを叩く音が、やけに耳障りに響いた。 「202X年6月29日、午後4時39分です」 その冷たい数字は、鋭い針のように、絃葉の記憶の奥深くに突き刺さる。 ――あの日だ。 彼女が転倒し、流産して入院した日だった。 ようやく授かった子は、その日の夜8時13分、完全に彼女の体から失われた。 涙が、堰を切ったように溢れ出す。 あれほど多くの薬を飲み、不妊治療の注射を打ち続けて、ようやく授かった命だったのに。 まだ妊娠二ヶ月にも満たず、安定もしないうちに、理由もわからないまま家で転び、失ってしまった。 もともと妊娠しにくい体だった彼女にとって、その流産は致命的だった。 冷たい病室のベッドの上で、彼女は痛みに打ちのめされていた。 だが凪杜は、ただ軽く背中を叩き、静かな声でこう言った。 「そんなに落ち込むな。子どもがいなくなったのは、むしろよかったじゃないか。俺たちはまだ事業を立ち上げたばかりだ。子どもを持たないほうがいい」 ――持たないほうがいいじゃなかった。 その日、すでに彼は「持っていた」のだ。 彼女が失った宝物は、ただ彼にとって予定外の余りものにすぎなかった。 職員は偽の書類を彼女に返した。 力の抜けた手から、それはパタンと、音を立てて床に落ちる。 その白い紙は、大きな平手打ちのように彼女の頬を打ち、5年間のすべてがただの笑い話だったのだと嘲笑っているようだった。 役場を出ると、冷たい風が正面から吹きつける。 頭の混乱はわずかに晴れたが、胸の冷えは消えない。 後ろから日野が追いつき、心配そうに声をかける。 「お嬢様、あんなに酷い男のことです。会長に頼れなくて本当にいいのですか?」 絃葉はゆっくりと首を横に振った。 その目はすでに、崩壊寸前のパニックから、冷たく揺るぎない光へと変わっていた。 深く息を吸い、静かに言う。 「お気遣いありがとう、日野さん。でもいいの。それよりおじいちゃんに伝えて。 一ヶ月後、この件の答えを持って帰ります。家業は必ず継ぎますから、どうか安心してください、と」 そう言い残し、彼女は振り返ることなくタクシーを止め、凪杜の会社の住所を告げた。 第2話 車は澤木グループのビルの下で停まった。 絃葉が車を降りるとすぐ、デリバリーの配達員が大きな赤いバラの花束を抱えて、慌ただしく中へ入っていくのが目に入った。 その包装も、添えられたカードのデザインも、彼女には見慣れすぎていた。 凪杜がいつも注文している、あの高級フラワーショップのものだ。 絃葉の胸がきゅっと締めつけられ、思わず指を強く握りしめる。 彼女は足早に配達員の後を追い、同じエレベーターに乗り込んだ。 そしてカードに目をやると、そこには―― 「愛しい野々花へ、誕生日おめでとう――夫より」 と書かれていた。 その一文が、鋭い針のように胸を深く刺した。 今日は、自分と凪杜の五周年記念日であると同時に、野々花の誕生日でもあったのだ。 彼が言っていた「会社で残業」というのは、ただの口実。 本当は彼女に隠れて、会社で「本当の妻」の誕生日を祝っていたのだ。 絃葉は拳を強く握りしめ、爪が食い込んで指先が白くなる。 エレベーターを降りた瞬間、聞き覚えのある男の声が、不意に耳に飛び込んできた。 凪杜―― そして、彼の親友であり共同経営者でもある風間千晶(かざま ちあき)だ。 「千晶」 凪杜の声は低く、どこまでも柔らかい。 「今日は俺と絃葉の五周年なんだ。俺が手作りしたブレスレットを彼女に届けてくれ。 それと、白いバラを千本用意して、カードには『手を取り合い、共に老いるまで』って書いてくれ」 絃葉は花束を抱く腕に、さらに力を込めた。 足がその場に縫い付けられたように動かない。 千晶は鼻で笑い、探るような口調で言う。 「お前、本当に絃葉には甘いよな。『愛妻家』って評判も伊達じゃない。 でもさ、そこまで愛してるなら、なんで最初に野々花と入籍なんてしたんだ?」 廊下には、男の低い笑い声と、煙草の火が明滅する光だけが残った。 「絃葉は堂々と、俺の愛を全部受け取れる存在だ。 でも野々花は違う。彼女は黙って影で俺に寄り添ってくれて、従順で、気が利いて、しかもあんなに可愛い娘まで産んでくれた。だから入籍したのは......せめてもの償いだ」 絃葉は影の中に立ち尽くし、顔から血の気が引き、全身が凍りつくような感覚に襲われた。 「でも、もう5年だぞ」 千晶の声には、わずかな同情が滲んでいた。 「絃葉はあんなに子どもを欲しがってたのに......お前が自分で床に油を撒いて、わざと転ばせて流産させた......」 言葉を切り替え、続ける。 「その一方で野々花は、もう二人目を妊娠してる。凪杜、本当に大丈夫なのか?絃葉に知られたら......」 絃葉の身体は硬直し、血液までもが凍りついたかのようだった。 あの時の、理由もわからない転倒―― すべて、彼の仕組んだことだったのだ。 「野々花は一生秘密を守るって言ってる。絃葉に知られることはない」 凪杜の声は数秒止まり、それから断言するように続いた。 「俺は絃葉を愛してる」 彼はさらに言葉を重ねる。その声音は誠実そのものだった。 「何も持ってなかった頃、4年間ずっと一緒に頑張ってくれたのは彼女だ。起業資金の1億円だって、彼女があちこちからかき集めてくれた。どん底の時も、彼女はずっとそばにいてくれた。でも野々花だって、俺と一緒に苦労してきた。だからどっちも、手放せないんだ」 一番苦しかった時、誰がそばにいたか――彼はちゃんと覚えている。 それでも、その時間は、別の女への愛には勝てなかった。 あまりにも滑稽だった。 やがて会話は遠ざかっていく。 絃葉は赤く染まった目で、会社のオフィスのガラス越しに中を見た。 中はすでに花とバルーンで飾り付けられ、祝祭の空気に満ちている。 社員たちは輪になり、その中心には笑顔の野々花がいた。 その隣には、凪杜。 二人は親しげに寄り添い、視線にはやさしさが宿っている。 「奥様、お誕生日おめでとうございます!」 「お幸せに!早くお子さんにも恵まれますように!」 次々と響く祝福の声が、無数の針となって絃葉の胸に突き刺さる。 なんて皮肉だろう。 この3年間、彼女が家庭に入っている間に、野々花はすでに「社長奥様」として堂々とその座に収まり、祝福を受けていたのだ。 だからこそ、あの時から凪杜は二度と彼女を会社に近づけなかったのか。 以前は、ただ彼が自分を気遣ってくれているのだと思っていた。 仕事で苦労してきた彼女を、家でゆっくりさせたいのだと。 だが今ならわかる。 彼はすでに別の女のために巣を築き、彼女に隠れて、二つの人生を器用に渡り歩いていたのだ。 白いバラと赤いバラ――か。 手にしていた花束が「ぱたん」と音を立てて床に落ち、艶やかな花びらがばらばらに散る。 まるで、この関係そのもののように。 かつて共に苦労した社員たちが、今は野々花に媚びるように笑っている。 その幸せそうな光景に、絃葉はただ強烈な皮肉を感じた。 彼女は深く息を吸い、喉の奥にこみ上げる鉄の味を押し殺し、扉を押し開けた。 「ずいぶん賑やかじゃない」 柔らかな笑みを浮かべたまま、絃葉は中へ歩み入る。 その瞬間、全員の視線が一斉に彼女へ向けられた。 さっきまでの喧騒が、針一本落ちても聞こえるほどの静寂へと変わる。 次の瞬間、凪杜と野々花は、電気に触れたかのように離れた。 凪杜の目に明らかな動揺が走り、彼は急いで歩み寄り、絃葉の手首を掴む。 「絃葉、どうしてここに?」 絃葉はぎこちない笑みを浮かべたまま、ゆっくりと周囲を見渡し、最後に彼の顔へ視線を止めた。 「いつまでも帰ってこないから、様子を見に来たの。残業......もう終わったの?」 凪杜は彼女の手をぎゅっと握りしめ、表情を引き締める。 「絃葉、ちょうどいいところに来た。うちの秘書が細谷グループとの200億の大型契約をまとめてくれたんだ。会社にとって大きな成果だから、彼女のために祝賀会を開いてる。ついでに誕生日も祝ってる。絃葉なら、きっと怒ったりはしないだろ?」 絃葉は一瞬、言葉を失う。 細谷グループ――それは、西尾グループ傘下の会社だ。 澤木と取引したのも、すべて彼女の顔を立てたからにすぎない。 それが、いつの間に野々花の手柄になっていたのか。 沈黙する彼女を見て、凪杜は焦り、慌てて野々花へ目配せする。 「野々花、君と絃葉は親友だろ?ちゃんと説明してやってくれ」 親友―― その言葉は、頬を打つ熱い平手打ちのようだった。 絃葉はゆっくりと野々花を見つめる。 これまで彼女に与えてきた支援と配慮を思い出し、目が乾いて痛む。 野々花は一瞬顔を強張らせたが、すぐに笑顔を作り、近づいてきて彼女の腕に絡みつく。 「怒らないで、絃葉さん。澤木社長は本当に、わざと五周年を欠席したわけじゃないの。ただ細谷グループとの契約が決まって、みんな嬉しくてどうしてもお祝いしたくて......私の誕生日は、そのついでだけだから」 そう言いながら、彼女はふと笑って周囲に視線を向ける。 「さっきも澤木社長、早く終わらせて奥さんと五周年を過ごしたいって言ってましたよね?」 社員たちはまるで彼女に従うかのように、口々に同調した。 「そうですよ、澤木社長は有名な愛妻家ですからね」 「絃葉さんも、許してあげてください」 ―― かつて共に起業の苦労を味わった仲間たちが、今は野々花に従い、心にもない言葉を口にしている。 その光景に、絃葉の胸は強く震え、指先が食い込むほど拳を握りしめた。 彼女は二人の手を振り払い、落ち着いた足取りでケーキの置かれたテーブルへ向かう。 近づくと、赤いクロスの上に、静かに置かれたダイヤのブローチと、あの鮮やかな赤いバラが目に入った。 そのブローチは、彼女がずっと欲しくて、買おうとしたときにはすでに売り切れていたものだ。 ――買ったのは凪杜だった。 けれど、贈る相手は彼女ではなかった。 「綺麗なブローチと花ね......」 絃葉は、顔色を失った野々花をまるで空気のように無視し、そのまま凪杜を見つめた。 「これ、私への五周年のプレゼント?」 第3話 その様子を見た野々花は、顔色をさっと強張らせ、反射的に前へ出ようとした。 「それは――」 「そうだ!」 凪杜はまっすぐ絃葉のそばへ歩み寄り、花束とギフトボックスを彼女の手に押しつけた。 「プレゼントは先に持って帰ってくれ。俺も後で帰るから」 野々花はなおも何か言おうとしたが、凪杜に視線で制され、言葉を飲み込んだ。 彼が明らかに彼女を早く帰らせようとしているのは、誰の目にも明らかだった。 絃葉は袖の中で指をぎゅっと握りしめる。 凪杜の顔を見つめ、何か言おうとしたが、結局は飲み込んだ。 「......わかった。じゃあ、家で待ってるね」 ―― 会社の外。 堪えていた涙がついに決壊し、熱いまま頬を伝って、手の甲に落ちた。 冷たく、刺すようだった。 深く息を吸い、感情を整えると、彼女はすぐにスマホを取り出し、日野に電話をかけた。 「日野さん、澤木グループとの提携を一旦保留にしてって細谷さんに伝えて。でも完全に切るんじゃなくて、色よい返事はせずに繋いでおいて。今後の指示はまた連絡する」 「かしこまりました、お嬢様。今月中は何かあれば、いつでもご連絡ください」 「ええ」 通話を切ったあと、絃葉は無意識にSNSをスクロールする。 指先は冷えきっていた。 ふと画面が止まる。 黒一色のアイコン―― 5年間一度も動かなかった、ほとんど忘れていたそのアカウントが、新しく投稿を更新していた。 「結婚相手募集。興味のある方はDMを」 位置情報は多磨城(たまじょう)。 彼女が長く離れていた故郷だ。 それはかつて、凪杜のために自ら断った政略結婚の相手、築山景(つきやま けい)だった。 なぜか導かれるように、彼女はその投稿を開いた。 指先が勝手に動く。 軽くスワイプした瞬間―― その投稿の下に、はっきりと「いいね」が表示された。 ピコン。 通知音が静かな廊下に鋭く響く。 黒いアイコンから、ほとんど間を置かずにメッセージが届いた。 「どうした、後悔してるのか?」 たった数文字。 いつもの傲慢さと、わずかな嘲りを含んだその言葉は、まるで頬を打つ一撃のようだった。 絃葉はその言葉を見つめ、胸が大きく揺れる。 スマホが「パタン」と音を立てて落ち、画面にひびが入った。 彼女は息を整え、しゃがんでそれを拾い上げる。 袖で乱暴に涙を拭うと、その目は一瞬で鋭く澄み切ったものへと変わった。 再びチャットを開き、素早く打ち込む。 「政略結婚。利益のみ、感情は不要。問題なければ、来月多磨城に戻ります」 ほとんど即座に返信が来た。 「いいだろう」 絃葉は思わず驚く。 「理由は聞かないの?」 返事は相変わらず簡潔だった。 「結婚してから、ゆっくり話せばいい」 「......」 こんなにも冷淡で、こんなにも......あっさりしているなんて。 もしかして彼は、噂どおり恋愛対象が男性で、結婚は純粋に家の利益のためだけなのだろうか。 数秒の戸惑いのあと、絃葉はすぐに受け入れた。 むしろ、その方が都合がいい。 どうせ凪杜を離れたあとは、彼女も利益だけを求める「形だけの妻」になるつもりだったのだから。 それで祖父が安心するなら、それでいい。 スマホをしまい、車に戻ろうとしたその時―― 凪杜と野々花が、那乃葉の手を引いて会社から出てくるのが見えた。 三人で並ぶその姿は、まるで本物の家族のように温かく、楽しげだった。 その光景に、鋭い刃が胸に突き刺さる。 気づけば彼女は車を降り、無意識のまま彼らの後をつけていた。 たどり着いたのは、ファミリー向けのレストランだった。 彼らの背後の席に腰を下ろすと、すぐに聞き慣れた声が耳に届く。 「ごめん、野々花。絃葉が突然来るとは思わなかった。嫌な思いさせたな」 野々花の声は甘く柔らかい。 「大丈夫、もう慣れてるから。それより絃葉さん、放っておいたら怒るんじゃない?帰らなくていいの?」 「怒っても問題ない。きっとすぐ機嫌が直る」 凪杜はあっさりと答えた。 「今日は君が主役なんだから、ちゃんと二人に付き合わないと。プレゼントは持って行かれたけど、代わりに、この俺がずっと身につけてたこのブレスレットをやるよ」 「やったー!パパ大好き!」 那乃葉がすぐに歓声を上げる。 「ママ見た?パパの中では、ママが一番なんだよ!」 「こら、変なこと言わないの。特に絃葉さんの前では注意するのよ」 野々花は軽く娘をたしなめながらも、無意識に手を差し出す。 「でも凪杜、これ......絃葉さんが苦労してやっとお寺で買ったものよね。もし知られたら、彼女、きっと傷つくよ」 ――それを、野々花に? 絃葉の胸が強く揺れ、思わず席の隙間からそっと覗き見る。 艶やかに光るブレスレットが、凪杜の手から外され、野々花の手首へとつけられた。 その瞬間、心臓に銃弾が撃ち込まれたかのように、胸が激しく痛んだ。 「俺はいつもそばにいられない。だからこれで君たちを守ってほしい。絃葉の方には失くしたって言っとく」 野々花は反射的に首を振る。 「私に渡したら、凪杜は?」 凪杜の声は低く、しかし重く落ちる。 「絃葉はよく寺に行くだろ。頼めばまた買ってくれるさ。それより今は、野々花の方が大事だ」 野々花の声は、溶けるように甘かった。 「ありがとう......凪杜は優しいね」 凪杜は感情を込めて母娘を抱き寄せる。 「俺たちは夫婦だ。君と那乃葉に、最高のものをやりたい。でもこれだけは覚えておけ――俺がやるものは、絶対に絃葉に見せるな」 野々花の目に一瞬だけ影が差したが、すぐに従順な笑みに戻る。 「うん。わかってるよ。絶対に言わないから」 ―― 絃葉はその場に固まったまま座っていた。 顔から血の気が完全に失われている。 格子越しに見える三人は、寄り添い、笑い合い、まぶしいほどに「幸せ」だった。 涙が今にもこぼれそうになる。 これ以上、もう聞けなかった。 彼女は勢いよく立ち上がり、店を飛び出した。 胸元のダイヤのブローチを乱暴に引きちぎり、そのままゴミ箱へ叩き込む。 鋭い縁が指を切り、血が滴り落ちた。 その時、スマホが震える。 凪杜からのメッセージだった。 【ごめん、会社のシステムにトラブルが出て、今夜は徹夜になる。先に寝てて】 あの母娘と過ごすくせに、徹夜だと嘘をつく。 絃葉はまつげを震わせながら、指を震わせて返信する。 【わかった。無理しないでね】 珍しく追及しない彼女に、凪杜は安堵したのか、すぐに返信が来た。 【ありがとう、絃葉。愛してる】 絃葉はスマホを握りしめたまま、最後に一度だけ振り返った。 ガラス越しに見えたのは―― 凪杜が素早くスマホをポケットにしまい、那乃葉の前で野々花の頬にキスをする姿だった。 その無遠慮な親密さが、まるで平手打ちのように彼女を打ち据える。 激しい吐き気が込み上げる。 彼女はゴミ箱に寄りかかり、何度も吐いた。 ようやく落ち着いたその時―― 頭上から、冷たい声が落ちてきた。 「お嬢さん、もう吐き終わりましたか?うちの主人の通り道を、ずいぶん長く塞いでいますが」 第4話 「......?」 絃葉はぼんやりとした目で顔を上げる。 視界の中には、端正な顔立ちでスーツを着た若い男が立っていた。 その背後には、長身で引き締まった体格の男。 スーツを羽織り、帽子の影で顔は見えないが、圧倒的な存在感を放っている。 ――ただ者じゃない。 絃葉は周囲を見回す。 自分は隅にしゃがみ込んでいたつもりだったのに、気づけば駐車場の入り口にいた。 「すみません......」 反射的に謝って立ち上がり、道を譲ろうとしたその時、強い立ちくらみが襲い、身体がぐらりと傾いた。 倒れかけた彼女を、力強い腕が素早く受け止め、そのまま抱きとめる。 目を開けようとするが、激しい眩暈が意識を一気に闇へ引きずり込んだ。 「え、どうして急に......」 「病院に連れていけ」 男は彼女を一度は秘書に預けようとした。 だがその時、風が彼女の乱れた髪を払い、顔が露わになる。 その清らかで整った顔立ちを見て、男の瞳がわずかに揺れ、抱く腕に力がこもる。 そして彼は自ら彼女を抱え直し、車へと歩み出した。 「会食はキャンセルだ。彼女を病院へ」 ―― 絃葉は重度の貧血を抱えており、体調を崩すとすぐに気を失ってしまう。 意識が朦朧としたまま目覚めた時、身体が清潔で軽くなっているのを感じた。 消毒液の匂いが漂う。 目を開けようとしても、全身に力が入らない。 その時耳元に、聞き慣れた声が突然入り込んできた。 鋭い針のように、心臓を貫く声。 「凪杜......」 野々花の声は、わざと低く抑えられていた。 「ねえ......今のうちに、子宮を摘出しちゃえば?」 一拍置いて、さらに柔らかく囁く。 「目が覚めたら、命を守るためだったって説明すればいいじゃない......」 絃葉は思わず指を握りしめた。 目を閉じたまま、息を潜めて耳を澄ませる。 凪杜の声は相変わらず穏やかで、大きな動揺は感じられない。 「それはだめだ、野々花。絃葉にとって......残酷すぎる」 「残酷?」 野々花の声はすぐに涙を含んだものへ変わる。 「でもこの人、すぐ妊娠しようとするじゃない。このままで本当に大丈夫かな...... 那乃葉もどんどん大きくなるし、お腹の子ももうすぐ生まれる......もし彼女に自分の子どもができたら、あの子たちを本当に受け入れると思う?絶対無理に決まってるよ」 「彼女は重度の貧血だ。そもそも出産に向いていない」 凪杜の声には、すべてを掌握しているかのような確信があった。 「俺が一番わかっているから、心配するな」 「でも......毎回そんな『都合よく』流産させられるわけじゃないでしょ?もし次、ちゃんと育ったらどうするの?」 野々花は涙声で問い詰める。 「ねえ凪杜、那乃葉はその時になったらどうしたらいいの?いつまでも私の子どもたちを、日陰の存在のままにするつもり?」 「彼女は妊娠できない」 凪杜の声は、冷たく、無慈悲だった。 「毎晩飲んでいるビタミン剤、全部避妊薬にすり替えてあるから」 その言葉が脳を激しく揺さぶり―― 絃葉は目を見開き、右手の窓際にいる二人を睨みつけた。 だが、二人はまったく気づいていない。 野々花は凪杜の胸に身を預ける。 「さすが凪杜!愛してるよ」 凪杜は自然に彼女の額へ口づけた。 「ああ。俺と野々花こそ、本当の家族なんだから、このくらいは当然だ」 その光景を見た瞬間、絃葉の顔から血の気が引いた。 起き上がって問い詰めようとしたが、再び激しい眩暈に襲われ、そのまま意識を失った。 ―― 搬送が早かったため、三日後には退院することができた。 迎えに来たのは、凪杜、野々花、そして娘の那乃葉。 那乃葉は小鳥のように軽やかに駆け寄り、大きな白いバラの花束を抱えて絃葉に飛びついた。 「絃葉お義母さん!退院おめでとう!すっごく心配したんだよ!」 絃葉は視線を落とし、淡々と答える。 「そうなの?」 那乃葉は顔を上げ、目を輝かせる。 「ほんとだよ!毎晩お星さまにお願いしてたの。絃葉お義母さんが早く元気になりますようにって!」 野々花はゆったりとベッドの横に腰を下ろし、昔と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた。 「それは本気よ。この子、絃葉さんにすごく懐いていてね、ずっと『おうちに行きたい』って言ってるの。完全に回復するまで、一緒に住みたいんですって」 絃葉は袖の中で指を強く握りしめる。 爪が掌に食い込みそうだった。 「そうなの?那乃葉、うちに来たいの?」 「うん!」 那乃葉は嬉しそうに跳ねた。 「ママと一緒に住むの。那乃葉が歌ってあげる!それにママの料理すっごく美味しいよ!毎日そばにいて、いっぱい面倒見るから、元気になろうね」 指の関節が白くなるほど力が入る。 胸の中で辛うじて支えていたものが、一気に崩れ落ちそうになる。 絃葉は顔を上げ、ずっと黙っていた凪杜を見る。 「凪杜はどう思う?」 凪杜は一歩近づき、温かい手で彼女の手を包み込む。 「せっかく円藤が気遣ってくれてるんだし、那乃葉もこんなに君を慕ってる。いいんじゃないか?ちょうど俺も仕事が忙しいし」 絃葉はわずかに口元を歪めた。 声は空気の中に軽く落ちる。 「そう......凪杜がいいなら......」 爪は深く肉に食い込んでいた。 ――もう、どうでもいい。 残りは、あと二十五日だけ。 家も、男も、会社も全部あげる。 野々花。 その「贈り物」を受け止めきれるか、楽しみにしているよ。 第5話 家の寝室に戻ると―― 絃葉は、全身の骨の隙間にまで冷気が染み込むような感覚に襲われ、立っているのもやっとだった。 残されたわずかな力を振り絞り、震える手で長らく封じていた引き出しの鍵を回す。 引き出しが開いた瞬間、中に詰め込まれていた「記憶」が一気に溢れ出した。 ハート型の小石。 色あせたポストカード。 古いレコード。 凪杜が不器用に磨いた銀のチェーン―― そして、リボンで束ねられた手紙の束。 かつて彼が彼女に書いた「ラブレター」だった。 どれも、かつては宝物のように大切にしていたもの。 だが、数日前に自分の目で見たすべてが、それらの思い出を虚しく、安っぽいものへと変えてしまった。 まるで笑い話のように。 全部嘘だ。 この5年間、すべてが嘘だった。 こんな嘘の塊を、まだ持っている必要があるのか。 絃葉は無表情のまま、すべてをまとめてゴミ箱へと叩き込んだ。 世界がぐるぐると回る。 こめかみが激しく脈打ち、裂けそうなほど痛む。 服も着替えないまま、彼女はそのままベッドに倒れ込んだ。 バンッ! 扉が乱暴に開かれる。 ピンクのフリルドレスを着た那乃葉が飛び込んできて、ためらいもなくベッドへ駆け寄り、小さな手で絃葉の腕を激しく揺らした。 「絃葉お義母さん!ねえ起きて?一緒にお馬さんごっこしようよ?この前みたいに、那乃葉が上!」 興奮で頬を赤く染めている。 絃葉の脳裏に、数か月前、新居に引っ越した夜の光景が蘇った。 「家族」への憧れに浸りきっていたあの時。 彼女は那乃葉を本当の娘のように可愛がり、ためらいもなくカーペットに膝をつき、背中に乗せて遊ばせた。 あの日、那乃葉がどれだけ楽しそうに跳ねていたか。 それと同じだけ、野々花の笑みはどれほど嘲りに満ちていたか。 それに気づかず、自分は喜んで「踏み台」になっていた。 あの時、本気でこの子を養子にしようと考えていたことを思い出し―― 強烈な吐き気が喉元まで込み上げる。 絃葉は勢いよく起き上がり、目の前の小さな顔をじっと見つめた。 「那乃葉......お義母さんのこと、好き?」 「うん!絃葉お義母さんのこと、大好き!」 那乃葉は力いっぱい頷き、続ける。 「もし絃葉お義母さんがママになってくれたら、もっといいよ」 絃葉は崩れそうな体を必死に支えながら、あえて不思議そうに尋ねる。 「でも......那乃葉にはもうママがいるでしょ?どうして私にママになってほしいの?」 那乃葉は首をかしげ、無邪気に答えた。 「だって、絃葉お義母さんとパパに赤ちゃん作ってほしくないもん!そうしたら、パパは那乃葉だけを可愛がってくれるでしょ!」 そのまま勢いよく抱きつき、首に腕を回す。 「絃葉お義母さん、那乃葉を養子にしてよ!本当の子よりいい子になるから!大きくなったらいっぱいお金稼いで、絶対養ってあげる!」 ――5歳の子どもが言う言葉ではない。 明らかに、誰かに教え込まれている。 絃葉の血が、一瞬で凍りついた。 強烈な嫌悪が込み上げ、思わず力任せに那乃葉を突き放す。 不意を突かれた那乃葉は、よろめいてカーペットの上に尻もちをついた。 その様子を見て、飼い犬のポメラニアンがすぐにベッドに飛び乗り、心配そうに鳴きながら絃葉の胸に顔を押しつけてくる。 絃葉はその柔らかな毛に指を埋め、何度も撫でる。 そして、床に座り込んだまま呆然としている那乃葉を見下ろし、冷たい声で言った。 「私にはペコがいれば十分。子どもを引き取るつもりはないよ」 首を横に振る。 その瞳は空虚だった。 「ごめんね、那乃葉」 「うわああああ!!!」 数秒の沈黙のあと、那乃葉は大声で泣き出した。 突然、小さな体で突進し、絃葉の腹に思いきりぶつかる。 さらに腕に噛みついた。 痛みに身体が震え、額から大粒の冷や汗が流れる。 半開きだった扉が、勢いよく押し開けられた。 凪杜が駆け込んでくる。 「何があった。なんで那乃葉が泣いてる」 彼は絃葉には目もくれず、一直線に子どものもとへ向かった。 「うわああ......パパ!」 那乃葉は救いを見つけたように彼に抱きつき、指をさしながら言う。 「絃葉お義母さんが嫌いになったの!娘にしてくれないって聞いたら、いきなり押されて......痛いよ......」 凪杜は那乃葉を抱き上げ、冷たい視線を絃葉へ向ける。 「絃葉、それは本当か?」 絃葉はベッドにもたれたまま、何も言わず彼を見つめる。 目はすぐに赤く染まった。 状況が単純ではないと感じたのか、凪杜の声は少し和らぐ。 だが、那乃葉を抱く手は一切緩めない。 「先に那乃葉を落ち着かせてくる。すぐ戻る」 そう言い残し、彼は泣きじゃくる那乃葉を抱えたまま部屋を出て行った。 ――静寂。 死んだような静けさが戻る。 絃葉は力なく枕に倒れ込んだ。 その瞬間、ふと気づく。 体の眩暈は、ますます強くなっている。 そういえば、自分が重度の貧血になったのは―― 3年前、野々花が出産を終えて職場復帰した頃からだ。 原因不明の失神を繰り返すようになり、凪杜は彼女に仕事を辞めて休養するよう勧めた。 当時は野々花と良好な関係だったため、退職前に自分の経験をすべて彼女に教え込み、凪杜の右腕として支えられるようにしてから、副社長の座を退いた。 これまで疑ったことは一度もなかった。 だが今は――何かがおかしい。 絃葉はすぐに日野へ電話をかけた。 「日野さん、病院に残っている私の検体を、もっと精密に検査させて」 「かしこまりました。すぐ手配します」 ―― 夕暮れになってようやく、凪杜がトレイを持って戻ってきた。 上には、ご飯と簡単なおかずが並んでいる。 彼はトレイをベッド脇に置き、しばらく背を向けたまま立っていたが、やがて振り返った。 その声には、はっきりとした不満が滲んでいた。 「絃葉......那乃葉を突き飛ばしたのは、本当なのか?」 絃葉は目を伏せる。 「ええ」 凪杜の声が強くなる。 「相手は子どもだぞ。どうしてそんなことを――」 絃葉は突然顔を上げた。 「その『子ども』が、私たちに子どもを作るなって言うのよ。自分だけでいいって。 5歳の子が、自分からそんなこと言うと思う?」 凪杜の体が、わずかに硬直した。 第6話 凪杜は彼女の視線を避け、再び口調を和らげた。 「子どもが何をわかる。いちいち気にするな」 その言葉に滲む無意識の肩入れは、まるで強烈な平手打ちのように絃葉の頬を打った。 これまで何度、その偏りに気づかないふりをしてきたのだろう。 ――今になって、自分の鈍さが情けない。 彼女はため息のように、かすかな声で言った。 「......正直に答えて、凪杜。あなた、まだ私を愛しているの?」 その瞬間、凪杜の胸が大きく揺れた。 彼は彼女を強く抱き寄せ、顎を彼女の髪に押し当てる。 「もちろんだよ!」 声は即座に返ってきた。 「また変なこと考えてるのか?俺が絃葉のことを、ずっと愛してるに決まってる!」 胸に抱きしめられ、鼻先に馴染みのある匂いが満ちる。 だがその瞬間、胃の奥から激しい吐き気が込み上げた。 この腕から逃れたい――そう思った矢先。 ドアの外から、野々花のやわらかくも焦った声が響いてきた。 「澤木社長、少しいいですか?那乃葉がお風呂でぐずってて、どうしても一人じゃ手に負えなくて......」 凪杜の腕が、触れたものから弾かれたように離れる。 彼はほとんど反射的に絃葉を押しのけた。 「わかった、いま行く」 ドアノブに手をかけたところで、ようやく足を止める。 わずかに振り返り、彼女の顔をちらりと見る。 「ちょっと......様子見てくる」 絃葉が何か言おうとしたその時、別の部屋から那乃葉の大きな泣き声が響き、凪杜はそのまま足早に出ていった。 バタンと、ドアが閉まる。 絃葉は苦笑した。 拳をぎゅっと握りしめる。 胸の奥の冷えは、ますます深くなっていった。 ―― 凪杜が持ってきたご飯とおかずを食べ、少しだけ体力が戻ると、彼女は再び整理を始めた。 不要なものを、すべて処分するために。 そうすればいざ離れる時、楽になる。 寝室の中で、目に入るだけで不快になるものはすべてゴミ袋へ。 結婚式で着たウェディングドレスも例外ではない。 まとめて袋に詰め、使用人に処分を頼む。 ちょうどその時、凪杜が部屋に戻ってきた。 黒いゴミ袋から覗く白いレースが、彼の胸に不安を呼び起こす。 「そのドレス、どこに持っていくんだ?」 絃葉は静かな目で彼を見つめた。 「見飽きたから捨てるつもりよ。場所も空くし」 ――凪杜。捨てられる前に、捨ててやる。 凪杜はその落ち着きすぎた様子に、胸を強く引き裂かれるような感覚を覚えた。 「でも......あのドレスは、一生大切にするって言ってただろ。歳を取ったら、また一緒に着て写真を撮るって......どうして急に?」 絃葉は微笑む。 「新しいのを買えばいいでしょ?」 ――昔大切にしていたのは、自分が唯一の存在だと思っていたから。 だが今は違う。 彼の心も、そばの席も、すでに埋まっている。 このドレスと同じように、自分はこの家で余分な存在になっていた。 相手は子どもまで連れて入り込み、さらに二人目まで身ごもっている。 場所を譲らない理由など、どこにもない。 使用人が袋を持ち上げようとすると、凪杜が手を伸ばして止めた。 「それでも捨てる必要はないだろ。倉庫に置いておけばいいじゃないか」 絃葉ははっきりと言った。 「置いておくだけ無駄だから」 凪杜の表情が一瞬固まる。 「......」 絃葉はそのまま部屋の奥へ入っていった。 胸の奥に痛みを覚えた凪杜は、ふと、自分が五周年の日に彼女を放っておいたことを思い出す。 彼は慌てて追いかけ、後ろから彼女を抱きしめた。 「ごめん。五周年の日、帰れなくて。プロジェクトが重要で、円藤と徹夜で対策を練ってたんだ」 ――余計なことを想像するべきじゃない。 それでも、大人の想像力は残酷なほど豊かだ。 爪がまた深く食い込む。 彼女は疫病を避けるように、その腕から逃れた。 「いいの。もう終わったことだから」 凪杜の目にわずかな罪悪感がよぎる。 彼は彼女の袖をめくり、白い腕に残るくっきりとした噛み跡を見つけた。 怒りが胸に込み上げる。 「これは?」 絃葉は目を伏せる。 「那乃葉に噛まれたの」 凪杜は胸が詰まるのを感じながらも、無意識に庇う。 「子どもは加減がわからないからな。ちょうど歯の生え変わりの時期かもしれないし......」 絃葉は胸が締めつけられるのを感じた。 「......そうね」 凪杜は彼女の腕に軽く息を吹きかける。 「医者も言ってたが、今回の貧血は前よりずっとひどい。しばらくは家で安静にしてろ。外出も家事も禁止だ」 絃葉はまばたきをする。 「20日ほどね」 その口調には、悲しみも不満も一切なかった。 凪杜は眉をひそめる。 「20日で足りるかよ。ちゃんと休め。ちょうど円藤もここに住んでるし、仕事終わりに料理を作ってくれる」 ――ああ、結局そこなのか。 一瞬、心に深い痛みが走る。 絃葉は顔を上げ、彼を見つめた。 かつて、彼を心から愛していた。 一生を共にできる人だと、信じていた。 だからこそ、あれほど自分を大切にしてくれた祖父に逆らい、政略結婚を拒み、すべてを捨てて彼と共に歩む道を選んだ。 白髪になるまで一緒にいたいと願っていた。 ――けれど、この関係は最初から「三人」だった。 しばらく沈黙した後、胸の痛みを押し殺して言う。 「秘書にそこまで頼るの?」 凪杜は視線を逸らし、言葉を濁した。 「別にいいだろ?円藤はもう他人じゃないんだし」 その一言で、胸が鋭く裂けた。 体がふらつき、そのまま倒れそうになる。 異変に気づいた凪杜は慌てて抱き上げ、そっとベッドへ寝かせた。 横になった瞬間、彼の優しげな眼差しが目に入る。 そのせいで、胸が締めつけられる。 絃葉は思わず、小さく呟いた。 「凪杜......二人きりで食事したい。最近、ずっと一緒に食べてないから......いい?」 ――本当に、久しぶりだった。 最後に二人きりで食事したのは、ほぼ一年前の大晦日。 それすら途中で、野々花からの「仕事」の電話で呼び出されて終わった。 実際は、那乃葉が花火を一緒に見たがっただけだったのに。 それでも彼女は一度も責めたことはない。 これだけ理解のある彼女に、これ以上負い目を感じさせるべきではない。 凪杜は喉に何かが詰まったような感覚を覚えた。 「......わかった。段取りする」 絃葉は静かに頷く。 「うん」 ――凪杜。この食事は、最後の食事になる。 これからは、それぞれの道を歩くから。 第7話 凪杜は深く息を吸い、胸の中の重苦しさを押し殺してから、絃葉の隣に横になった。 「会社がどんどん大きくなって、俺もますます忙しくなった。君に構う時間すら取れなくなって......」 声は低く、どこか作られたような優しさを帯びている。 「絃葉、何か欲しいものはあるか?何でもいい。何か罪滅ぼしをさせてくれ」 家、車、宝石、バッグ―― 普通の女性が欲しがるものは、だいたいそのあたりだろう。 けれど、それらは絃葉にとって生まれた時から当たり前にあるものだった。 何一つ、欲しいとは思わない。 彼女が欲しかったのは、ただ一つ――彼の心。 なのに、その心はとっくに別の誰かに与えられていた。 「そうね......」 絃葉は少し考え、淡い声で言う。 「欲しいものは特にないかな。ただ......会社の名義だけど、本当は結婚五周年の日にあなたに譲るつもりだったの。書類とか面倒だし、私が持っていても仕方ないから」 その言葉に、凪杜の心臓が強く打ちつけられた。 「会社を......俺に?」 「ええ」 彼女は静かに頷く。 20歳の時、絃葉は自ら名義人となり、数億円の債務保証を引き受け、彼のためにすべてのリスクを背負った。 そして25歳になった今―― 彼女はただ、この男から離れたいだけだった。 会社も、彼の名義の資産も、何一つ興味はない。 彼女が欲しかったのは、最初から金ではない。 ――金ならいくらでもある。 一生どころか、次の人生でも使い切れないほど。 視線が重なった瞬間、凪杜はあからさまに動揺した。 瞳が揺れ、わずかに怯む。 「どうして急にそんなこと言い出すんだ?俺に渡して......その、怖くないのか?」 言い終わる前に、スマホの着信音が鳴り響いた。 絃葉がちらりと画面を見る。 予想通り、野々花だった。 凪杜は少し離れて電話に出る。 相手の言葉を聞いた瞬間、彼はすぐに立ち上がり、上着を掴んだ。 「落ち着け。子どもに影響が出るのはまずい。すぐ病院に連れていく」 慌ただしくドアへ向かい、ふと思い出したように振り返る。 「絃葉、円藤が腹痛で病院に行くって言うから、送ってくる」 絃葉はいつものように穏やかに答えた。 「いいよ。お腹の子が大事だもの、行ってあげて」 その一言に、凪杜は一瞬言葉に詰まる。 思わず弁解するように言った。 「彼女はシングルマザーで、子どももいて妊娠中だ。いろいろ不便だから......ちょっと手伝うだけだ」 そう言い残し、立ち去ろうとする。 「凪杜」 絃葉の声は静かだったが、背中に針のように刺さる。 「彼女、次々に子どもを産んでるのに......お子さんの父親って一体誰かしら」 その瞬間、凪杜の心臓が跳ねた。 足がぴたりと止まる。 振り返った彼の目には、隠しきれない動揺が浮かんでいた。 「......それは彼女のプライベートだ。上司として、踏み込みすぎるのはよくない」 絃葉はごく薄く笑う。 「そんな顔しないで。ただの雑談よ。大事な部下なんだし、気にかけるのも当然でしょ。ほら、早く行ってきて」 その言葉に救われたように、凪杜は急いで出て行った。 絃葉は窓辺に立ち、黒いポルシェが野々花を乗せてゆっくりと門を出ていくのを見送る。 ふと、胸にわずかな後悔がよぎる。 ――何をしているんだろう。 もう離れると決めたのに、どうして最後の仮面を剥がそうとするのか。 大人の世界は、本来もっと暗黙でいいはずだ。 目が熱くなり、彼女は厚いカーテンに顔を埋めた。 肩が静かに震える。 その時、日野から電話が入った。 声には緊張が滲んでいる。 「お嬢様、検査結果が出ました......あまり良くありません」 絃葉の胸が沈む。 「どういうこと?」 「検体から、慢性的なヒ素中毒の反応が出ています。初期症状は、めまい、頭痛、嘔吐、下痢、吐き気などで......」 全身の血が一瞬で凍りついた。 「......何ですって?」 「お嬢様の状況はかなり危険です。今すぐお迎えに――」 絃葉は目を閉じ、すぐに開く。 指が白くなるほど握りしめられていた。 「いいえ。それよりすぐに解毒剤を手配して。帰るのは......今じゃない」 電話の向こうで数秒の沈黙。 「......承知しました」 通話が切れる。 絃葉の顔色は一気に青ざめた。 思い返す。 自分が貧血によるめまいや吐き気に悩まされ始めたのは――野々花が那乃葉を産んで復帰してから。 あの時、彼女は余った鉄剤と「妊活用サプリ」を渡してきた。 「これ、貧血にも効くし、妊娠にもいいよ」 そう言って、強く勧めてきた。 凪杜の両親からのプレッシャーもあり、焦っていた絃葉は藁にもすがる思いで、その日から服用を始めた。 その後も、野々花は何度もそれを持ってきた。 断続的に――3年間。 絃葉の視線が、ドレッサーの上の瓶に止まる。 それは、野々花が二人目を妊娠した時に渡してきた鉄剤だった。 彼女はそれを手に取り、無機質な瓶をゆっくりと回す。 そして、迷いなくバッグに入れた。 日野が解毒剤を持ってきた時、絃葉はその瓶を渡した。 そして三日後。 結果は、予想を裏付けた。 そのカプセルには、微量のヒ素が混入されていた。 長期間服用すれば、めまいや吐き気、失神を引き起こすのは当然だった。 もし彼女が元々薬嫌いで、適当にしか飲んでいなかったのでなければ、今頃、もう生きていなかったかもしれない。 野々花は、彼女を殺そうとしていたのだ。 背筋を冷たいものが駆け上がる。 指先が冷えきる。 だが、まだ間に合う。 日野の用意した解毒剤はよく効き、体内の毒はすぐに抜け、症状も消えた。 あと20日。 家の中の整理はほぼ終わった。 捨てるものは捨て、処分するものもすべて片付けた。 ――次は、人だ。 あの鉄剤の瓶は捨てなかった。 そのまま野々花の部屋のベッドサイドに置き、同じものとすり替えた。 すべて終えると、絃葉は親友の細谷悠(ほそや ゆう)に電話をかける。 「悠、ちょっと会える?頼みたいことがあるの」 「えええ!?」 電話の向こうで大げさな声が上がる。 「絃葉、どうしたの!?旦那さんをほったらかして、やっと私と遊ぶ気になったの?!」 絃葉は思わず笑った。 「バカ言わないで。一時間後、いつもの場所でね」 電話を切る。 笑みは残っていたが、目は少しだけ滲んでいた。 ――本当に、馬鹿だった。 「良き妻」になるために、何度も友人の誘いを断り、気づけば自分の世界は彼だけになっていた。 もう、そんなことはしない。 失ったものを、少しずつ取り戻していく。 焦らなくていい。 現実を見た今、残るのはただ別れだけ。 バッグを手に取り、彼女は家を出た。 かつてよく通ったカフェへ。 約束の時間より早く、悠が現れる。 栗色のショートヘアに、黒いキャミソールワンピース、サングラスをかけたその姿は相変わらず派手だった。 風のように駆け寄り、絃葉を強く抱きしめる。 「で、何頼みたいの?」 絃葉は唇をわずかに上げ、彼女の耳元で囁いた。 「一人用意して。凪杜を誘惑させたいの」 その瞬間、悠の目が大きく見開かれた。 「ちょっと待って......え?本気で言ってる?」 第8話 悠は状況が飲み込めず、絃葉を見つめたまま首をかしげる。 なぜそんなことをしようとするのか、まったく理解できなかった。 絃葉が説明しようとしたその時――カフェのドアが押し開けられた。 入ってきたのは、凪杜と野々花。そして千晶。 しかも凪杜は、当然のように野々花の肩を抱いている。 その手と、彼女のふくらんだ腹に視線を奪われ、悠は息を呑み、声を潜めた。 「つまり......あのクズ男、浮気してるってこと?」 絃葉は目の前のコーヒーを手に取り、一気に飲み干す。 「ええ。私もつい最近知ったの。あの二人、もうずっと前から――」 「ねえ、ダーリン。足がだるいの」 「いいよ、揉んであげる」 「ダーリン、ジュース飲みたい」 「ああ、飲ませてあげる」 「おいおいお前ら、独り身の前でそんなイチャつくなよ。見てられねえって」 耳障りなやり取りに、絃葉の言葉は遮られた。 思わずそちらを見ると、口元が固まる。 悠はすでに三人を凝視しており、顔色は真っ青だった。 「ちょっと......何あの恥知らずトリオ。つまりさ、あいつ前から裏切ってたくせに、外ではあんたにベタ惚れのフリしてたってわけ?」 「ええ。驚いたでしょ?」 絃葉はもう一杯コーヒーを飲み干し、かすれた声で言う。 「私も、びっくりした」 ―― 「ダーリン、このジュース冷たい。口移しで飲ませて」 「いいよ」 凪杜はオレンジジュースを口に含み、千晶の目の前で、そのまま口移しで野々花に飲ませた。 なんともお似合いの最低な二人だ。 「うわっ、やりすぎだろお前ら!野々花も、甘え方うまいなあ!」 千晶は向かいで盛り上がっている。 悠はついに堪えきれず、皿を掴んで立ち上がった。 「あの野郎......舐めてんのか?!あんたの実家がどれほど――」 絃葉は慌てて彼女の腕を引いた。 「悠、落ち着いて!」 「これ見て落ち着いていられる!?ここまで図々しいの初めて見たんだけど!」 「私もイライラしてるよ。でも」 絃葉は声を落とす。 「クズ同士で噛み合うほうが、よっぽど面白いでしょ。とにかく今は我慢して、場所を変えましょう」 ―― 絃葉はもともと冷静な性格だ。 その夜、悠と作戦を練りながら、感情に任せて酒をかなり飲んだ。 帰宅後、そのまま眠りに落ち、翌日の午後まで起きなかった。 頭が鈍く痛む。 「伊藤さん、蜂蜜水をお願い」 使用人の伊藤は蜂蜜水を運んできてテーブルに置いたが、どこか言いにくそうにしている。 「どうしたの?」 伊藤はため息をついた。 「奥様はお人好しすぎますよ。だから、あんなふうに舐められるんです」 絃葉はかすかに笑う。 「どういう意味?」 伊藤はベッドの端に腰を下ろし、小声で言った。 「昨夜、旦那様と円藤さん、どちらも帰ってきませんでした。最近、ずっと一緒に出入りしてますけど......奥様は何も聞かれないんですか?」 以前から伊藤はそれとなく注意してくれていた。 だが当時の絃葉は、凪杜を疑うことなど一度もなかった。 ――本当に、馬鹿だった。 自嘲気味に笑う。 口を開こうとしたその時、廊下の向こうからペコの悲鳴のような激しい鳴き声が響いた。 振り向くと、那乃葉がリードを思い切り引き絞り、ペコの首を締め上げながら無理やり引きずり込んできていた。 「ウウッ......!」 首輪が皮膚に食い込み、ペコは苦しげに鳴く。 那乃葉は足で蹴りつけながら叫ぶ。 「このブス犬!嫌い!死ねばいいのに!」 伊藤さんは慌てて駆け寄る。 「那乃葉様!ダメです!それは奥様の――」 言い終わる前に、那乃葉は思いきり足を振り上げ、ペコの腹を踏みつけた。 小さな体にヒールが食い込み、ぐりぐりと押し潰す。 「だから何?いつも私に吠えるし、大事なドレスも噛んだんだから!パパも言ってた、私をいじめるやつは許さないって!伊藤さんも、早く一緒に叩いてよ!」 顔を上げた那乃葉の視線が、絃葉とぶつかる。 その目は怒りと驚きに満ちていた。 「那乃葉、ペコを放しなさい!」 鋭い声。 那乃葉は一瞬怯んだ。 だがすぐに反発するように、さらに強く踏みつける。 「やだ!この犬が悪いの!これはパパがくれたドレスなの!」 「パパ」という言葉が、耳に突き刺さる。 彼女はずっと絃葉を「お義母さん」と呼びながら、凪杜だけを「パパ」と呼んでいた。 ――なのにそれに気づかなかった自分は、那乃葉を本当の娘のように可愛がっていた。 今思えば、あまりにも滑稽だった。 「放しなさい!」 声が一段と冷える。 那乃葉はその見たことのない冷たい眼差しに、ようやく怯え、足をどけた。 ペコは小さな体の犬だ。 絃葉は駆け寄って抱き上げる。 指先に触れたのは温かく、ぬめった感触。 ――血だった。 それだけではない。 ぐったりとした体は、鳴く力すら残っていない。 頭が真っ白になる。 「ねえ、死んだ?ほんとムカつくから、死んでほしいな」 無邪気に覗き込んでくる那乃葉。 絃葉は怒りを押し殺し、静かに問いかける。 「どうして、死んでほしいの?」 「だって死んだら、絃葉お義母さんに犬の子どもいなくなるでしょ?そしたら那乃葉を養子にできるもん!パパと絃葉お義母さんとママの、一番大事な子になれる!」 甘い笑顔。 その奥にある残酷さ。 ――背筋が凍る。 絃葉はしゃがみ込み、そっと頬を撫でた。 「那乃葉は一番にはなれないよ。那乃葉のママ、また赤ちゃん産むんだから」 那乃葉の体が固まる。 「嘘だ!」 「嘘じゃないよ。弟が生まれるの。白くて、ぷくぷくして、きっともっと可愛い。那乃葉より、ずっとね。だからペコを殺しても意味ないよ。みんなすぐ弟に夢中になるからね。 私も、あなたじゃなくてその子を選ぶかもよ。ね?那乃葉」 「うわああああ!」 那乃葉は大声で泣きながら部屋を飛び出した。 すぐに物を壊す音が響く。 絃葉の表情から笑みは消えていた。 子ども相手に構っている余裕はない。 彼女はペコを抱え、すぐに外へ飛び出した。 ―― 幸い、処置は間に合った。 傷は主に外傷で、命に別状はなかった。 家に戻り、ようやく一息ついた時。 スマホが震えた。 悠から動画が送られてきている。 再生すると―― 画面の中で、野々花が取り乱した様子で凪杜に飛びかかり、顔を引っかいている。 そしてその下には、別の女が押さえつけられていた。 続けて音声が届く。 「見てこれ!クズ同士で噛み合ってる!めちゃくちゃ面白いよ!」

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